伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

拓郎、登場

2016年02月14日 | エッセー

 久方ぶりに顔を見た。2月11日、テレ朝『報道ステーション』に登場。約20分、古館伊知郎のインタビューを受けた。以下、その略筆を記し勝手なコメントを打(ブ)っ込みたい。


 古館が「わたくし、よく怒られるんですが、しばし偏った放送を楽しんでいただきます。なぜなら、あまりにもファン心理が強いから」と司会交代への皮肉とも取れる前置きをし、拓郎を招き入れた。
「じっとしていたい心境があって、2年弱、家にいた。体調は普通。元気な方に入る。今年70で、どっか痛いし、痒いだろう。それはしょうがない。昔は食事が嫌いでただ呑みたかったが、最近は食事が好き。妻と食事をして幸せな時間を感じている」
──「テレビに出ない宣言」はどうして。
「初めての出会いが良くなかった。冷たくされた。『帰れ!』『バカヤロー!』と言われ、泣きたくなった。曲は『マークⅡ』だった」
──夜、呑みながら拓郎を聴く。それは多感な頃の「育て直し症候群」である。新しいメッセージの発見がある。学生運動が激しかった頃、別の生き方を示した拓郎が福音だった。
「メッセージがどう伝わるかはあまり考えていなかったが、『イメージの詩』や『今日までそして明日から』は誰でも書けた曲だ」
「『襟裳岬』のデモテープを渡した後、反ってきた曲の頭がトランペットだった。驚いて、倒れちゃった! でも演歌はこういうものなのかと1つ大きな納得があった。その後、森さんがテレビで歌うのを見てこれしかないと思い始めた」
「安井かずみさんや岡本おさみが亡くなったのは悲しいし、寂しい。安井さんはなぜかかわいがってくれた。でも、あんたたちが汚い格好してノートに書き付けた詩を歌ったり、芸能界をダメにした。沢田研二を見なさいよ。と、よく言われた。それ以来、沢田研二を妙に意識し始めた」
「ジュリーを筆頭にしたあっち側が居心地がよかった。ジュリー・サイドに生きたかった。今、本気でそう考えている」
「断言しておくと、僕はこっちにいるべきではなかった。タイガースに加わりたかった。だめならなんとかズをつくって」
「僕の曲はフォークではない。岡林さんまではフォークだったが、吉田拓郎からはもうフォークとはいえない」
──ショックだなー。金返せ状態ですよ。
「今だからいえることで、つま恋で言えなかったことだ。ナベプロに行きたかった」
「今年はコンサートをやる。アルバムも出す。ライブは一泊が限界だが、北は埼玉から南は横浜までの、やはり日帰りでやりたい。歳だから許してほしい」
──拓郎さんのコンサートに頻尿だから行けないと言った同輩がいた。
「頻尿の人は来ないでほしい。二十歳のころ、こんな自分になるとは思ってもみなかった。頻尿と紙おむつの人の前で歌う自分を想像してなかった。ジュリーになれっていわれてたんだから」
──吉田拓郎が世の中をかき乱した以上は最後はそこで皆さんに安らかになってほしいと、責任を取ってほしい。
「『祭りのあと』の『死んだ女にくれてやろう』なんて、解らずに歌っていたが怖い歌だ。今、言葉尻でじんとくる」
「フォークの連中は20代で老成していた。年コきすぎていた。二十歳の若い者が『祭りのあとの寂しさは』なんて歌うべきではなかった。ごめん!」


