伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

難点、難題

2009年06月11日 | エッセー
 少々古くて駄文ではあるが、07年9年26日付本ブログ「欧米か!?」を引用したい。(抜粋)

◇◇団塊の世代は戦後民主主義教育の洗礼を受けた。戦争をくぐり抜けやっと訪(オトナ)った真っ当な民主主義がまばゆく見える世代に、教えられた。彼らにとってそれはアプリオリに尊貴であり、動かし難い到達点であり、不磨の至宝であった。
 以下、余話として ―― 。
 わたしが高校生だった時の話だ。友達の家で彼の父親と話すうち、談たまたま政治形態に話題が及んだ。わたしが「哲人政治」を宣揚すると、父上は烈火のごとく怒り始めた。バカかと言われれば、はいそうですとは言えない。今より3倍は不正直だった。論争などという上等なものではない。単なる罵り合いに終始した。今にして振り返れば、父上にとって戦後民主主義は相対を峻拒する遥か高みの絶対の正義であったのだ。逆鱗に触れるどころか、足で踏み付けてしまったのであろう。若気の至りであった。いやはや面映ゆい。

 遥かむかしの青臭い話だが、いまだに問題意識は変わっていない。民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。野中広務氏が彼を「独裁者だ」とこき下ろしたのは、民主主義の眩さを忘れない良識の抗弁ともいえる。
 なんとも民主主義は不自由なものだ。特に代議制民主主義はそうだ。チャーチルは言った。「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」と。そのご本人も、大戦の終了直前総スカンを食う。総選挙で敗れ首相の座を明け渡すことになる。戦時の宰相と平時のそれとを峻別されたのだ。だから一層この発言は重い。 
 前述の「問題意識」については、稿を改めて語りたい。◇◇

 稿を改めず2年が過ぎた。ディレッタントの浅知恵、世迷い言の域を出るものではないが、歴年のテーマに触れてみたい。実は先般、ある書に大いに啓発されたのだ。

 こんな堅い本がなぜ売れるのか。発売2カ月で10万部を超えたという。シャープで歯に衣着せぬ物言いとラディカルな思想性が、この論客を際立たせているのであろうか。「バカの壁」の衝撃を彷彿させるし、佐藤優氏にも感じる小気味のいいカタルシスがある。 ―― 社会学者 宮台 真司著「日本の難点」(幻冬舎新書)である。
 学者はありがたい。常人なら『思考停止』を強いられる『印籠』に、真っ向切り込んでくれる。

 かなり荒っぽいが、先述の「問題意識」は<モダン VS ポストモダン>と置換できよう。モダニズムとは近代主義、淵源はデカルト、フランス革命まで遡る。強引な括り方をすれば、中世の非理性から理性へ、王政から民主制へ、であろうか。民主主義が至上の社会原理とされる。
 ポストモダニズムは20世紀に芽吹いた。脱近代である。複雑化した社会で、価値の多様性を尊重しようとする動きだ。超ぶっちゃけて言うと、『ナンデモアリー』の世界観である。
 宮台氏は同書で次のように述べる。(一部、抄録)

〓〓〈生活世界〉を生きる「我々」が便利だと思うから〈システム〉を利用するのだ、と素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。〈システム〉が全域化した結果、〈生活世界〉も「我々」も、所詮は〈システム〉の生成物に過ぎないという疑惑が拡がるのがポストモダン(近代成熟期)です。
 ポストモダンでは、第一に、社会の「底が抜けた」感覚のせいで不安が覆い、第二に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も、「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。〓〓

 独自の言語世界から紡がれる言葉の群れに圧倒されるが、要はチャップリンの「モダン・タイムズ」を想起すれば事足りる。「底が抜けた感覚」とは、どうにもならない失望感の謂(イイ)か。問題は「正統性の危機」である。多様性を是認すると、代償として主体と権威の正統性が揺らぐ。氏の使わない言葉で表現するするなら、「大衆化」だ。かつ「悪しき」大衆化だ。「みのもんたレベル」の跋扈である。

〓〓飢餓地域での遺伝子組み換え作物を用いた安全保障、拡がりつつある不妊化現象に抗う生殖医療やそれが必然的に孕む出生前診断など優生学的観点、資本主義にどのみち不可避な証券化技術など、原理的な意味でイエスかノーかでは回答不可能な問題が拡がりつつあります。〓〓

