伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

芸は身を滅ぼす

2009年06月30日 | エッセー
 06年10月27日、わたしは以下のように苦言を呈した。いや、愚癡をこぼし、能書きをたれた。

〓〓いまは亡き国民歌手・三波春夫は言った。「お客様は神様です」と。(略)叩き上げの芸人にしてはじめて言える言葉であろう。いま、かれらは客をなんと呼ぶか。「一般人」と言って憚らないのだ。そして、自らを「タレント」と称する。タレントの原義は才能である。裏を返せば、場違い、勘違いの選民意識が臭ってこないか。「セレブ」などとカタカナで丸めたとて同じことだ。余計臭う。
 一体いつから、こんな逆転現象が生まれたのか。徳川初期、京都の四条河原で興行したことから歌舞伎役者を「河原乞食」と呼んだ。芸人の起源である。生産に携わらない『虚業』のゆえであっただろう。時代は下り、近代、現代にいたりマスメディアの発達とともに逆転は露わになる。特にテレビメディアの浸透が拍車をかけた。さらには芸の稚拙化、一般化、大衆化がすすみ、客との境も揺らいでいる。または、大衆芸能や座敷芸、素人芸がテレビメディアに入り込んできた、という見方もできる。テレビは舞台と客席の段差を取り除き、同じフロアーにしてしまった。プロとアマ、ジャンルの違い、まさにバリアフリーだ。〓〓 (「お客様は神様です!」より)

 3年経った。 …… 事態はいよいよ病膏肓である。かつて全盛を誇った『バラタレ』から、『バカタレ』をまじえつつ、今や『お笑い(芸人)』がテレビメディアに跳梁跋扈している。いな、完全に席巻しているといってよい。
 バラエティーはもちろん、クイズ、旅、ドラマ、トーク、歌、ものまね、はては報道、教養まで、見かけない番組はない。
 背景にはネットを軸にしたメディアの構造変化がある。煽りをくってテレビ業界は長期低落傾向にあり、経営的問題に向き合わざるを得なくなった。コストダウンとくれば、一番手っ取り早いのは人件費の削減だ。そこにお笑いの起用、多用が生まれた。なにせ彼らは何でもやる、かつ安い。とっかえひっかえ使い捨て可、供給源は余るほどある。視聴率も稼げる。かくて渡りに船となった。
 膏肓の一端を挙げると ―― お笑いの歌唱をお笑いが審査する、お笑いによる『余興大会』。芸人ではないお笑いの家族までがしゃしゃり出て、『学芸会』を演ずる『超悪ノリ』家族団欒番組。楽屋落ちを白日の下に晒し、ネタ替わりに笑い倒す与太ばなしトーク番組。馬の骨を棚に上げて、半生記なるものをドラマ仕立てにする無理矢理紅涙絞りまくり成功譚。はては時事問題のコメンテーター。毛色の違う感性が重宝されるのではあろうが、洒落のめすのがお笑い芸の本道のはず。血相変えて語るほど、艶消しになってしまう。とんだお笑い種(グサ)だ。軽薄短小、極まれりだ。極まった末が、総裁の座をねだるすげー元お笑いが出てきた。どこかの政党もえらく虚仮にされたものだが、何のことはない、赤絨毯への踏み台にされる某県県民はすげー可哀想だ。人寄せパンダのとんでもない勘違い。洒落にもなんにもならない。いままだ梅雨の真っ最中、お化けの出る時季でもあるまいに …… 。
 もとより職業に貴賎はない。職業選択の自由は基本的人権のひとつであり、日本国憲法第22条第1項に高らかに謳われている。しかしそれでもなお、分(ブン)はあるだろう。自由は常に義務に裏書きされているからだ。だから越えてはならぬ範(ノリ)があるのではないか。なぜなら、「お客様は神様」である。キミたちのつまらぬ芸に笑ってくれ力を与え給うた神々を足蹴にし冒涜しては人の道を外れる。大いに外れる。『お笑いの、お笑いによる、お笑いのための』番組程度ならまだよい。資源の無駄遣いにはなるが、見なければいいだけのことだ。毒性は薄い。それぐらいの外れなら目をつぶろう。だが、外れついでに、外れ先に総理のイスを用意せよとは、いくらなんでもお天道様が赦すまい。そんなことのために神々は谷町をしてくれた訳ではあるまい。

 先日、本棚を片付けていたら、黄ばんだ「KAPPA BOOKS」がポロンと落ちた。荷物は担いでも験(ゲン)は担がないのだが、なにやら因縁めいてつい開いてみた。
 三島由紀夫著「葉隠入門」(昭和42年、光文社刊)である。懐かしさのあまり、滂沱の涙に眩(ク)れながら読み返した。

 頃は江戸中期である。「『葉隠』は太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたものであった。」(前掲書)「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」が、その「調合」された「劇薬」の正体である。
 それはさて措き、40余年振りに釘付けになった箇所がある。

〓〓芸は身を滅ぼす
 芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるる様に心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つなり。この当り心得べき事なり。(聞書第一)
 『葉隠』が口をきわめて、芸能にひいでた人間をののしる裏には、時代が芸能にひいでた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。
 現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡(でく人形)となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。
 現代はテクノクラシー(技術者の支配の意)の時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクション(機能)にみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると、『葉隠』の芸能人に対する侮蔑は、胸がすくようである。〓〓

 太平の世にはアナロジーがあるらしい。三島の時代観は著者・山本常朝のそれにぴったりと重なっている。
  ―― 芸は身を滅ぼす ―― のである。
 為政者、権力側というトポスを今に準(ナゾラ)えれば、もののふ(武士)とは政治家であろうか。主君たる民草のために一命を捧げるのが、もののふの本義である。ただその一心だけでよい。ほかには、何も要らぬ。「一芸」に身も心も囚われて、本義を忘れてはならぬ。「芸者」になってはならない。芸はもののふの身を滅ぼす。 ―― そう常朝は、太平ならばこその「劇薬」を処方したのだ。
 芸能者が一芸に長ずるのは当然である。ならばこその芸能者である。しかし、もののふはちがう。芸を捨てねばならない。「心懸くべき」は、「何某は侍なりといはるる」ことだ。現代のもののふにメタモルはしたものの、いまだに芸が抜け切らぬどころか、芸を振り撒いて恥じぬ元お笑いクン。今度はどこの人寄せパンダになるおつもりか。
 アナクロニズムと嗤うなかれ。知名度にほだされてタレント議員なるものを量産し、起立要員として使い回し、やがて用済みにする。永田町自体が「芸」に血道を上げて、挙句、身を窶(ヤツ)してきたのが、あの町の偽らざる歴史ではないか。ために、あの町の劣化は見るも無残だ。さらに性懲りもなく、今度はお笑い議員が御所望なのであろうか。もののふどころか、お笑いが赤絨毯で蠢動する日がやがて来ないとも限らない。
 「芸は身を助くる」など、よその国の夢物語だ。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