74年大晦日、第16回「レコード大賞」授章式。受賞曲は「襟裳岬」、作曲者・吉田拓郎はジーパンに下駄履きで登場した。なんとも胸のすく出立ち。テレビ画面に向かい快哉を叫び、拍手を送ったものだ。
権威を嗤い、皮肉り、洒落のめす。虚仮にされてきた若者文化が、アンシャンレジームに意趣返しをした歴史的場面であった。ジーパンに下駄履きは、明確なメッセージを帯びた装いであった。
しかし、これはどうだろう。6月18日付朝日新聞「声」に載った投稿である。
〓〓授業参観 親の服装見て驚く 無職 吉岡賢一(山口県岩国市 67)
2人目の孫が小学校に入学して初めての参観日。仕事が休めない父親、産後で動けない母親の代役で、じいちゃんが保護者として出席する羽目になった。二十数年ぶりの授業参観。かなり緊張した。服装にも気を使い、ネクタイまでは締めないが、正装に準じる装いで臨んだ。
そんな私の服装がまるで場違いな感じがするほど、教室にはジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿のお父さんやお母さんであふれていた。まるで運動会の見物か、スポーツ大会の応援団を見るようだった。
少なくとも参観日とは「子供たちが学びあう教室という場に、保護者が同席する」という位置づけを忘れてはならない。「時と場所と場合」に合わせた服装や心構えを、大人が態度で示すことも、大きな教育力になるのだと思う。
しつけや人間としてのマナーなど、家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならないと思う。〓〓
親子ともに『見せ場』であった参観日は、もはや昔日の面影を失ったらしい。「お父さんやお母さん」の「ジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿」に、特段のメッセージ性はなさそうだ。窮屈なフォーマルは避けようとの申し合わせがあった訳ではなく、集団によるデモンストレーションでもなく、まったくの『普段気』での『普段着』のようだ。聞けば、全国おしなべてそうらしい。こちらのジーパンにTシャツは、カジュアル化の象徴、日常性以外のなにものでもない。
目くじら立てるほどのことではないかもしれぬが、一方ではモンスターペアレンツの跋扈が報じられる。この二つ、なにやら通底してはいないか。
モンスターは洋の東西を問わないらしい。6月20日の朝日新聞から抄録する。
〓〓暴言親から審判守れ ―― 英国サッカー、年に数千人辞職
サッカーの母国、イングランドで年に数千人もの審判が辞めている。大きな問題となっているのが、ジュニアの試合で観戦する親たちが浴びせる暴言だ。状況を変えようと1人の指導者(マル・リーさん)が始めた草の根の運動が輪を広げている。
「プレミアリーグで選手が大金持ちになったのを見て親たちが欲深くなった」とリーさん。子どもの成功への過度な期待が、審判への攻撃的な態度につながるとみる。
危機感を持ったFA(イングランド・サッカー協会)は昨年から審判への敬意を高める「リスペクトプログラム」を始めた。リーさんの運動と同じようなロープで仕切る方法も取り入れた。アイルランドは協会自体が今春からリーさんの運動に加わった。〓〓
さて、次は日本のモンスターペアレンツだ。いくつかを列挙してみる。
◆「子供を朝起こせ」 「学校で汚れたので洗濯してくれ」 「劇の主役や習字の評価を高くしろ」 「風邪で休んだので給食費を返せ」
―― 笑ってはいけない。実例である。
◆わが子が注意されたことに逆上して職員室に乗り込み、延々とクレームをつける
◆子共同士の喧嘩に介入し、相手の子共を非難する長大な文書を学校に持ち込んで処罰を要求する
◆わが子がリレー競技の選手に選ばれないのは不自然だとクレームをつける
◆子供がプリントを親に渡さなかったことを、教師の指導のせいにする
◆「わが子を学校代表にして地域行事に参加させろ」
◆「○○小学校○年○組の○○という児童はクラスの迷惑なので学校に来させないでくれ」といきなり都道府県の教育委員会に匿名で要求する
―― ここまでくると、もう悲しくなる。
◆児童が石を投げて学校の窓ガラスを割ったにもかかわらず「子供の投げた石がぶつかったくらいで割れるガラスが悪い」
―― そして、極め付きだ。
◆自分の子供が風邪でテストを受けられないので、代わりに自分が受けると言ってやって来る
いかかであろう。あくまでも氷山の一角、ほんの一例である。先日紹介したひったくり警官を捕(トラ)まえた高校生ではないが、「世も末……」と頽(クズオ)れそうになる。
しかし、まだある。驚いてはいけない。なんと、「モンスターペアレンツ保険」なるものがあるのだ。正式には「教職員賠償責任保険」という。教員側の落ち度による賠償と、訴訟を起こされた場合の訴訟費用を負担する。東京都を例に取ると、07年で公立校の3分の1の教職員が加入しているという。00年以降、激増らしい。
