伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

奇想! 「鉄人28号」

2007年10月12日 | エッセー
  ♪♪
  ビルの街にガオー
  夜のハイウェイにガオー
  ダダダダダーンと弾がくる
  バババババーンと破裂する
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 団塊の世代には涙が出るほど懐かしい曲だ。特に、「テーツジン にじゅうーはーちごー」は耳朶にしっかりと残っている。「アトム」と双璧だった。いままた半世紀を経てプレステ2にも登場する。
 昭和30年代、少年たちをとりこにした横山光輝の作品である。帝国陸軍が死中に活を求めて開発した秘密兵器・巨大ロボット、それが鉄人28号であった。戦後になって突如発見されるところから物語は始まる。鉄人に意志はない。操るには操縦器が要る。悪にも善にもなる。「いいも悪いもリモコンしだい」なのだ。「ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先」だ。リモコンを巡る争奪戦。少年探偵・金田正太郎と悪人どもの熾烈な戦いが繰り広げられる。そしてついにリモコンは金田少年の手に。勝負は決まった。「ビューンと飛んでく鉄人28号」。自在に鉄人を駆使し、悪人どもをなぎ倒し人びとの平和を守る。と、そのようなストーリーだ。

 9月26日付け本ブログ「欧米か!?」で、「前述の『問題意識』については、稿を改めて語りたい。」と述べた。その「哲人政治」についてである。テツジン28号は親父ギャグではない。いつもの奇想である。

 プラトンが「国家」で哲人政治を構想した時、脳裏には師匠ソクラテスの死があったに相違ない。民主制が『人類の教師』を血祭りに上げた。陶片政治の迷妄と狡猾、衆愚が政治を覆う恐怖、ポピュリズムの詐術。「民主」のアポリアであり宿痾でもある。それらがデモクラシーへの強烈なアンチテーゼとなった。
 プラトンは語る。
  ~~哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在、王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつ充分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸の止む時はないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。~~
 善のイデアを了知した哲人が為政者となるか、為政者が哲人となるか、どちらかでなければならぬ。「哲人王の思想」である。一人の哲人が、と誤解する向きもあるが、英語では「rule of philosopher kings」。複数形である。原義は小集団を想定している。しかも並の哲人ではない。「王」、哲人中の哲人でなければならぬ。
 たしかに当時は直接民主制であった。しかしそれは立論の正当性を減殺しない。直接・間接を問わず、「民主」それ自体がアポリアなのだ。むしろ、直接制だからこそ問題は浮き彫りになったといえる。
 社会構造の複雑化や、人権の拡大で市民が増えたことが間接制、つまり代議制の起因であるとされる。物理的事由だ。当然、間接制にもアポリアは属性として残る。市民すべてが哲人であれば、なにも問題はない。理想ではあっても、現実は夢想に停まる。ならばどう考えるか。
 そこで発想を変えてみてはどうだろう。間接制についての間尺を取り直してみる。宿痾に対する次善の処方箋としての間接制、哲人政治の一変形と見るのだ。「選良」というではないか。だから直接制と代議制は分母の違いによるものではない、直接制の発展形が代議制ではない、と捉えられないか。たとえばITが極大化して直接制の物理的制約を超えられたとしよう。はたして代議制は無用となるであろうか。ギリシャの市民が毎度アゴラに集い討議し議決していたように、億万の民が毎度ITで討議し議決する。それで「民主」の抱えるアポリアは解消されるだろうか。むしろアポリアが極大化するだけではないか。つまり、代議制は直接制の代替物ではないと考えた方がいい。両者は位相を異にする。
 哲人政治の導入は至難にして絶望的だ。ならば、似たものはできないか。歴史の試練に晒されつつ、人知が暗々裡に生んだ亜流、それが代議制ではないか。プラトンの理想を現場の知恵が咀嚼したのではないか。しかし、である。代議制はあくまでも亜流であり、似たものだ。いつなんどき、物真似が本物になりすますかもしれぬし、似て非なるもの、魚目燕石に堕さぬとも限らぬ。そう愚考を巡らした時、奇想、天外より来ったのである。

