いやがおうにも見せられた中で、唯一膝を打った競技があった。スケートボードでの開 心那(ヒラキ ココナ)の活躍だ。女子パークで銀メダル。12歳、日本オリンピック史上最年少であった。
ド素人の浅知恵でいうと、子どもの遊びである。大人の体躯ではあんな芸当はどだい無理だ。競技の舞台はパークにせよストリートにせよ、公園と街中をギリギリ単純化した構造である。
ボードはサーフィンを街中に再現したことから発祥した。街の雑踏を滑走するサーフンだ。だから、子どもの遊びという。しかし、これがいい。これこそスポーツの原点ではないか。先月の拙稿『真夏の狂詩曲』で霊長類学者・山極寿一氏の高説を引いた通りである。繰り返すと、以下の3点。
① スポーツの起源は遊びである。
② 勝つことが目標ではなく仲間になること。
③ 一番の問題は国の威信をめぐる戦いの場と化していること。
① は前述のとおり。技が成功しても失敗しても選手みんなで讃え悔しがる。② の仲間意識だ。さらに、国なんぞまったく背負っていない。③ を軽くクリアしている。だから、膝を打ったのだ。
振り返るに、スケボーに火をつけたのは『Back to the Future』だったかもしれない(多分、想像するに)。高校生のマーティ・マクフライが街中を縦横に乗り回していたのがスケボーであった。SFを壮大な知的お遊びだとすれば、あのスケボーは存在感のある小道具だったともいえよう。
ともあれ、スケボーはスポーツとオリンピックの原風景を描き出してくれた。ブラボーだ。
一方で、化けの皮が剥がれた痛恨事があった。開催期間に当たる8月6日「広島原爆の日」に黙祷を捧げるという広島市などの提案をIOCがにべも無く蹴ったことだ。バッハの広島平和公園訪問は一体何だったのか。チープな猿芝居か。本来ならJOCが、いや政府を挙げて提案すべきだった。競技を一斉に止めるのは難しい、核保有国が絡み政治性を持ち込むことになるなど小理屈を並べて取り上げなかった。「平和の祭典」がとんだ看板倒れである。政治性を理由に挙げること自体、政治性を補強している自己撞着になぜ気づかない!
政治性というなら、元々安倍晋三が己(オノレ)のレガシーづくりに「フクシマはアンダーコントロール」と大嘘をついて招致したイヴェントである。その先には国民の高揚感を掻き立てて憲法改定に直進しようとする野望があった。ところがコロナでそれは潰えた。善良な公務員を死に至らしめてもなお19年11月から昨年3月まで、国会で119回もウソをつきまくった御仁である。「本当なら首相も議員も辞める」が発端だった。語るに落ちる、だ。
後継の菅義偉はコロナ対応での無反省と無策が祟って今や支持率は3割を切っている。オリンピック強行に活路を求めたものの、五輪支持は6割あっても内閣支持は完全にデッドゾーンに入った。緊急事態宣言のたびに繰り返される「安心安全」のストックフレーズ。こちらは失語症、『語らずに落ちる』だ。
ともあれ、かくして『狂気の沙汰』(内田 樹氏)はデルタ型のパンデミックとともにフェーズを永田町に移す。さて。 □