伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

サピエンス全史

2017年01月29日 | エッセー

 農業は史上最大の詐欺だったと聞けば、農薬売買に絡む事件かGM作物に忍ばせた陰謀かと受け取ってしまう。ところが、言葉の通りなのだ。

   ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出書房新社 16年9月初版発行  
   サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福

 ネットのコピーには
──農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。──
 とある。もうこれだけでじっとしていられない。昨年末からにわかに話題になった。年明けにすぐ注文したものの、あのAmazonでさえ2週間待たされた。
 著者は
 〈1976年生まれのイスラエル人歴史学者。オックスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得し、現在、エルサレムのヘブライ大学で歴史学を教えている。軍事史や中世騎士文化についての3冊の著書がある。〉
 と、同書のプロフィールにある。小さく区切ってもホモ・サピエンス250万年に亘る歴史だ。実に『大きな絵』である(この言葉は本稿で幾度となく使ってきた)。干支に因むなら、これほどの“鳥”瞰ができるのは長遠なスパンで歴史を刻んできたこの民族伝来の天資なのかもしれない。
 サピエンス全史において、4度の革命があったという。最初は7万年前の『認知革命』。認知症ではなく、謂は認識に近い。その劇的変化だ。虚構を共有する能力といえる。「共同幻想」を掲げた吉本隆明なら泣いて喜ぶかもしれない。数多のホモ族の中でサピエンスのみが生き延びた秘密はそれだという。
 体躯も脳のサイズも優勢であったネアンデルタールを駆逐したのは認知革命の賜だという。「ライオンがどこそこにいる」との認知は共有できても、「ライオンは守護霊だ」との認識はネアンデルタールには共有できなかった。サバイバルのための協力を可能にしたのは認知革命によって獲得した虚構の共有であった。昨年同時期に発刊された『人類進化の謎を解き明かす』でイギリス人人類学者ロビン・ダンバーも同趣旨の見解を提示していた。高緯度に暮らすネアンデルタールが視覚を優先し前頭葉を犠牲にしたため認知能力や集団形成に後れを取った、と(昨年9月の拙稿「中高年、必読の書」で紹介した)。ハラリ氏はさらに進めて、認知革命が伝説や神話に止まらず企業、法制度、国家、国民、人権、平等、自由などの虚構を生んだと論じていく。とてもドラスティックでドラマティックな展開だ。本書の急所ともいえる。
 続く1万2千年前の農業革命。“詐欺”と“家畜化”の実態が明かされる。慣れない作業による多数の疾患、極端な偏食による栄養失調、集団的飢餓と暴力の発生など、人口の爆発的増加の代償はあまりにも大きかった、と。因みに稿者の概算によると、狩猟採集の期間は農業の206倍の長きに及ぶ。裏返せば、“新しい身体の動かし方”に身体の進化が追いつくには全然時間が足りないということになる。ともあれ、定説や常識がものの見事にひっくり返される快感はカタルシスを覚える。
 後、1万年強の間に認知革命と農業革命を基底にして貨幣、帝国、官僚制、世界宗教が生まれていく過程が克明に描かれる。別けても「貨幣は人類の寛容性の極みでもある」とする見解は出色だ。貨幣については本稿で何度かない頭を絞ってきた。08年10月「きほんの『き』」、09年2月「きほんの『ほ』」、11年8月に「きほんの『ん』1/2」と「きほんの『ん』2/2」と。振り返って、「寛容性の極み」に近似していたことに意を強くした。
 「4度の革命」の内、残る2つは500年前の科学革命と200年前の産業革命だ。全知の神の元、進歩はありえないという前提を覆し、無知を前提とする科学が進歩を登場させた。
 著者の言葉を引こう。
 〈科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた。長年積み重ねてきた叡智を厳しく固守すれば、古き良き時代を取り戻せるかもしれず、人間の創意工夫は日常生活のあちこちの面を向上させられるかもしれない。だが、人類の実際的な知識を使って、この世の根本的な諸問題を克服するのは不可能だと思われていた。〉
 しかし、サピエンスは科学による下克上で地球史上最強の力を手に入れ始めたのだ。大航海時代が始まり、新大陸が発見され地球が単一の歴史的領域となる。そこに資本主義が生まれ、300年後の産業革命へと連動していく。
 資本主義を理解する件(クダリ)で、「富」と「資本」は違う、資本とは「生産に投資されるお金や資源だ。一方、富は地中に埋まっているか、非生産的な活動に浪費される。非生産的なピラミッドの建設に資源を注ぎ込むファラオは資本主義者ではない」とは明解この上なく、痛いほど膝を打った。難しいことを平易に語れるのは頭のいい証拠だ。本稿と真反対だ。不甲斐なさにハラリと(失礼!)涙が零れる。
 もう1つ。産業革命のキモは「熱を運動に変換するという発想」だったという。今では当たり前だが、蒸気という「熱を使ってものを動かす」ことは夢想すらしなかったことだと。踵を接して石油や電気が現れるのだが、ハラリ氏は「実は産業革命は、エネルギー変換における革命だった」と語る。本質を抉る卓見だ。貴族とコミュニティが消え、国家と市場が主役に躍り出る。裏側で動植物が大規模に絶滅していく様が克明に描かれていく。実は、「産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っている」。その「記録」は今なお加速度的に更新されている。ハラリ氏の危惧は「人間至上主義」へ鋭い疑問を投げかける。
 巻末に至り幸福とは何かと問い、今日と将来へと視線を注いでいく。
 「人類が地球という惑星の境界を超越し、核兵器が人類の生存を脅かす。生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる」現代から、未来には「知的設計が生命の基本原理となるか? ホモ・サピエンスが超人たちに取って代わられるか?」と問題を提起する。
 ハラリ氏は歴史研究についてこう語る。
 〈歴史は正確な予想をするための手段ではない。歴史を研究するのは、未来を知るためではなく、視野を拡げ、現在の私たちの状況は自然なものでも必然的なものでもなく、したがって私たちの前には、想像しているよりもずっと多くの可能性があることを理解するためなのだ。たとえば、ヨーロッパ人がどのようにアフリカ人を支配するに至ったかを研究すれば、人種的なヒエラルキーは自然なものでも必然的なものでもなく、世の中は違う形で構成しうると、気づくことができる。〉
 この言葉にはおそらくユダヤが嘗めた辛苦の歴程も裏打ちされているだろう。内田 樹氏はこう綴る。
 〈歴史にもしもはないと言う人がいますが、僕はそう思わない。「もしもあのとき、あの選択肢を採っていれば」という非現実仮定に立って「もしかすると起きたかもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義なことなんです。〉(「日本戦後史論」から)
 確か2人は同じことをいっている。「今ここにある現実の意味を理解」すれば、「世の中は違う形で構成しうる」はずだ。緊要なのは『大きな絵』だ。浩瀚ではあるが、挑戦のしがいは充分あった。 □