伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

日頃の行い?

2017年01月24日 | エッセー

 昨年5月場所13日目、全勝同士の白鵬と稀勢の里が対戦。稀勢の里が白鵬を追い詰めたものの、あと一歩のところで下手投げを喰らい正面土俵際で甲羅返しにされた。白鵬は全勝優勝し、またも稀勢の里は優勝を逃し綱取りも潰えた。問題はその後の白鵬のコメントだ。
「勝っていいよという感じだったけど、要は(稀勢の里は)勝てない。誰かが言っていたね。『強い者が大関になる。宿命のある人が横綱になる』と。何かが足りないんでしょうね。横綱・白鵬を倒すには日頃の行いもよくなければね」
 一カ所を除けば非の打ち所がない。その一カ所とは「日頃の行い」だ。何を指していたのか。
 あるスポーツ紙の記者がこう言っていた。
「横綱審議委員会の稽古総見や巡業の稽古の前には、幕内力士たちは白鵬のもとへ水をつけに行く。これから稽古をつけてもらう下位力士の礼儀みたいなものですが、稀勢の里だけは黙々と四股を踏み、水をつけに行かない。白鵬に対する意地があるんですよ。どこか、青森出身の師匠・鳴戸親方の“じょっぱり(意地っ張り)精神”に通じるものを感じさせます」
 当て推量だが、これではないか。去年のいつだったか、テレビのあるバラエティ番組でおちゃらけを力士にねだる企画があった。白鵬が芸人を先導して横綱、大関を巡るうち、稀勢の里だけはすんなりとは応じなかった。あれもじょっぱりだったか。
 稿者の勘ぐり通りだとすると、白鵬が担う横綱の「宿命」に疑問符を付けざるを得ない。「下位力士の礼儀」を守ることが「日頃の行い」だとは、随分狭量な宿命もあるものだ。本場所を離れようとも常住坐臥、意地を張り通す方がよほど勝負師ではないか。表舞台では火花が散っても、楽屋裏では和気藹々。それは芸事か政治の世界であって、男同士のガチンコ勝負では返って気持ちが悪い。少なくとも現役の間は。
 白鵬の狭量、勘違い、もしくは浅識の根はどこにあるのか。やはり、「過剰同化」に行き着く。本稿では何度か取り上げてきた。15年2月「『燃えよ綱』」、15年10月「異風はどこから」、16年5月「かちあげ 禁止に!」、16年9月「一強はつまらない」と。別けても、「『燃えよ綱』」は一番多く紙幅を割いた。以下、抄録してみる。
 〈近藤勇も土方歳三も出自は武州の百姓であった。彼らは身を焦がさんばかりに武士を憧憬し、ついに武士以上の武士となった──。それが司馬遼太郎の見立てである。近藤たちは三百年の太平に弛緩した武士群に分け入り武術、忠義ともに武士たらんと努め、結句日本史上に屹立した武者振りを塑像するに至った。そう司馬は物語『燃えよ剣』を紡いだ。エピゴーネンが時としてプロトタイプを超える。人の世の妙であり、綾でもあろう。
 突飛なようだが、白鵬のことだ。
 初場所、大鵬の記録を塗り替えた。それはいい。だが、中身が悪い。かつ、行儀も悪い。
 昨年夏場所では、優勝の一夜明け会見をボイコット。今場所では、稀勢の里戦での物言いに疑義を呈し審判を口汚く罵った。千秋楽では入場が遅れ、先行の取組仕切り中に審判の前を横切るという前代未聞の失態を演じた。遠藤戦では、「遠藤コール」の大合唱に激情して張り手、搗ち上げの荒技を連発した。ほかにも不要なだめ押しなど、顰蹙を買う場面が続出している。
 「日本人以上の日本人」と言われてきたこの相撲取りが、あろうことか「品格問題」を起こしている。
 09年1月の拙稿「悪童が帰ってきた!」で触れたが、朝青龍は「日本人」の対極にいた。「品格」を嘲笑うように悪童に徹した。稿者はそこを評価した。比するに、白鵬は「日本人以上の日本人」たろうとした。「エピゴーネンが時としてプロトタイプを超える」やもしれぬところまで至っていたといえる。ところが、大記録を前にエピゴーネンに逆戻りし始めたのではないか。
 双葉山や大鵬のビデオを観て勉強してきたというが、おそらく区区たる技の学習に過ぎなかったのではなかろうか。大鵬の夫人納谷芳子さんは白鵬の審判批判に対し、大鵬の連勝が四十五で止まった戸田戦での誤審を振り返ってこう語った。
「テレビで見ていた私たちは悔しかったんです。宿舎で帰りを待って『お疲れさま。絶対勝ってたのに…』と言ったら『そうなんだよ』とは言いませんでした。『そういう風に見られる相撲を取ったのが悪いんだ』と言ってました。逆に私たちが励まされました」
 まことにロールモデルは超えがたく、大きい。協会のお叱りなぞ吹き飛ばすほどの大鉄槌ではないか。
 ついでにいえば、懸賞金を受け取って押しいだき拝むような仕草。あれはいけない。謝意は手刀だけで十分だ。鳥目を離れたところに勝負の真髄はある。少なくともそういう虚構で土俵は設えられている。勝者にその場で直接現金が手渡されるプロスポーツは、もちろんアマも含めて大相撲以外にはあるまい。ならば余計楚々たる振る舞いであらねばならぬ。敢えて執着を見せず、枯淡であること。これは彼がなろうとしている「日本人」の一典型である。〉
 白鵬にとっての「プロトタイプ」は、横綱を頂点とするヒエラルヒーの中で「下位力士の礼儀」に盲従するという卑小な形でしかビルトインされていなかったのかもしれない。より高次の「謙譲」や「抑制」「寡黙」「不器用」「枯淡」、ましてや「敗戦の美学」といった徳目は捨象されていたのだろう。過剰同化の対境を見誤ったというほかない。比するに、始めっからそのようなものは眼中になかった朝青龍こそ遙かに分かりやすい。
 さて、横綱だという。相撲通を任ずる2人のコメントが印象に残った。
 やくみつるは「横綱は『絶対的強者』でなく、その時代の『相対的強者』でいい」と評した。朝青龍が消え、さしたるライバルがいない中で『相対的強者』でしかなかった白鵬がその典型であろう。
 内館牧子は「私は毎回毎回うまくいかない稀勢の里を見ながら、心の中で語りかけていた。『バスがダメなら飛行機がある!』。そして2017年初場所、飛行機は稀勢の里を乗せ、『第72代横綱』という目的地に一気に着いた」と語った。臥薪嘗胆の果てに頂点を掴む。最も日本人のメンタリティに適うこのドラマツルギーは過剰同化のしようがない。白鵬には悪いが、これだけは真似できない。バスに乗り遅れず、「宿命」のままに「目的地」に着いてしまったのだから。
 どんな横綱になってほしいか。もちろん、ここ一番でコロッと負ける気弱な横綱だ。期待を持たせつつ、すぐには叶えてくれない『相対的強者』。とどのつまりで飛行機に乗ってひょいとテレポートする横綱。記録なんか残さなくていい。短くていい。しっかと記憶にさえ残れば。これもまた日本人の高々としたプロトタイプなのだから。 □