伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

控えのカナ

2007年10月02日 | エッセー
 大それたテーマに挑んでみる。竜頭蛇尾は覚悟の前である。どうか、お付き合いを。

 玉容について、である。万代不易のテーマだ。その一端を探ってみたい。
 搦手から ―― 。

 かつてナガシマさんがハラくんに打撃のコーチをした時のこと。
「腰のあたりをグーッと、ガーッとパワーでプッシュして、ピシッと手首をリターンするんだよ」
 ほとんど解読不能のオノマトペの連続である。それをまたハラくんは克明にノートに採っていたという。なんともほほえましいというか……。
 さて、養老孟司著「まともバカ」(大和書房)から引用する。

  ~~身体の所作のような無意識を、意識で説明するのはほとんど矛盾なのです。そもそも説明できないから無意識なのであって、そんなことを説明してもしようがない。~~
 その「矛盾」に挑むと、ナガシマ流となる。宜(ムベ)なる哉(カナ)。ましてや天才のそれだ。「説明してもしようがない」のである。

  ~~戦後、われわれはとくにそういった身体表現、無意識的表現を強く消してきました。しかし、普遍的な身体の表現は、完成すれば必ずどこにでも通じるはずのものなのです。
 二本差しでちょんまげを結って威臨丸から降りた人たちがサンフランシスコを歩いたときに、アメリカ人は誰も笑わなかったと思います。それが型です。~~
 徳川三百年を掛けて作り上げた「型」、それが武士の所作であった。ところが、日本の戦後はひたすら「意識化」の歩みだった。氏は「脳化社会」ともいう。氏の表現を借りれば、「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる」社会だ。「こうしても、こうならない。ああしても、ああならない」場合は不具合といい、故障という。制御不能の無意識、自然を徹して排斥する社会である。

  ~~意識的表現に比べて、こういった無意識的表現というのは、非常に身につきにくいものです。それを本来担っていくのが日常の生活です。われわれは畳の上の生活から急速に椅子とか床の洋風の生活に変化させてきました。日常の行住坐臥の所作からできあがってくるような、そういった身体表現としての文化を、もう一度つくり直さなければならない段階におそらく来ています。~~
 「身体表現を取りもどす」と題する章の一部だ。別の著作の中では、「私のいう都市化、いわゆる近代化とは、すべてを意識化していくことです。それを私は脳化社会と呼びました。すべてを意識化しようとしても、個人でいうなら、身体は最終的には意識化できません。」と述べている。(「逆さメガネ」より)意の儘にならぬのが身体である。では、「身体表現、無意識的表現」をいかにして獲得するか。「日常の行住坐臥」がひとつ。そしてもうひとつが強制的な刷り込み、すなわちスポーツである。

 唐突だが、駄文を引用したい。昨年9月1日付け本ブログ、「排球の佳人たち」より。
  ―― 躍動する彼女たちは美しい。渾身の一撃を放つ刹那がまぶしい。一球を逃すまいと地に全身を擲つ。五体が滑空し、魂が迸る。彼女たちはコートに跳ね、撃ち、奔り、そして舞う。
 私を虜にして止まぬ女子バレーの魅力とは、躍り動く妖艶さだ。なまなかな動きではない。常人をはるかに凌駕する素質に、容赦ない鍛練の磨きがかけられている。大作りではあるものの至極普通の容姿が、コートに身を移したとたん垂涎の佳人へとメタモルフォーゼする。並な女優の比ではない。しかも、寸毫も粧(ヨソオ)わぬ化身だ。秘術にちかい。
 秘術はその尋常ならざる動きにあるにちがいない。遥か高みにまで研ぎ澄まされ、緩急を自在に織りなす動きが、巧まずしてこの世ならぬ美を生み出す。これは女性アスリート全般に言えることだ。競技中の容姿、動きの只中を切り取った顔(カンバセ)はすべて例外なく美しい。現し身は見事に化身している。躍動の色香だ。 ――
 武道の「型」にも一脈通ずるが、「身体表現」の極みを「型」という。ならば、オリンピック・レベルのアスリートの動きはすべてが「型」だ。そこに美しさが弾ける。醜女(シコメ)はひとりとしていない。身体表現の極みに、「秘術」は成る。いまや、「垂涎の佳人」はアリーナの中にこそ住まうのかもしれない。

 小林秀雄の炯眼を頓首、拝借したい。
 能「當麻」を観て、

  美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい。前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから。(「無常といふこと」から)
 
 肉体の動きという具体に即して美はある。美を抽象することは空に絵を描くに等しい、と氏は訓(オシエ)えてくれたのだ。点睛の一句である。

 さらに前掲の禿筆を続ける。
  ―― 大山加奈が控えにいる。哀切な目をしている。その表情はすばらしく魅せる。コート上の加奈にも増して、これがいい。控えの彼女を瞥見することは、私のひそかな愉しみでもある。 ――
 これが本稿のタイトルであり、テーマでもある。『控えのカナ』、あの「哀切な目」はいったい何だろう。コートへの意欲と哀願が糾(アザナ)われた視線だ。かつ、叶わぬ悲嘆を滲ませた哀しい眼差しだ。だから……、男の琴線に触れぬわけがなかろう。仄めく色香に酔わぬはずはなかろう。「控え」とは、アリーナ内陣に区切られた、哀切の結界だ。佳人でありながら薄命を背負えば、すでにそれでドラマだ。ドラマは涙腺を刺激する。ああ……。
 と、ここまで書いて筆を置く。荷が重すぎた。まさに竜頭蛇尾、郢書燕説と、嗤っていただこう。□


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