伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「汚れつちまつた悲しみ」

2017年01月19日 | エッセー

 まったくの偶然であった。本屋の棚で、すーっと手が伸びた先が「中原中也 全詩集」だった。断片的には読んでいたものの、一度纏めて全作品に触れておくのもいいだろう、そんな気がしたのだ。
 驚いた。二日後、NHKBSの予告番組に偶会した。『朗読屋』という中也を素材にした、吉岡秀隆主演のドラマである。今年は中也生誕百十年、没後八十年の節に当たる。それも後から知った。
 番組では、詩集『山羊の歌』から「汚れつちまつた悲しみに……」の朗読が始まった。定番中の定番だ。……と、
「ん! 何かおかしい」
 そう、独り言ちた。違う。「汚れ“つ”ちまつた悲しみに」じゃない。「汚れちまつた悲しみに」ではないのか。「ちまつた」の前に「つ」の促音便は入っていないはずだ。今風の表記だと、「汚れっちまった悲しみ」と「汚れちまった悲しみ」の違いだ。慌てて読み終えたばかりの詩集を取り出して検めてみる。
 驚いた。確かに入っている。えっ、どうして。数十年間、不朽の名作をずっと読みまちがい、記憶ちがいをしてきたことになる。脳科学の知見によれば人は見たいようにしか見ないという。そのバイアスはどうして生まれたのか。
 考え倦ねた末、ふと「全詩集」の巻末にある小林秀雄の一文が浮かんだ。はるか半世紀前から幾度か読んでいたので直前で本を閉じていた。それを読み返した。「中原中也の思ひ出」である。
 驚いた。詩の冒頭四行が引用されているのだが、なんと
「汚れちまつた悲しみに」
 と、件の促音便が入っていない。本文中の引用も同様だ。これだ。これがバイアスの正体だ。小林を読み耽るあまり、誤写まで受け継いでしまったことになる。いや、誤写ではなくて小林にとっては同じことだったのかも知れない。当時の東京の言葉遣いでは小林流だったのか、中也が忠実に音を拾ったのか。浅学にして判断はつかない。
 中也論を企てるつもりはない。そんな力も知見も毛頭ない。上記の小林の一文
「彼の詩は、彼の生活に密着してゐた、痛ましい程。笑はうとして彼の笑ひが歪んだそのままの形で、歌はうとして詩は歪んだ。これは詩人の創り出した調和ではない。中原は、言はば人生に衝突する様に、詩にも衝突した詩人であつた。彼は詩人といふより寧ろ告白者だ。」
 を吟味すれば足りる。ディレッタントにはそれで充分だ。ただ、番組中何度も中也の言葉が「刺さる」という発言があったことには触れたい。
 映画の根源的な力は映像にある。筋書きよりは絵だ。これは稿者の持論である。ならば、詩歌の力も言葉が根源だ。意味の前に、言葉だ。視覚、聴覚においての言葉の力だ。「刺さる」とは思考を突っ切って、意味を振り切って、いきなり琴線を掻き毟る鮮やかな事情をいうのではないか。その突破力が言葉だ。それがなんともかっこいい。「詩にも衝突した」具合が、かっこいいのだ。
 突飛だが、そのかっこよさは吉田拓郎の『祭りのあと』に通じる。岡本おさみ作詞、四十五年前の曲だ。中也をはじめて読んだころか。
  〽祭りのあとの淋しさが
   いやでもやってくるのなら
   祭りのあとの淋しさはたとえば女でまぎらわし
   もう帰ろう、もう帰ってしまおう
   寝静まった街を抜けて〽
 驚いた。「もう帰ろう、もう帰ってしまおう」でシャウトする。沈まない。これは意表を突く歌いっぷりだ。「淋しさ」を振り切ろうとして歌が「詩にも衝突した」フリクションにちがいない。しめやかに詠じたとしたら、淋しさに殺される。

   汚れつちまつた悲しみに
   今日も小雪の降りかかる
   汚れつちまつた悲しみに
   今日も風さへ吹きすぎる

 驚いた。悲しみが汚れに塗れるとは……。「歌はうとして詩は歪んだ」ゆえか。悲しみのままで詠じたとしたら、悲しみに殺される。
 今冬初の寒波に震えながら、「汚れつちまつた悲しみに……」を口遊んでみた。 □