伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

“I” と “You”

2016年11月08日 | Weblog

 荒っぽい愚考になお蛇足を加えつつ、荒唐無稽な愚案を捏ねる。
 9月の拙稿「月がとっても青いなあ」で、漱石の絶妙な訳文から奇想が以下のごとく跳んだ。
<さらに無理やりな揣摩をすすめるなら、英国文化の底を垣間見ることができるのではあるまいか。
 “I”は一人称。複数形では“We”であるが、これ一つ限(キ)りだ。日本語では私・俺・僕・おいら・あたい・儂・うち・手前、自分などなど、実に多い。七つの海を支配した大帝国ゆえに、国際語として枝葉をギリギリ剪って簡略化したという事情はあっただろう。しかしそれを差っ引いても、単純この上ない。かつ相手が誰であろうとこれひとつだ。日本語の一人称が、話者と相手との関係で巧みにトポスを変え多様に変化するのとは大いに異なる。なぜか。
 相手はひとりしかいないからだ。
 そのひとりとは神である。唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっているからだ。“God”と対するなら“I”のトポスは不変だ。いかなる高位者であろうとも“Godに向き合うI”に比するなら、神の僕(シモベ)以上の意味はもたない。常に“Godに向き合うI”からの発語なのだ。しかも日常的には“Godに向き合う”の部分が捨象され、“I”だけが残る。だから、これ一つ限りになる。
 ついでに、“You”についても愚案を重ねる。いうまでもなく二人称である。こちらも“You”一つ限(キ)り。ところが一人称には複数形があるのに、なぜ二人称は単複ともに“You”なのか。これがかねてよりの疑問であった。だが如上の愚見を踏まえると、謎は氷解する。つまり、“You”とは神だからだ。唯一の絶対者であるのだから、当然複数形はあり得ない。これがプリミティヴな成り立ちだ。複数を兼ねるのは派生の一形態だろう。>
 実は「“You”一つ限り」ではなく、“Thou”があった。「あった」というのは文字通り過去形だ。聖書の初期英訳やシェイクスピア作品には頻出し、近代初期までの文学作品に隠顕され、今ごく一部の英国方言に残る。死語に近い。古語ゆえに「汝」や「そなた」と邦訳される。親しく、なれなれしく、時には無礼を含意した。ともあれ上位者から下位者に向けられる言葉だ。これには複数形“thous”、“ye”がある(あった)。複数形をもつのは、前稿の「“You”とは唯一の絶対者」との私見に立つなら納得がいく。ベクトルが逆さまだからだ。
 遠近はあるものの先ず“I ⇒ God” がある(“Yahweh”や“Lord”は”God”と同じく「主(シュ)」の固有名詞)。発語の対象は神だ。なぜなら救いはそこからなされる。否、そこにしかないからだ。十戒は「わたしをおいてほかに神があってはならない」で始まる。これは神と人との関係を規定する最重要の戒めである。続く「偶像崇拝と軽信の禁止・安息日の遵守」の3戒も神との関わりを定める。残り6戒は人対人の掟だ。「不孝・殺人・姦淫・盗み・偽証・欲念」を禁ずる。これらに先んずる戒めが前半4戒、別けても第1戒である。救いの教えである以上、救いを懇請する発語の主体“I”にとっては救い主こそが向かい合う第一で唯一の二人称だ。対人は二義的、派生的関係でしかない。モーゼが神から授けられた戒律はそのように読める。つまりは、“God=You”である。“You”が原初的に単数である所以だ。
 浅識非才を顧みず鳥瞰すれば、「唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっている」なら「向き合う形」が人称を規定するのは当然であろう。そういう結構にまで至らねば“I” と “You”は了見できまい。
 してみれば、8年前バラク・オバマの“Yes We Can.”がなぜ米国人の心をしたたかに掻き毟ったのかが見えてくる。“Yes”は聴衆にではなく、神への応答なのだ。聞こえざる神の下問に、先ずはいの一番に応じる。ただひとりの“You”に向かい、真っ直ぐに声を上げるのはただひとつの一人称複数形“We”だ。コーカソイドもニグロイドも、神の御前(ミマエ)に隔てはない。“Can”は鼓舞である前に「誓い」だ。“You” と “I”、この古層が彼(カ)の国民の心象に響かないわけはない。
 今、一人称のみを言挙げする候補が急伸している。二人称は限りなく三人称化しつつある。これはこの国の古層と乖離してはいないか。深層が変化しているのか。病が亢進したのか。trumpゲームでないことは確かだ。 □

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« 長城は連なる | トップ | 超速報 蒙古襲来!! »