 「2年弱、家にいた。体調は普通。元気な方に入る。今年70で、どっか痛いし、痒いだろう」……体調普通で家にいる。07年以来の病なのか。一進一退か。ファンの末席を汚す一人として、変に暗示を嗅ぎ取ってしまう。しかし表情も受け答えもいつもと同じ。「痒い」には「ご同輩!」と、妙に納得した。
 「テレビに出ない宣言」は、夙に知られた話。さすがに布施明の名は出なかったものの、『帰れ!』『バカヤロー!』は初めて耳にした。
 古館のいう「育て直し症候群」とは生物学者・岩月謙司氏の提唱するあれか。不倫、援助交際などの性的逸脱行動の原因は幼児期の愛情不足にある。治療にはもう一度育て直す必要があるとして、大の大人にオムツを付け、哺乳瓶を咥えさせる、風呂にも入れてやり、添い寝してやるというものだ(余談だが、件のケンスケ君もこの施療をしてもらってればよかったのに)。
 拓郎の洗礼を受けたのは15・6のガキだったと、古館は言う。それで福音だったというのだから、ずいぶんませたガキだったはずだ。ならば「育て直し」は不要だし誤用のような気もするが、一種のタイムスリップ願望かもしれない。
 「『イメージの詩』や『今日までそして明日から』は誰でも書けた曲だ」とは拓郎一流の照れ隠しであろう。「誰でも書け」る時代の風を詩(ウタ)に紡ぐのは並みの才覚ではない。かつて小田和正は『今日までそして明日から』の
〽生きて“みま”した
 に痺れたと語ったことがある(「生きて“きま”した」ではなく)。当時25歳、後半に出てくる「老成」の一典型だ。
 『襟裳岬』のずっこけエピソードは要注意だ。ライブのMCで何度も語った話だが、意味が逆だ。MCではファンを相手だから揶揄(「そんな曲じゃない」と)、今回は本音。そうともいえようが、臨機応変、変幻自在、君子豹変は拓郎の真骨頂である。どちらも本当なのだ。なんせ、今まで何度休業宣言を繰り返したことか。「もうこれは歌わない」と言いつつ、何度リメイクしてきたことか。学者や政治家ではないのだから、発言に責任を持つ必要はひとっつもない。こちらが受け取りたいのは歌だけだ。
 拓郎が『フォークのプリンス』と呼ばれていたころ、確か月刊芸能誌でジュリーと対談したことがある。差しつ差されつ話は進み、そのうち何度もジュリーがトイレに立ち始めた。拓郎は平気なのに、ジュリーは吐きつつも対談を止めなかった。負けず嫌いなのか、ジュリーもさすがではある。
 「ショックだなー。金返せ状態ですよ」については、古い拙稿「赤いちゃんちゃんこ」(06年4月)をご参照願いたい。「たくろうの大いなる足跡 ―― それは、フォークに身を置きながら軽々とフォークを超えたことだ。一気に音楽シーンの垣根を取り払ったことだ」と記した。ちょうど10年前、拓郎が還暦を迎えた年だった。今年、古希だ。
 古館は真面目だから、拓郎の謙抑や諧謔、あるいは自虐が嚥下しかねるのかもしれない。あるいは往年のプロレス中継のノリか。
 頻尿噺は笑える。いな、身につまされる御仁も多かろう。だが、笑い過ごすわけにはいかない。09年63歳の『ガンバラないけどいいでしょう』、12年66歳の『僕の道』を忘れてはならないからだ。どちらも拓郎作詞作曲。前者は13年アサヒビール“アサヒふんわり”のCMソングに、後者は12年NHK『ラジオ深夜便』に使われた。双方、実に巧いフィーチャーだ。
 拓郎の言う「こっち」の連中で、これほど年相応、身の程弁えた曲を作れるミュージシャンを知らない。絶無にちがいない。たいがいが過去の遺産で食いつないでいるか、いまだに昔のままの一本調子か、多少のグレードアップか、耳を疑うほどのメタモルか、そのいずれかだろう。「年相応」は人一生における最難事ともいえる。衒いも欲も、見栄も外聞もかなぐり捨てて相応に年を取る。特に「こっち」側では荷厄介にちがいない。だから下手をすると、「シェケナベイビー」をネタにして強面キャラで明けて通してもらう他に生き延びる術のない奇っ怪なロッカーが出現したりする。だから、いかに拓郎がスマートか。別けてもこれら2曲は珠玉の名曲といっていい。ステロタイプを避け心情に真率であるべきフォークの原点であり、音楽史上の快挙ともいえる。紙おむつといえども、徒や疎かにしてはならない。
 オーラスの「ごめん!」。11年のNHKスタジオライブ中、インタビュアーの田家秀樹が最後に抱負をと向けると、「ほっといてくれ!」と返した。5年前と様変わりというべきか、相変わらずというべきか。猫被りか、本心か。本心であるはずがない。なんのことはない。天下御免の「ごめん」だ。 □