伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「利休にたずね」てみた

2014年08月26日 | エッセー

 先月23日の拙稿『夏の滾り』でも引用したのだが、再度臆面もなく援用したい。歴史学者・磯田道史氏の言である。
◇いわゆる歴史文学には時代小説、歴史小説、史伝文学の三つがある。
 史伝文学は、歴史小説よりもさらに史実に即した歴史文学で、時代小説のような荒唐無稽な創作を排し、古文書などの史料に基づいて、実在の人物を登場させ、歴史小説よりも精密に実際の歴史場面を復元してみせる。まさに「事実は小説よりも奇なり」の文学であり、創作による架空を楽しむというよりも、歴史のなかの事実発見や分析の妙を味わうことに、その主眼をおいています。これが史伝、あるいは史伝文学というものであろうと私は考えます。◇(朝日新書「歴史の読み解き方」から抄録)
 「史実に即した」濃淡から捉えると史伝文学が一番濃く、続いて歴史小説、時代小説の順となる。裏返せば、「荒唐無稽な創作」性が最も高い歴史文学が時代小説といえよう。そのあわいにあって、「荒唐無稽な創作を」挟みつつも、ある程度の「史料に基づいて」、「実在の人物を登場させ」、おおよその「歴史場面を復元して」、「事実」ではなく「小説よりも奇なり」な『真実』を描こうとするものが歴史小説といえようか。
 してみると、これは歴史小説にカテゴライズされるであろうか。
   山本兼一著「利休にたずねよ」
 平成20年、第140回直木賞受賞作品である。昨年末に、市川海老蔵主演で映画化もされた。無類の読書好きである友人に薦められて、遅ればせながら先日読んだ。読んではみたが、拍子が抜けた。
 解説の宮部みゆき氏の言を借りれば、「晩年の利休は何故、多くの取りなしを振り切り、他の打開策をとらず、敢えて秀吉と対立し、自刃したのか。・・・・この有名な歴史上の謎の<解>」が、なんとも陳腐なのだ。『どうして、そこにいくの?』である。明かされた『真実』が、ちっとも「小説よりも奇なり」ではない。絵に描いたような、ステロタイプな小説的『真実』で大団円を迎える。だから、拍子が抜けた。
 利休自尽の訳については十指に余る説ある。つとに高名である故、ここでは略す。この作品がそれらを凌駕するドラマツルギーをもつことは認めるにしても、口惜しいことに歴史的鳥瞰に欠け、史的ビューに乏しい。せっかく「有名な歴史上の謎」に材を採りながら、眺望が近すぎる。
 例えば、次のような考究がある。
 内田 樹氏が釈 徹宗氏との共著『日本霊性論』(NHK出版新書、今月刊)で、こう語る。
◇奈良時代でも、平安時代でも、それまで宗教を担ってきた人たちは貴族、僧侶という、非生産者の都市住民であった。それが鎌倉時代に入ってきて、農民あるいは土に近いところにいる武士たちが新しい宗教運動を担うようになった。大地とのふれあいを持つ人たち、野生のエネルギーに直接ふれる経験を持った人たちが宗教活動の前面に登場してきた。◇(抄録)
 「土に近いところにいる」、「大地とのふれあいを持つ人たち、野生のエネルギーに直接ふれる経験を持った人たち」は、当然文化「活動の前面に登場して」くるはずだ。その高々とした一結晶こそ茶の湯であり茶器ではなかったか。
 つづいて、内田氏はこう述べる。
◇信長や秀吉はキリスト教と出会うことによって、「牧者」である自分が「羊の群れを率いてゆく」という自己イメージを形成したのではないでしょうか。そういうセルフイメージがないと、なかなか比叡山を焼き討ちしたり、石山本願寺を潰したりというようなことはできませんよ。あれほどの宗教弾圧は日本史上でも例外的な事件ですよね。◇(同上)
 叡山焼き討ちや石山合戦は、明らかに宗教的常識の古層を超えている。でなければ、不可侵も禁忌も踏み拉けるはずがない。そこで、こう展開する。
◇鎌倉仏教は「アーシー」(earthy)だけども、安土桃山文化ってまったくアーシーじゃないですよね。都会的で、技巧的で、構築的なものですよね。むしろ、ヨーロッパの感覚に近い。◇(同上)
 むろん信長も秀吉も茶の湯に肩入れはした。しかしそれは政治的小道具としてでしかない。だからといって、ハンチントン張りの文化的フリクションに問題を限局するつもりはない。ただ鎌倉と安土桃山との、またはアーシーと非アーシーとの対比も感に堪えるのではないか。痴人説夢と嗤われるのは覚悟の前。ならばお前が書けとお叱りを受けても、当然稿者に適うことではない。しかし、なにかその種の昂揚を求めて『たずね』てみた。答えは逸れたようだ。 □