伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

極月 雑感

2006年12月20日 | エッセー
 極月(ゴクゲツ)である。一年極みの月である。「時間は飴のように伸びた棒」と言った作家がいた。宇宙の運行に依拠するものの、際限のない自然の流れに人為の節を刻む。これは人類の卓見にちがいない。「飴のように伸びた棒」では定心を失う。
 クリスマスもあればイスラム暦もある。旧正月もある。しかし、グリニッジに合わせて世界は新しい節を刻む。人為的リセットだ。外はなにも変わりはしない。変わるのはこちらだ。そこにしか意味はない。
 
 竈に湯気が立ち、蒸籠で蒸した餅米を杵が穿つ。勇壮な杵の音(ネ)に、手返しの軽快な拍子が交じる。明けやらぬうちから、にわかに忙(セワ)しい人気(ヒトケ)がする。いつもこの時期になると、わたしの家でも餅搗きをした。親戚や近しい人が集まってきて、昼近くまでずいぶんと賑わった。少年のこころにも時ならぬ華やぎが兆したものだ。来由のほどは不案内だが、極月の風物詩である。新しい年を迎える昂揚は餅搗きとともにやってきた。 ―― こと絶えて、何年になるだろう。

 NHKの大晦日恒例のバカ騒ぎ。あれは止(ヨ)したほうがいい。『一日民放』の御為ごかしはいただけない。いい番組を作る局なのに、なぜかこの日は羽目が外れる。「歌い納め」などといいながら、数時間もすれば昨年のVTRが流れる。「納め」てなどないではないか。「納め」る前の唄が「歌い初め」などとは、ずいぶんひとを虚仮にしたはなしだ。

 この時期、人口の分散が起こる。田舎に人波が戻り、一時の活況を呈する。『美しい国へ』は「国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、郷土愛をはぐくむことが必要だ」と説く。本当にそうか。郷土の延長に国家はない。国家とは共同幻想体だ。個人の実感や体験を超えた抽象概念である。人為の産物だ。「愛する」ことの極限には死の選択が横たわる。著者の意図は別にして、単純化した筋立てには穴があるものだ。『国家の品格』もしかり。「愛国」は決してアプリオリな与件ではない。パトリアとナショナリティとの連関については熟考が必要だ。
 里帰りの波が退いたあと、寂寥の静寂(シジマ)が、また戻る。

 らしくないから、日本も英国のように開店を規制した方がいい。コンビニは元日も開けている。二日から営業を始めるスーパーもある。年の瀬の買い出しも、おせちもノミナルになってしまった。文化は利便だともいえるが、利便が文化を薄くもしている。でも、人は「らしさ」を求めて、今年も買い込むにちがいない。
 実用を離れた「らしさ」が時節の気分を醸す。
 
 今年の流行語大賞は「イナバウアー」と「品格」だった。極月の恒例だ。「イナバウアー」はこのブログでも取り上げた。この技、得点に関わらないことがすばらしい。無償の演技だ。この点はもっと評価されていい。非の打ち所のないプレーの連続に、1点も加算されない妙技を織り込む。荒川静香の凄味だ。
 個人的には『おまえの話はつまらん!』が一押しだ。見事に饒舌の世を一刀両断した。居合いの極意は力を抜くことにあるという。力んで出る言葉ではない。とっくに浮世を超えた秀じいさんの居合いに敵う論客は、今のところ見当たらない。

 骨が折れるほどの大きさでも広さでもない。だが、少しでも年末の負担を減らすために、旧盆の間に『中掃除』を行う。勝手な命名だが、結構気に入っている。汗だくになりながら、半年の埃を払う。なんとも痛快だ。残れば残ったで、年末回しだ。それに引き換え、冬の大掃除は寒さに身を縮め、なにものかにせっつかれながら急ぎことをなす体(テイ)がないか。
 「部屋がきれいになった分だけ、掃除機の中はゴミだらけだ」と、養老孟司さんは言った。私たちは同じことを地球規模で繰り返してはいないか。ゴミ処分場だって地球上にしかないのだから。てなことを理屈に掃除を免れる手はないか。そうは問屋が卸すまい。
 でも、本当にきれいにしたいのは憂き世の垢にまみれた来し方の自分。大掃除のゴミと一緒に今年の自分も捨ててしまいたい。どれほどすっきりと初春(ハツハル)を迎えられることか。 ―― 叶わぬことゆえ、ことしも掃除に精を出すしかあるまい。□