伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

今年ときめきの新書三作

2015年09月03日 | エッセー

 新書とはなにか。齋藤 孝氏はこう答える。
◇学問の世界における「大人の階段」──高校生と大学生を分けるのは、どれだけ文庫から新書に脱皮できたかにかかっている。大学生なら、各界の第一人者が何を考え、どんな主張をしているかを知っておく必要がある。
 新書コーナーをチェックしないことがいかにもったいないか。やや大袈裟にいえば、新書コーナーは「知性と現代が交錯するライブ空間」なのだ。その存在を知らなければ、知性的にもなれないし、現代も語れない。◇
 これもメディアファクトリー“新書”『10分あれば 書店に行きなさい』(12年)からの引用である。「大人の階段」とは、当時香川照之が歌い出演した保険のCMであろう。いまさら高校も大学もないが、要は『大人の段階』の話だ。「知性と現代が交錯するライブ空間」とは言い得て妙だ。
 今年はまだ三分の一を残している。「今年・・・」というには早すぎるかも知れない。ひょっとしたら四部作になるか、あるいはどれかを外して三部作にするか(「三」に拘るのは三種の神器、鼎の軽重など文化的基数ゆえ)。まあ、市井のディレッタントのすることである。大目に見ていただきたい。僅かな読書量から「ときめいた」3冊を挙げれば次のようになる。
   一、鷲田清一『しんがりの思想』 角川新書 4月刊
   一、高橋源一郎『ぼくらの 民主主義なんだぜ』 朝日新書 5月刊
     ※「ぼくらの」の次にスペースを入れたのは原書はそこで改行しているため
   一、養老孟司『文系の壁』 PHP新書 6月刊
 奇しくも4・5・6と連月となった。他意はない。

 しんがりの思想    ※鷲田清一 49年生まれ、元阪大総長、哲学者。
 副題が「反リーダーシップ論」。amazonのコピーを引く。
──やかましいほどにリーダー論、リーダーシップ論がにぎやかである。いまの日本社会に閉塞感を感じている人はとくに、大きく社会を変えてくれるような強いリーダーを求めている。しかし、右肩下がりの縮小社会へと歩み出した日本で本当に必要とされているのは、登山でしんがりを務めるように後ろから皆を支えていける、または互いに助け合えるような、フォロアーシップ精神にあふれた人である。そしてもっとも大切なことは、いつでもリーダーの代わりが担えるように、誰もが準備を怠らないようにすることであると著者は説く。人口減少と高齢化社会という日本の課題に立ち向かうためには、市民としてどのような心もちであるべきかについて考察した一冊である。
 縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである。新しい市民のかたちを考える。──
 併せて、「右肩上がり」」から「右肩下がり」へと向かった変遷を鋭い視点から繙いている。
◇「成長」という強迫観念に囚われたひとたちは、「縮小」や「減益」の気配に怯える。この怯えを、このひとたちはこの社会の未来を案じるからだと言う。しかし、ほんとうにそうなのか。「成長」の予感が安心をもたらす社会、「縮小」へとなかなかに反転できない社会というのは、じつは未来をあなどる社会ではないのだろうか。◇(上掲書より抄録)
 これが肝であろう。別けても、次の指摘は胸に刺さる。
◇「足るを知る」という古人の知恵、いいかえるとダウンサイジングというメンタリティに、いまだれよりも近いところにいるのが、というか、そうならざるをえない場所へいちばん先にはじき出されたのが、いまの若い世代なのかもしれない。骨の髄まで「成長」幻想に染められているそれ以前の世代には、過栄養という不自然が不自然には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。◇(上掲書より)
 鷲田氏も団塊の世代である。「ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代」の一人だ。「縮小してゆく社会には対応できない」。むしろ「いまの若い世代」にこそ「古人の知恵」を賦活するポテンシャルがある。なんという洞見であろう。恥じ入りつつ快哉を叫ばざるを得ない。
 必要なのは「しんがり」が努められる人だとし、故梅棹忠夫の次の言葉で論を括る。
 「請われれば一差し舞える人物になれ」
 心底にときめく一閃だ。

