伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

山頂にて

2007年10月23日 | エッセー
 優に十年は超えるだろう。久方ぶりに山頂に立った。山頂といっても、僅か五百メートル。重畳たる山脈が海との際(キワ)に残した大地の皺、もしくは丘疹か瘡(カサ)のごときものだ。
 四百メートルまでは車で行ける。あとの五分の一は前傾姿勢を要するほどの勾配に喘ぎながら、雑草がわずかに踏み固められた道らしきものを辿る。山と呼ぶに面映ゆく、登山と言うに憚られるが、頂からの眺望には見応えがある。
 わが町を一望するスポットであり、当然ながらこの町の天頂でもある。古(イニシエ)の歌人に詠われた由緒ある山だとも聞く。しかし今では山頂に大きなパラボラアンテナがそそり立ち、付近の峰々にも様々な中継用のアンテナが点在する。とても詩心を誘う風情ではない。だが逆に、山頂から見下ろすパノラマはほどよい詩情を醸す。

 遠景には海が展(ヒラ)ける。白い絵の具を刷毛で散らしたような波頭(ナミガシラ)が間歇する。緩やかな海岸線が海を遠巻きにし、秋の伸びやかな空が水平線に溶け込む。
 山並の懐から長途を流れ来った大きな川が羇旅を終える。河口からやや溯ると裳裾を曳くように蛇行する様は、天女の昇天と見紛うほどに華麗だ。
 橋が何本か懸かり、道路が渡り鉄路が跨ぐ。工場の高い煙突が屹立し、白煙がたなびく。町のシンボルだ。
 いくつかの学校が見え、それぞれに長円の校庭を備える。大造りの病院が据わる。丘が町を大小に区分けし、屋並が群れる。近景には小山が連なり、鉄塔が聳え、高圧電線が走る。
 三層に分かたれたパノラマを仄(ホノ)かな霞が覆い、全景はパステルに和(ナ)ぐ。
 
 安上がりでかつ簡易。穴場だ。この町に住まいながらこの天頂を踏まぬは不心得も甚だしいなどと、手前勝手を呟きながら山を下りた。

 ジョージ・マロリーがニューヨーク・タイムズのインタビューを受けた時、「Because it is there.」と応えた。「そこに山があるから」と訳され、名言となった。格言、箴言ともされる。後に否定されるが、エベレストに初登頂したとされたこの登山家に、記者は「なぜエベレストに登るのか」と訊いた。だから、正確には「it」とはエベレストのことである。おそらく彼は軽く去(イ)なしたにちがいない。ところが瓢箪から駒だ。「it」は世界最高峰という特異性を捨てて「山」という通途の名詞となり、この名言を不動の地位に押し上げることになった。
 そこで、無謀を承知で超弩級の牽強付会を試みる。 ―― 人はなぜ、山に登るのか? についてである。
 
 人間の身体能力は一つを除いて、あらゆることを為し得る。二足歩行はもちろんだ。走ることも、泳ぐことも、潜水も可能だ。跳ねるのも、木に登るのも道具を使わずして為し得る。ひとつひとつに長じた動物はいるが、あれもこれもとはいかぬ。人類ほどオールマイティーではない。万物の霊長たる所以は知的能力だけではない。身体的能力の汎用性においてもそれはいえる。だが、ただひとつ。「飛ぶ」ことは叶わない。こればかりは道具を使っても為し得ない。ハングライダーは風に乗るだけで、鳥のように飛ぶわけではない。飛ぶことばかりは機械に委ねるしかない。
 山に登るとは、これではないか。飛べはせぬとも、上空の気を吸い風を受け、鳥の目を獲得することはできる。鳥瞰である。宙を舞い、空を飛ぶ。人が類(ルイ)として永久に奪われた能力だ。その絶対の不可能への憧憬(ショウケイ)と焦燥が、人をして大地の高みへと誘(イザナ)うのではないか。飛ぶことの代替行為としての登山。つまりはこれが「山に登る」理由ではないか。だから、マロリーは「Because I can't fly.」と言うべきだったのかもしれない。

 病膏肓と嗤われるだろうが、山頂で胸一杯に吸った秋風が、そのような妄念となって去来した。□


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