伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ラジオじゃダメだよ

2011年05月23日 | エッセー

「きょうは美空ひばりの特集かい?」
 遠くにテレビの音を聞きながら、家人に訊いた。実はものまねの特集で、青木隆治という最近売り出し中のそっくりさんの歌声だと言う。
 は、は、だまされたか。これは、「オレオレ詐欺」の亜種ではないか。騙されついでに、そう考えた。
 近年、ものまね番組が隆盛だ。審査員席にものまねのできない芸人が座り、ものまねのできる芸人を評する。芸人なら芸が豊富な者こそ上座であろうに、芸の貧困な者が上から断を下す。まことに滑稽な図だ。芸人の芸人による芸人のための学芸会といったところか。安直な視聴率稼ぎの企画に、まんまと嵌められるこちらも情けない。何度も引くので気が引けるが、タモリの名言「お前ら、素面でテレビなんか見るな!」が何度も過ぎる。
 それにしても、ものまね芸になぜ人気があるのか。気が引けるが、またしても引いてみる。

■根源的には「知りえない」事実という核に、言葉を付け加えることによって、われわれは世界を豊かにするのである。報道やノン・フィクションがそれを目指してきたか。公平・客観・中立をいい、重箱の隅をつつき、他人の非を徹底して追及することによって、逆に世界を貧しくしてきたのではないか。それが売れない、はやらない、どうしていいかわからない、などの根本的問題を生んだのではないのか。そこにマンガが流行し、ファンタジーつまり「ハリポタ」が世界的に数億部を売るという現象の根拠がある。
 マンガもファンタジーも、新聞とは違って、はじから「真っ赤なウソ」というラベルが貼ってある。人々はその世界に浸る。そして「人生の真実」をむしろそこで発見するのである。なぜかって、すでに述べたように、国家ですら、虚構といえば虚構だからである。なぜフィクションのほうがいいのか。言葉という、いわばはじめからフィクションでしかない(失礼)ものに、ある種の絶対性を与える文化が、世界的に普遍化しつつあるからである。私が原理主義に批判的な理由もそこにある。
 西洋の町の中心を占める、ひときわ目立つ、二つの大建造物がある。それは教会と劇場である。この二つは、なにを意味するのか。「この中で生じることは真っ赤なウソですよ」ということを、あの立派さが保証しているのである。建物を立派にすることによって、これはマンガだとか、フィクションだとかいう、それに等しい安心感を人々に与える。だからあの二つの建物ほど、現実の役に立たないものはない。近年でも教会に避難した全員が虐殺されたという事件が、アフリカであったはずである。■(養老孟司著「大言論 Ⅲ」から)

 つまりは、「真っ赤なウソ」を愉しむのが「ものまね」であろう。知りつつ騙されるのだ。だから、テレビだ。これがラジオでは洒落にならない。音だけでは「オレオレ詐欺」になってしまう。いかな年寄りでもテレビ電話では騙せまい(目の薄い老人であれば、振り込み自体ができない)。視ることは「百聞」を凌ぐからだ。ラジオがそっくりさんであることを隠して歌番組を流したら、冗談にもならない。立派な詐欺だ。だから、ものまね番組はテレビにしてはじめて可能だ。いな、テレビもしくは舞台に限る芸である。「教会と劇場」がテレビだ。「この中で生じることは真っ赤なウソですよ」と、「保証している」からだ。テレビこそ、「『真っ赤なウソ』というラベル」そのものではないか。そうなると、ものまねは聞かせるのではなく、見せる芸であることがその属性であろう。
 だからコロッケは最初、口パクの顔まね、形態まねで売ったのだ。声音を真似しはじめたのは「深化」をめざしてであろうし、その精進は充分報いられている。だが、コロッケの『旨み』は形態にこそある。歌い手の個性を抽出し、これでもかとデフォルメする。デフォルメは芸の伝統的本質のひとつだ。すでにしてホンモノを喰っている、いや、超えている。これぞ芸だ。立ち枯れ寸前だった歌手Mなぞは、コロッケの後光で季節外れに花を咲かしているにすぎない。足を向けて寝ては人の道を外れる。
 比するに、青木くんは見世物の域を出ていないのではないか(修錬によって身につけたものが芸、珍奇で人を呼ぶのが見世物とすれば)。どんなに似せても、ホンモノを超えることは絶対にできない。他者に較べ、似せる度合いを縮めるにすぎない。本物そっくり、「それがどうした?」でしかない。どこまでいっても、「真っ赤なウソ」だ。「真っ赤」ではあっても「ウソ」に替わりはない。アプリオリな資質で売っても、ホンモノには手を束ねている。ともあれ、ものまね「芸」としてはコロッケこそ正統である。なぜなら、コロッケはラジオでは通じないからだ(いつも見るテレビの姿を想像することはあっても)。逆に、青木くんは危ない。ラジオではなんとか詐欺になりかねない。
 「逆に世界を貧しくしてきた」「報道やノン・フィクション」と同じ位相にいるホンモノたち。ものまねの繁昌は、その不作に補いをつけているのかもしれない。□