  ♪♪
  ある時は正義の味方
  ある時は悪魔の手先
  いいも悪いもリモコンしだい
  鉄人 鉄人 どこへ行く
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 だから、『リモコン』だ。鉄人28号のリモコンだ。「ビューンと飛んでく」怪力ゆえに、28号が『哲人』だと勘違いしてはいけない。「ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先」となる『鉄人』でしかない。「いいも悪いもリモコンしだい」だ。だからリモコンが『哲人』でなくてはならぬ。金田正太郎くんの手に握られていなくてはならない。たしかに鉄人28号は人類の一大傑作である。出来がいいだけに、時として人は『哲人28号』などと買いかぶってしまう。あるいは鉄人が哲人の物真似を演じることもある。真贋が見抜けずに騙されてしまう。だから、『リモコン』だ。代議制は所詮『鉄人』でしかないと括っておこう。

  ♪♪
  手を握れ正義の味方
  叩きつぶせ悪魔の手先
  敵にわたすな大事なリモコン
  鉄人 鉄人 早く行け
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 わたしてならぬ「敵」とは何か。マスコミの喧噪に聞き逃している声はないか。掻き消されている呟きはないか。刷り込まれた先入主はないか。仕組まれた誘導はないか。マスコミは両刃(モロハ)の剣だ。使い方を過てば、わが身を切り刻んでしまう。白紙委任は己を滅ぼす。それこそが敵だ。テレビ・ポリティクスは今やこの国を席巻している。
 19世紀初頭、フランスの政治思想家トクヴィルは、新興国・アメリカの先駆的民主政治を現地に渡り克明に調べ上げた。結論はこうだ。 ―― 民主政治とは「多数派世論による専制政治」である。多数派世論は新聞によって作られる。操作された大衆世論が政治を左右し、社会は混乱する。それを防ぐには、宗教者、学識者、長老政治家などの「知識人」が不可欠だ。民主政治は大衆の教養、生活の水準によって決まる。 ――
 200年後を見透した慧眼である。哲人政治への志向とも読める。9.11以降に見せたアメリカの迷走は、世界を舞台にした現代の『専制政治』ではないか。
 習い、性と成るである。ふたたび奇想、天外より来る。『鉄人29号』の登場だ。
 先日の禿筆を繰り返そう。
  ―― 民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。 ――
 良薬を好んで嚥む者はいない。苦いからだ。山頂の眺望は愉しみだが、切所を越えねばならぬ。さて、どうする。やはり、『鉄人29号』だ。
 28号を超える29号を構想せねばならない。「臨調」は29号の試作機だった。「経済財政諮問会議」は28.2号機といったところか。しかし、「教育再生会議」は屋上屋の失敗作だった。29号製作は相当に難しい。だが、『世論政治』とポピュリズムは一卵性双生児だ。世論は時として民意の仮面を被る。はたして世論は正確無比にして無謬であろうか。世論は「陶片」と背中合わせ、いな一瞬にして現代の陶片と化すのではないか。『民主のアポリア』は忽ちにして一国をも落とす陥穽となる。だから28号を超える29号は必要なのだ。(世論については、今年2月12日付け本ブログ「うへぇー! 世の中、ゴミだらけ」でオブジェクションを呈した)
 「賢人会議」と呼んでもいい。いっそ「哲人会議」と名乗るもいい。明確な形で国政の中にシステマナイズすべきだ。ただ29号は単なる諮問機関ではない。28号を縛る力を持つ。だから、時の政権にとっての御用会議にならない構造も考えねばならぬ。設置のテーマと時期についても熟考を要する。根拠法は必須であろう。「国民投票法」を改訂して最終的な裏打ちをするのも一案だ。哲人政治の擬態としの代議制に、より真正に近い形のシステムを援用する。トクヴィルが喝破したように「民主政治は大衆の教養、生活の水準によって決まる」以上、つまりは代議制が擬態に停まる限り、『アポリア』は克服できないからだ。
 
 本稿を終える前に、一点付け加えねばならない。故小田実氏は代議制に抗して別のアプローチを企図した。直接民主制への回帰だ。デモはその最大の典型であった。氏にとってデモは通途の抗議やアピールではない。直接民主政治そのものだった。おそらく氏は代議制の擬態を知り抜いていたにちがいない。だから「市民」の復活を叫んだ。市民をして「29号」を構想したといえるかもしれない。

    敵にわたすな大事なリモコン
    鉄人 鉄人 早く行け

 いまに甦るあの勇壮な一節。リモコンだけは離すまい。□


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