伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ストーリー テラーに乾杯!

2006年12月27日 | エッセー
 振り返ってみるに、今年最大の収穫は作家・浅田次郎氏との出会いであったろう。勿論、作品との邂逅である。意図しない出会い、そのものであった。その経緯については、本ブログの8月24日付「キケンな本」に記した。爾来、浅田浸けの日々を送ることとなる
 「書物の新しいぺージを一ぺージ、一ぺージ読むごとに、わたしはより豊かに、より強く、より高くなっていく!」とはチェーホフの言葉だ。まことに良書との出合いは値千金である。「勇気凛凛ルリの色」初版が96年。この作家との巡り会いに旬年を要した勘定になる。だが、遅きに失してはいない。彼は現役だ。
 いまだ浅田ワールドを渉猟し尽くしたわけではない。だから評する資格も、もとより力量もある筈はないのだが、年の終わりにその感慨の一端を記して筆納めとしたい。

 「お腹(ハラ)召(メ)しませ」は今年の「司馬遼太郎文学賞」に輝いた。一度の出会いはあったものの、遂に言葉を交わすことのなかった氏にとって感慨一入であったに相違ない。江戸末期に材を取った短編集である。切腹、神隠し、賄賂などをテーマにストーリー テラーの面目躍如たる作品である。ただ、江戸末期、晩期を舞台としたところがこの作家の凄みだ。たとえば祖父の昔語りから、あるいは携帯電話から、さらには抜擢人事から、はたまた卒業生名簿から、奇想、天外遥か江戸より来(キタ)るのである。
 したがって、筋立ては「武士の一分」のように直線的ではない。むしろ、それへの強烈なアンチテーゼだ。不祥事は腹を召さずとも維新が清算し、不義密通は一刃を交えずとも鮮やかに始末される。250年の泰平が育んだ生きる智慧が難題を見事に捌(サバ)く。生半(ナマナカ)な時代物ではない。
 『お腹召しませ』と迫る声は、『武士の一分』を立てよと急(セ)き立てる。しかし主人公は結句、『人間の一分』に忠義を立てるのだ。この辺り、憎い展開だ。さらには、「男の一分」を果たすための奇策。つまりは神隠し。遥かな古(イニシエ)に兵(ツワモノ)であった一団は、やがて「お家大事」の官僚団と化す。その屈折。時代回転の大津波は寄せてはいるものの、いまだ気配はない。優れて巧みな時代設定である。
 このテラー、一段と語り口滑らかに、聞き手を決して飽きさせはしない。
 
 「中原の虹」は今も進行中の作品である。来年には三・四巻が揃い、完結する。「蒼穹の昴」にはじまり、「珍妃の井戸」を挟んだ大河のごとき小説である。第二巻で西太后が身罷り、一つの区切りを迎えた。 ―― と、ある想念が浮かぶ。この作家、西太后に惚れたのではないか。たとえば、塩野七生氏がカエサルに入れ込みついにはローマに移住したように。でなければ、希代の悪女を五千年に及ぶ王朝史のクローザーとして蘇らせる筈はない。
 歴史小説としては、舞台は指呼の間にある。近いだけに書き辛かろう。前人未踏の時代でもある。その難渋に挑ませたのは、繰り返すが、后への思慕に外なるまい。崩じはしたものの、著者の胸奥にはしかと生き続けるに違いない。後(ノチ)の展開や、いかに。
 このテラー、いよいよの大団円に向かい、万端抜かりはあるまい。

 氏は名代(ナダイ)のストーリー テラーである。これは多言を要しない。加うるに、頭抜けた『言葉づかい』である。これも作品に当たれば領解(リョウゲ)できる。包丁づかいの名人が意のままに材を刻み料理るごとく、氏の言葉は如意棒のごとくに材を捌き、さまざまな世界に誘(イザナ)ってくれる。平成の語り部とは氏をおいて外にはない。
 かつて氏は「小説家とは嘘をつくことを許された職業である」と述べた。嘘はついても、それらが紡ぐ世界には空蝉(ウツセミ)のまことが綺羅星のごとく輝く。ならば、上手に、上手な嘘がつける作家こそストーリー テラーだ。
 年の括(クク)りに、満腔の祝意を込めて ―― 平成のストーリー テラーに乾杯!
 
 ―― fulltime氏に深謝しつつ。   団塊の欠片 拝 □