背に腹は代えられぬ事情もある。06年1万校を対象にした調査によれば、3割が「深刻」、5割が「やや深刻」、合計8割がダメージを受けている。矢面に立つ教員が精神を病んだり、自殺さえ頻発している。だから、このような保険の出現は緊急避難ともいえる。
ではなぜ、化け物は現れたか。
校内暴力が吹き荒れた時代に学齢期を過ごしたために、教師への敬意に欠ける。あるいは過剰な消費者意識、つまり同じ負担なら同等の対価であって当然という意識。この意識が暴走して、教育サービスと商品取引との区別が付かなくなる。また地域の人間関係の希薄化によって、不満がストレートに学校に向かう、などが主な論点である。その中で、次の宮台真司氏の指摘は出色だ。
〓〓モンスターペアレンツも、クレーマーも、共通して、「全体を顧みない理不尽さ」や「社会的期待に対する鈍感さ」や、そうした意味での「常識外れぶり」などが問題にされているわけです。我々の日本社会が、そうした「常識」を支える共通前提と、それを支えてきた〈生活世界〉を、〈システム〉(役割&マニュアル的なもの)によって空洞化させてしまった以上、そうした成育環境で育ったがゆえに共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増えるのは、そもそも仕方ないのです。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」から)
つまり化け物とはいっても、生まれるべくして生まれ、出るべくして出ているのである。決して異界から迷い込んだのでもなく、薮から棒の突然変異でもない。
「共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増える」から、「家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならない」との「声」投稿者の憤りが生まれ、越えがたい断層が横たわる。 ―― 〈生活世界〉が〈システム〉によって空洞化された結果、「常識」を支える共通前提が喪失した ―― だから、授業参観というフォーマルが一挙にカジュアル化してしまったのだ。ジーパンにTシャツが登場する所以である。これはモンスターペアレンツと通底どころか、コインの裏表ではないか。
炯眼は相通ずるものらしい。養老孟司氏も同じ病巣を剔抉している。まことに恐縮だが、元日付の本ブログから孫引きさせていただく。
◇◇ 初春 丑尽し
【牛にも馬にも踏まれぬ】 子供が無事に成長することの喩え。
〓〓今ではマンションのような小さな共同体の管理も基本的には管理会社に任せます。住民が何かを一緒にやることはほとんどなくなっています。理事会で決めるのは管理会社に何をやらせるかということです。便利といえば便利。しかし手抜きだともいえます。現在の多くの社会的な問題というのはそういうことの集約です。 (中略) 手抜きの弊害がもっとも見られるのが教育です。人間がどうしてもせざるを得ないことのひとつが教育です。だから教育基本法をいじろうとか、会議で何とかしようとかしているのでしょう。しかし、国がかりで大勢集まって議論するよりも、自分が子どもの面倒をどれだけ見るかのほうが、よほど大切です。私は常々「問題なのは少子化じゃなくて少親化でしょう」と言っています。子どもが減ったのではなく、親になりたい人が減ってしまっただけのことです。要は手間をかけたがらない人が増えたということです。しかし手間を省いたら成り立たないことというものがあります。生き物の面倒をみることが典型です。子どもの教育が駄目になった根本はそこです。〓〓(新潮社 「養老訓」から)
「手間を省いたら成り立たない」のは、「生き物の面倒をみること」である。これはズバリだ。「問題なのは少子化じゃなくて少親化」これも養老節の冴えだ。正鵠を射るとはこのことだ。◇◇
少々強引だが、宮台氏の〈システム〉を養老氏の〈便利といえば便利。しかし手抜き〉(養老氏の持説では「都市化」と呼ぶ)に、〈生活世界〉を〈手間を省いたら成り立たないこと〉に言い換えれば、符節は一致する。
「少親化」は深刻だ。即効薬はない。今まで抜いてきた手間暇を、飽かずかけていくしかあるまい。そこで、極めて示唆的な次の一節。宮台氏が同書で、いじめに関して語ったところだ。
〓〓周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさないのです。人間は、なぜか、利他的な人間の「本気」に「感染」します。〓〓
これはスゴイ。こういう視座をもつこと自体が凄い。並ではない。「感染」とは「感化」に置換可能だ。
ソクラテスの時代から、「感染」は『シビレエイ』が引き起こした。まずは自らの『絶縁体』を取り除くことからはじめたい。 □