 ぼくらの 民主主義なんだぜ   ※高橋源一郎 51年生まれ、明治学院大教授、作家。
 amazonのコピーから。
──日本人に民主主義はムリなのか? 絶望しないための48か条。
 「論壇時評」はくしくも3月11日の東日本大震災直後からはじまり、震災と原発はこの国の民主主義に潜んでいる重大な欠陥を炙り出した。若者の就活、ヘイトスピーチ、特定秘密保護法、従軍慰安婦、表現の自由……さまざまな問題を取り上げながら、課題の解決に必要な柔らかい思考の根がとらえる、みんなで作る「ぼくらの民主主義」のためのエッセイ48。
 大きな声より小さな声に耳をすませた、著者の前人未到の傑作。11年4月から15年3月まで、朝日新聞に大好評連載された「論壇時評」に加筆して新書化。──
 これこそまさに「知性と現代が交錯するライブ空間」である。目次を拾うと、
──ことばもまた「復興」されなければならない/スローな民主主義にしてくれ/民主主義は単なるシステムじゃない/〈東北〉がはじまりの場所になればいい/国も憲法も自分で作っちゃおうぜ/自民党改憲案は最高の「アート」だった/ぼくらはみんな「泡沫」だ/戦争を知らない世代こそが希望なのか/選ぶのはキミだ 決めるのはキミだ 考えるのはキミだ/「考えないこと」こそが罪/わたしたちは自ら望んで「駒」になろうとしているのかもしれない/ぼくらの民主主義なんだぜ/「アナ雪」と天皇制/クソ民主主義にバカの一票/「怪物」は日常の中にいる──
 4年間の論壇についての評論である。48本、ほとんどのイシューを網羅するといえる。登場する論者は2百人を超えるだろう。並の膂力ではない。全編を流れる「柔らかい思考の根」にときめきを覚える。例えば、こうだ。
◇北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。海外のメディアは、「ロケット」と呼んでいるみたいだけど、日本にいると、目に飛びこんでくるのは「ミサイル」ということばだ。弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的なら「ロケット」というらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。◇(同書より)
 この口気からして「柔らかい」。しかし、弱さとは対極にある強靱な知性だ。「知性と現代」が切り結んだ迫真の平成クロニクルである。

 文系の壁   ※養老孟司 37年生まれ、解剖学者、東大名誉教授。
 以下、amazonのコピーから。
──「理系は言葉ではなく、論理で通じ合う」「他者の認識を実体験する技術で、人間の認知は進化する。」「細胞や脳のしくみから政治経済を考える」「STAP細胞研究は生物学ではない」……。解剖学者養老孟司が、言葉、現実、社会、科学研究において、多くの文系の意識外にあるような概念を、理系の知性と語り合う。
  『すべてがFになる』などの小説で知られる工学博士森博嗣、手軽にバーチャルリアリティが体験できるデバイス(段ボール製)を考案した脳科学者藤井直敬、話題作『なめらかな社会とその敵』の著者で、「スマートニュース」の運営者でもある鈴木健、『捏造の科学者 STAP細胞事件』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した毎日新聞記者・須田桃子。「前提」を揺さぶる思考を生む四つの議論。──
 前2作とは毛色が変わる。ともあれ久方ぶりの養老節、炸裂である。取り分け、ときめいたのは次の論及。
◇再生医療の分野でSTAP細胞が注目されていますし、STAP細胞という捏造騒動まで起こりました。ただ、STAP細胞にしても、元になる細胞はそれぞれの人間から採取してくるわけで、品種改良でサラブレッドを作るのと本質的には変わりません。既存の馬を掛け合わせて一番足が速い馬を作るのと同じように、既存の細胞を使って一番都合のよい細胞を作っていく。細胞とは何かという疑問には一切触れず、都合がよいモノを作るという発想は、科学ではなくて科学技術です。
 その複雑さ(地球上に生命が誕生する)を再現できないから、生命研究にしてもすでにある現実をそのまま利用した方が速いということになる。だから、iPS細胞のような研究が行われるわけです。しかし、学問全体がそういう方向に動いていくと、たぶんどこかで行き詰まるでしょう。生命とは何なのかについて考えずに、ただ目の前にあるものをいじっているだけだから。◇(同書より)
 大御所の知性は大鉈のそれだ。「発想は、科学ではなくて科学技術」とは、核心を剔抉して余りある。昨年の新潮新書『“自分”の壁』では、こう述べている。
◇よく、「遺伝子組み換え大豆」を使った食品の安全性について心配する人がいます。仮にあれが心配だというのであれば、iPS細胞も心配したほうがいいでしょう。生物学者の福岡伸一さんは、ipS細胞とがん細胞は生物学的に見ると、よく似ている点を指摘しています。iPS細胞そのものが、がん細胞になってしまう可能性だってあるのです。誤解のないように言っておきますが、私も福岡さんも新しい治療法が生まれることを期待していないわけではありません。しかし、まだよくわからないブラックボックスの部分がかなりあるから、簡単に応用へと進められるわけではない、ということです。ところが、ipS細胞に関しては、こういう否定的な意見はほとんど聞きません。それは、「体のことは頭(意識)で何とかできる」ということや、「科学が明るい未来を切り開く」といったメタメッセージが、かなり深いところまで浸透してしまっているからです。個々のメッセージではなく、こうしたメタメッセージは無意識のうちに、考える大前提になってしまっている。だから、疑われにくいのです。 ◇
 「こうしたメタメッセージは無意識のうちに、考える大前提になってしまっている。だから、疑われにくい」という。いまだ、バカの壁は難攻不落のようだ。 □