日本に住まうならば、刻下必読の一書である。69回目を迎える8・15に、かもがわ出版から発刊された。
内田 樹著
憲法の「空語」を充たすために
『内田節』炸裂、『内田論』満載である。前者は氏独自の話法であり物言いだ。後者は氏が社会の病理を剔抉する慧眼の謂である。
本年5月3日、「憲法記念日」に行われた兵庫県憲法会議主催の集会での内田氏の講演録である。これは本というより、ブックレットだ。100頁にも満たない。だから、一気に読める。
解題すると、「憲法の『空語』」とは、制定時に憲法には「リアリティー」がなかったことである。掲げられた国家像に国民的合意があったわけではなく、それは──アメリカ独立宣言もフランス革命の人権宣言も「空語」──(上掲書より)であった事況と同様である。
「充たす」とは、──「空語」としての憲法を長い時間をかけて忍耐づよく現実化する──(同上)ことである。つまり、かつて丸山眞男が語った「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています」に通底する趣旨である。
帯のコピーには、
日本はいま、民主制から独裁制に移行しつつある
筆者初の本格的憲法論
グローバル化と国民国家の解体を許さない
とある。
内容は大括りで、
日本の民主制と憲法の本質的脆弱性を考える
1. 「日本国民」とは何か
2. 法治国家から人治国家へ
3. グローバル化と国民国家の解体過程
である。
憲法の名宛人はよくイシューに挙がるが、差出人について様々な角度からとびきり深く、かつ痛快な論究がなされるのが 1. である。(以下「 」部分は上掲書から引用)
フランスを例に採り、「枢軸側の実質的同盟者(引用者註・敗戦国)でありながら、最終的に連合国の一員(引用者註・戦勝国)として終戦を迎えることができた」のは、「終戦のときに焦土となったフランスで『最後に立っていた政体』が自由フランスであったために、フランスは戦勝国になることができた」と述べ、「敗戦国の中で唯一日本だけが・・・・戦争に反対し続け、敗戦のとき、焦土に『最後に立っている者』がいなかったからです」と展開する部分は痺れるほどの圧巻である。
安倍首相の「総理大臣が最終決定者である」との発言に顕著な「今進められている解釈改憲の動きは『法治から人治へのシフト』のプロセスだと言ってよい」とし、「株式会社的マインドが日本人の基本マインドに」なったことにその原因を探る。これが 2. である。
大阪市長もよく使う捨て台詞「反対なら、次の選挙で落とせばいい」に潜む、「民主制を空洞化する発想」を抉る。「次の選挙=マーケット」だとし、 「これまで政治家の口から聞いたことがない言葉を繰り返すようになったのは、彼らが株式会社の経営者の気分でいるから」と断ずる。
さらに「株式会社は有限責任体であり、国民国家は無限責任体」であるとして、人治へのシフトがもつ本質的誤謬を糾弾する。これもまた、身震いするほどの圧巻である。
3. は、自民党改憲草案22条への胸のすく指弾からはじまる。まさに快刀乱麻を断つだ。日本最高峰の知性による論駁にまともに太刀打ちできる論者など、劣化した自民党起草委員会には確実にいない。
上記の草案に伏流するグローバル資本主義へと舌鋒は進み、国民国家の解体へと論及していく。持論の「反グローバリズム」が理路鮮やかに繰り出されていく。ここも、爆ぜ裂けるほどの圧巻だ。
締め括りは極めて印象的だ。
「いずれ安倍政権は瓦解し、その政治的企ての犯罪性と愚かしさについて日本国民が恥辱の感覚とともに回想する日が必ず来るだろうと僕は確信しています」
氏の確信は、「憲法に示された国家像を身銭を切って実現しようとしている生身の人間がいるという原事実が憲法のリアリティを担保する」との確言にリニアに繋がる。
身銭を切る「生身の人間」とは、日本に住まう他ならぬ先ずわたしである。 □