伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

欧米か!?

2007年09月26日 | エッセー
 アンバイ君の一抜けもフグタ君の登板も、すべては衆参の逆転国会に起因する。『ねじれ国会』はたしかにわが国では初めてだ。しかし諸外国では珍しいことではない。
 まずアメリカがそうだ。ホワイトハウスは共和党、キャピタル・ヒルは民主党が牛耳る。「分割政府」といって何度もあった。今もそうだ。両方を同一の政党が占める「統一政府」も当然あるが、繰り返しで今日まで来ている。対決しつつ、バランスを取りながらの歩みだ。
 フランスでは保革共存、すなわち「コアビタシオン」が世界の通り名になるくらい常態となっている。サルコジ大統領は野党から主要メンバーを閣僚として引き抜いたり手練を尽くす。ドイツでは大連立が普通だ。
 してみると、日本も『欧米か!』と言いたいところだ。衆院の正当性に疑義を挟む向きもあるが、人間万事塞翁が馬、奇貨可居だ。ここは腰を落ち着けて、しばらく様子を見たほうがいい。
 
 ひとつ、これだけは弁えておいたほうがいい。 ―― 議会制民主主義はいまだ発展途上にある、ということである。どの国においてもそうだ。どの時代においてもそうだ。決して完成形をわれわれは手にしている訳ではない。人類の歩みと同じく、それは常に成長過程にある。かといって、憲法改定に短絡されては困る。これは歴史認識の問題だ。スパンは世紀に及ぶ。

 ヨーロッパで議会が誕生したのは13世紀中葉、発祥はイギリスだ。国王が領主に租税をかけようとしたことに端を発する。それまでの商工業者からの献金と借入から、一気に財政の拡大を図った。それには王権が領主との契約関係にある以上、契約を変えねばならない。数多の領主と個別に交渉していたのでは埒が明かない。そこで領主の代表を集めて討議させ、認証させる。それが議会であった。
 領主側にとっても、国王の徒な立法と課税に歯止めをかけ、自らの特権、既得権益を保障させる場ともなる。両者の思惑が一致して議会が生まれた。だから生い立ちは民主主義とは無縁だ。第一、主(アルジ)にしようにも国民はまだいない。事はカネ絡みだった。利権獲得の道具、これがその出自である。だからこのDNAは正確に遺伝され、各国でしぶとく生き続けている。勿論、わが永田町でも。アンバイ内閣では5人も6人も忠実なる後継者が出てきた。
 与太を飛ばしているのではない。氏素性は容易に変わりはしないという人間のベーシックな属性について語っているのだ。天与の制度などない。制度は時代と社会の産物だ。あくまでも先立つのは人間だ。

 団塊の世代は戦後民主主義教育の洗礼を受けた。戦争をくぐり抜けやっと訪(オトナ)った真っ当な民主主義がまばゆく見える世代に、教えられた。彼らにとってそれはアプリオリに尊貴であり、動かし難い到達点であり、不磨の至宝であった。
 以下、余話として ―― 。
 わたしが高校生だった時の話だ。友達の家で彼の父親と話すうち、談たまたま政治形態に話題が及んだ。わたしが「哲人政治」を宣揚すると、父上は烈火のごとく怒り始めた。バカかと言われれば、はいそうですとは言えない。今より3倍は不正直だった。論争などという上等なものではない。単なる罵り合いに終始した。今にして振り返れば、父上にとって戦後民主主義は相対を峻拒する遥か高みの絶対の正義であったのだ。逆鱗に触れるどころか、足で踏み付けてしまったのであろう。若気の至りであった。いやはや面映ゆい。

 遥かむかしの青臭い話だが、いまだに問題意識は変わっていない。民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。野中広務氏が彼を「独裁者だ」とこき下ろしたのは、民主主義の眩さを忘れない良識の抗弁ともいえる。
 なんとも民主主義は不自由なものだ。特に代議制民主主義はそうだ。チャーチルは言った。「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」と。そのご本人も、大戦の終了直前総スカンを食う。総選挙で敗れ首相の座を明け渡すことになる。戦時の宰相と平時のそれとを峻別されたのだ。だから一層この発言は重い。

 さて衆院の正当性、ひいてはフグタ新内閣の正当性の問題である。野党がさかんに言い募る切り口だ。しかしこれは敵失に乗じた手前勝手とも聞こえる。支持率如何で雲散する議論かもしれない。「直近の国政選挙の審判」というが、それを真っ正直に踏まえると、国会のたびに開会前に選挙をしなければならなくなる。駄々っ子の無い物ねだりだ。代議制民主主義は腰が重いということをよく噛みしめたほうがいい。
 繰り返そう。人間万事塞翁が馬。ここは与野党ともに日本版「コアビタシオン」の初動期と捉えて、『不自由さ』とじっくり向き合ってはいかがか。そのほうが余程お国のためだ。わが国、民主主義の進歩のためだ。戦後60年余、やっと『欧米か!?』と言えるところまできたのだから……。
 前述の「問題意識」については、稿を改めて語りたい。とりあえず、フグタ君の登場を祝って ―― 。「天の声にも変な声もたまにはあるな」などと言わないことを念じている。□


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