 原理的に明答できない問題群がポストモダニズム時代の足元にはころがっている。だから、 ―― 「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求 ―― つまり向かい側にすれば、ポピュリズムへの陥穽が待ち構えることになる。

〓〓社会には、移ろいやすい庶民感覚や生活感覚を当てにしてはいけない領域、状況に依存する感情的反応から中立的な長い歴史の蓄積を参照できる専門家を当てにすべき領域が、確実に存します。それを毀損すると、逆に庶民感覚や生活感覚に従う「市民政治」自体が疑念の対象になってしまいます。〓〓

 氏はその典型として司法を挙げ、裁判員制度に異を唱える。そして、以下のような状況を迎える。

〓〓自己負担化を含む後期高齢者医療制度の必要、解雇規制撤廃の必要、法人税率切り下げの必要などは、専門家にとっては自明なことですが、あえて素人向けの新聞や雑誌でそれを書く人は少なく、まして政治家はそんな不人気なことは言えない。ならば官僚も口を噤むようになります。
 これが、「民主的決定の非社会性ゆえの市民政治化」です。言い換えると、統治権力のエリートたちが「民主的決定に任せますよ」と念押ししつつ、心の中で「どうなっても知らねえよ」と眩くような状態です。
 民主的決定であれば内容が正しいなどということはあり得ません。社会の複雑化によって、それはますますあり得なくなります。だからといって、エリートに任せればうまくいくというわけでもないということです。何もかもよく分からなくなればなるほど、民主的決定に任せるしかなくなります。これが「民主主義の不可避性と不可能性」です。〓〓

 とどのつまりをいえば、「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」とのチャーチルの言になる。だが、そう嘯いて木で鼻を括っていられるほど時代は甘くない。不可避で不可能、このアンビヴァレンスを越えねばならぬ。女郎の誠と卵の四角を是が非でも捜し出さねばならぬ。

〓〓どのような意味で民主主義が「不可避」で、また「不可能」なのかを理解すれば、素朴な「右」も素朴な「左」もあり得なくなります。
「民主主義の不可避性と不可能性」ということは、裏を返せば「エリート主義の不可避性と不可能性」あるいは「バターナリズム(温情主義ないし父性的導き)の不可避性と不可能性」ということと、表裏一体です。〓〓

 女郎の誠と卵の四角を裏返せば、「エリート主義とバターナリズムの不可避性と不可能性」が顕れてくる。とりわけバターナリズムは期せずして「哲人」を連想させるが、それでは我(ワガ)田に水を引きすぎるか。
 氏の結びはこうだ。

〓〓どうすればいいか。見栄えのいい答えはありません。科学哲学者力ール・ポパーのいうピースミールエンジニアリング(部分工学)を使って「様子を見つつ」ソーシャルデザインを進めるプロセスプランニングしかありません。そして、「様子を見る」プロセスそのものを民主的に開き、そこでの社会学的啓蒙を通じて「民主主義を社会的なものにする」しかないのです。〓〓

 ぼちぼち行くしかあんめー、という話だ。パーもアンダーもない、ましてやホールインワンなぞあるはずがない。刻んで、刻んで、OBさえ叩かなければ …… 、そんなところだ。前掲の「民主的決定の非社会性ゆえの市民政治化」 ―― 不人気ゆえに必要な政策が打てない。揚げ句は社会が膠着し疲弊する。その愚をどう避けるか。
「エリート主義あるいはバターナリズムの不可避性と不可能性」に無理遣り通底させるとすれば、「欧米か!?」で述べた「臨調」方式の『疑似哲人』政治か、小泉流『劇場化』政治であろうか。どちらも禁じ手、もしくはそれに限りなく近似したものだった。
 また、 ―― 「様子を見る」プロセスそのものを民主的に開き、そこでの社会学的啓蒙を通じて ―― にはより深い処方、主(アルジ)たり得る民衆への脱皮、民度の向上への指向が窺える。
 ともあれ、「民主主義を社会的なものにする」ことは至難だ。複雑系の社会で民主主義を真っ当に機能させることは、現代のかかえる最大のアポリアといえる。 …… またしても長考に入らざるを得なくなった。ピースミールを喰らいつづけるしかあるまい。凡愚にはキツイ道程(ミチノリ)だ。 

 宮台 真司。姜 尚中氏への粛正発言、小沢一郎礼賛、重武装論などなど、ある種の軽さは感じつつなお注視すべき鬼才ではある。 □


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