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権威を嗤い、皮肉り、洒落のめす。虚仮にされてきた若者文化が、アンシャンレジームに意趣返しをした歴史的場面であった。ジーパンに下駄履きは、明確なメッセージを帯びた装いであった。
しかし、これはどうだろう。6月18日付朝日新聞「声」に載った投稿である。
〓〓授業参観 親の服装見て驚く 無職 吉岡賢一(山口県岩国市 67)
2人目の孫が小学校に入学して初めての参観日。仕事が休めない父親、産後で動けない母親の代役で、じいちゃんが保護者として出席する羽目になった。二十数年ぶりの授業参観。かなり緊張した。服装にも気を使い、ネクタイまでは締めないが、正装に準じる装いで臨んだ。
そんな私の服装がまるで場違いな感じがするほど、教室にはジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿のお父さんやお母さんであふれていた。まるで運動会の見物か、スポーツ大会の応援団を見るようだった。
少なくとも参観日とは「子供たちが学びあう教室という場に、保護者が同席する」という位置づけを忘れてはならない。「時と場所と場合」に合わせた服装や心構えを、大人が態度で示すことも、大きな教育力になるのだと思う。
しつけや人間としてのマナーなど、家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならないと思う。〓〓
親子ともに『見せ場』であった参観日は、もはや昔日の面影を失ったらしい。「お父さんやお母さん」の「ジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿」に、特段のメッセージ性はなさそうだ。窮屈なフォーマルは避けようとの申し合わせがあった訳ではなく、集団によるデモンストレーションでもなく、まったくの『普段気』での『普段着』のようだ。聞けば、全国おしなべてそうらしい。こちらのジーパンにTシャツは、カジュアル化の象徴、日常性以外のなにものでもない。
目くじら立てるほどのことではないかもしれぬが、一方ではモンスターペアレンツの跋扈が報じられる。この二つ、なにやら通底してはいないか。
モンスターは洋の東西を問わないらしい。6月20日の朝日新聞から抄録する。
〓〓暴言親から審判守れ ―― 英国サッカー、年に数千人辞職
サッカーの母国、イングランドで年に数千人もの審判が辞めている。大きな問題となっているのが、ジュニアの試合で観戦する親たちが浴びせる暴言だ。状況を変えようと1人の指導者(マル・リーさん)が始めた草の根の運動が輪を広げている。
「プレミアリーグで選手が大金持ちになったのを見て親たちが欲深くなった」とリーさん。子どもの成功への過度な期待が、審判への攻撃的な態度につながるとみる。
危機感を持ったFA(イングランド・サッカー協会)は昨年から審判への敬意を高める「リスペクトプログラム」を始めた。リーさんの運動と同じようなロープで仕切る方法も取り入れた。アイルランドは協会自体が今春からリーさんの運動に加わった。〓〓
さて、次は日本のモンスターペアレンツだ。いくつかを列挙してみる。
◆「子供を朝起こせ」 「学校で汚れたので洗濯してくれ」 「劇の主役や習字の評価を高くしろ」 「風邪で休んだので給食費を返せ」
―― 笑ってはいけない。実例である。
◆わが子が注意されたことに逆上して職員室に乗り込み、延々とクレームをつける
◆子共同士の喧嘩に介入し、相手の子共を非難する長大な文書を学校に持ち込んで処罰を要求する
◆わが子がリレー競技の選手に選ばれないのは不自然だとクレームをつける
◆子供がプリントを親に渡さなかったことを、教師の指導のせいにする
◆「わが子を学校代表にして地域行事に参加させろ」
◆「○○小学校○年○組の○○という児童はクラスの迷惑なので学校に来させないでくれ」といきなり都道府県の教育委員会に匿名で要求する
―― ここまでくると、もう悲しくなる。
◆児童が石を投げて学校の窓ガラスを割ったにもかかわらず「子供の投げた石がぶつかったくらいで割れるガラスが悪い」
―― そして、極め付きだ。
◆自分の子供が風邪でテストを受けられないので、代わりに自分が受けると言ってやって来る
いかかであろう。あくまでも氷山の一角、ほんの一例である。先日紹介したひったくり警官を捕(トラ)まえた高校生ではないが、「世も末……」と頽(クズオ)れそうになる。
しかし、まだある。驚いてはいけない。なんと、「モンスターペアレンツ保険」なるものがあるのだ。正式には「教職員賠償責任保険」という。教員側の落ち度による賠償と、訴訟を起こされた場合の訴訟費用を負担する。東京都を例に取ると、07年で公立校の3分の1の教職員が加入しているという。00年以降、激増らしい。
