伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

やっぱり、ウロボロス

2015年09月15日 | エッセー

 本年4月の拙稿「ウロボロス撃退法」を抄録する。
〓(ウロボロスから)ヘビにテメーの尾っぽを噛ませることで自死に至らしめるという奇策が浮かんだ。最低限、周りに危害は加えなくなる。ワナも毒も要らない。刃物もハジキも使わない。極めて人道的、というか“蛇道”的撃退法ではないか。
 想念は集団的自衛権に跳んだ。与党が合意した「集団的自衛権の行使の新3要件」である。曰く──
日本と密接な関係にある他国が攻撃を受けた際、
(1)我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
(2)武力行使以外に適当な手段がない
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる──というものだ。
 法案に落とす際、(1)は「存立危機事態」という呼称になるそうだ。で、再度「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利【=存立】が根底から覆される明白な危険【=危機】がある」場合【=事態】を翫味すると、これは限りなく「個別的自衛権」に近似してないか。いや、個別的自衛権そのものである。だって「明白な危険」は、「我が国の」といっている。属格は日本という“個別の”国である。つまり「集団的自衛権」という毒ヘビに「存立危機事態」というテメーの尾っぽを噛ませることだ。ぐるぐる回っているうちに力尽き、やがてヘビは自死に至る。自縄自縛の高等戦術といえなくもない。史記の「商君列伝」に、こういう話がある。
 秦の富国を図るため、宰相の商鞅は厳格な法治を行う。ために反感を買い、身に危険が迫る。ついに国外逃亡を試みるが、身元不明者の宿泊を禁ずる新法によって捕らえられてしまう。その新法は自国民を国内に縛り付け流出させないため、なんと自らが制定したものだった。苛政への恨みか、商鞅は四肢を馬に引かせて八つ裂きにする極刑に処せられた。自縄自縛の故事である。〓
 永田町は大団円を迎えつつある。ここだけの話だが、成立に臍を噛んでいるのは実は外務官僚にちがいない。湾岸戦争以来25年、「ショー・ザ・フラッグ」は外務省のトラウマである。イラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と、せっつかれた。集団的自衛権は外務省の悲願であった。ところが難産の末に産み落とされたのはとんでもない鬼っ子、似て非なるものであった。さぞ胸中憮然、悄然たるものがあろう。平成の商鞅といえなくもない。
 佐藤 優氏は本年6月刊の「知性とは何か」(祥伝社新書)で、次のように肝を捌き出している。
◇実態として見るならば、この閣議決定で厳しい縛りがかかり、以前よりも自衛隊の海外派遣は難しくなった。「こんなに縛りがついているんじゃ米国に要請されても、自衛隊を派遣することができない。今までは憲法上容認できないという言い訳ができたが、文言の上では集団的自衛権を認めているので、今後は政治判断で自衛隊を派遣しないことになる。日米の信頼関係にマイナスになる危険をはらんでいる」(外務省OB)との見方が事柄の本質を衝いている。◇
 「厳しい縛り」とは、国会審議がそれを証明している。野党から微に入り細を穿たれると、「総合的判断」を連発するしかない。なぜか? 使いたくても、「こんなに縛りがついている」からだ。「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、今後とも決してない」というアンバイ君の答弁はめずらしく正直、語るに落ちた。憲法学者の木村草太氏も、「個別的自衛権の行使としても正当化可能なケースについてのみ、集団的自衛権の行使を限定的に認める──7.1閣議決定は、そういうふうに読むことが自然な内容になっています」と語っている。
 米国に要請されて憲法を盾に断る。それでも「ショー・ザ・フラッグ」「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」に抗し切れず、特別措置法で応じる。ところが今度は、『切れ目ない』法律が切れ目なくレギュレーションを掛けてくる。憲法を盾にはできない。縛りだらけの下位法に依る「政治判断で自衛隊を派遣しないことに」なり、「日米の信頼関係にマイナスになる」。「実態として見るならば」、これが肝だ。
 アンバイ君は実を捨てて名を取った。ご先祖様に顔向けはできる。自身の遺伝的トラウマは晴れるであろう。可哀相なのは外務官僚。実も取れず手にしたのは使えない名刺だけ。ために両両相俟って戦争反対の健全なる国民的常識を喚起する、つまりは寝た子を起こす大きな功績を残したといえる。
 ウロボロスとは無始無終の象徴である。エラい毒々しい象徴だ。事が阿漕なだけにこれが似合いともいえる。なににせよ、気分のいい一週間とはいくまい。 □