背に腹は代えられぬ事情もある。06年1万校を対象にした調査によれば、3割が「深刻」、5割が「やや深刻」、合計8割がダメージを受けている。矢面に立つ教員が精神を病んだり、自殺さえ頻発している。だから、このような保険の出現は緊急避難ともいえる。
ではなぜ、化け物は現れたか。
校内暴力が吹き荒れた時代に学齢期を過ごしたために、教師への敬意に欠ける。あるいは過剰な消費者意識、つまり同じ負担なら同等の対価であって当然という意識。この意識が暴走して、教育サービスと商品取引との区別が付かなくなる。また地域の人間関係の希薄化によって、不満がストレートに学校に向かう、などが主な論点である。その中で、次の宮台真司氏の指摘は出色だ。
〓〓モンスターペアレンツも、クレーマーも、共通して、「全体を顧みない理不尽さ」や「社会的期待に対する鈍感さ」や、そうした意味での「常識外れぶり」などが問題にされているわけです。我々の日本社会が、そうした「常識」を支える共通前提と、それを支えてきた〈生活世界〉を、〈システム〉(役割&マニュアル的なもの)によって空洞化させてしまった以上、そうした成育環境で育ったがゆえに共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増えるのは、そもそも仕方ないのです。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」から)
つまり化け物とはいっても、生まれるべくして生まれ、出るべくして出ているのである。決して異界から迷い込んだのでもなく、薮から棒の突然変異でもない。
「共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増える」から、「家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならない」との「声」投稿者の憤りが生まれ、越えがたい断層が横たわる。 ―― 〈生活世界〉が〈システム〉によって空洞化された結果、「常識」を支える共通前提が喪失した ―― だから、授業参観というフォーマルが一挙にカジュアル化してしまったのだ。ジーパンにTシャツが登場する所以である。これはモンスターペアレンツと通底どころか、コインの裏表ではないか。
炯眼は相通ずるものらしい。養老孟司氏も同じ病巣を剔抉している。まことに恐縮だが、元日付の本ブログから孫引きさせていただく。
◇◇ 初春 丑尽し
【牛にも馬にも踏まれぬ】 子供が無事に成長することの喩え。
〓〓今ではマンションのような小さな共同体の管理も基本的には管理会社に任せます。住民が何かを一緒にやることはほとんどなくなっています。理事会で決めるのは管理会社に何をやらせるかということです。便利といえば便利。しかし手抜きだともいえます。現在の多くの社会的な問題というのはそういうことの集約です。 (中略) 手抜きの弊害がもっとも見られるのが教育です。人間がどうしてもせざるを得ないことのひとつが教育です。だから教育基本法をいじろうとか、会議で何とかしようとかしているのでしょう。しかし、国がかりで大勢集まって議論するよりも、自分が子どもの面倒をどれだけ見るかのほうが、よほど大切です。私は常々「問題なのは少子化じゃなくて少親化でしょう」と言っています。子どもが減ったのではなく、親になりたい人が減ってしまっただけのことです。要は手間をかけたがらない人が増えたということです。しかし手間を省いたら成り立たないことというものがあります。生き物の面倒をみることが典型です。子どもの教育が駄目になった根本はそこです。〓〓(新潮社 「養老訓」から)
「手間を省いたら成り立たない」のは、「生き物の面倒をみること」である。これはズバリだ。「問題なのは少子化じゃなくて少親化」これも養老節の冴えだ。正鵠を射るとはこのことだ。◇◇
少々強引だが、宮台氏の〈システム〉を養老氏の〈便利といえば便利。しかし手抜き〉(養老氏の持説では「都市化」と呼ぶ)に、〈生活世界〉を〈手間を省いたら成り立たないこと〉に言い換えれば、符節は一致する。
「少親化」は深刻だ。即効薬はない。今まで抜いてきた手間暇を、飽かずかけていくしかあるまい。そこで、極めて示唆的な次の一節。宮台氏が同書で、いじめに関して語ったところだ。
〓〓周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさないのです。人間は、なぜか、利他的な人間の「本気」に「感染」します。〓〓
これはスゴイ。こういう視座をもつこと自体が凄い。並ではない。「感染」とは「感化」に置換可能だ。
ソクラテスの時代から、「感染」は『シビレエイ』が引き起こした。まずは自らの『絶縁体』を取り除くことからはじめたい。 □
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