三浦 展氏の『下流社会』が80万部を売ってベストセラーになったのが05年。07年には内田 樹氏の『下流志向』が10万部以上を売り上げ、今も読み続けられている。
さて先月、笠井 潔氏と白井 聡氏の対談『日本劣化論』(ちくま新書)と、香山リカ氏の『劣化する日本人』(ベスト新書)が踵を接して発刊された。おおよそ十年一昔を経て、刻下では「下流」から「劣化」に現代日本論のイシューが移ったかのようだ。降下圧は、ついに病膏肓に入るであろうか。
『日本劣化論』は抜き身のごとき穎脱の論客二人ゆえ、痛快この上もない論旨が縦横に奔る。
下敷きには『永続敗戦論』がある(13年7月『永続敗戦』、同年8月『夜話』で紹介した)。両者の共通点は、3・11を日本近代の必然的な帰結と見做す点だ。日本近代を近代人類史の一典型と採るなら、必然的な文明史的帰結でもあろう。科学技術の極北に核があり、8・15で兵器としてサタンの本性を晒した。片や、原発は平和なエナジーとして本性を隠した。ところが奇しくも同じ日本で、再びサタンが牙を剥いたのが3・11である。そのように括るのが責任ある思料ではないか。しかし劣化は悲劇的である。書中の白井氏の言を引こう。
◇今の財界は、すごく近視眼的になってしまっている。経団連の会長だってここ数代ろくな人がいません。今の米倉弘昌(住友化学会長)なんてもうどうしようもないわけです。原発が爆発するのを見ながら、「原子炉は地震と津波に耐えて誇らしい」と言った人ですから、ほとんど狂人に近い感じがします。もちろん今も昔も愚かな人間はつねに一定数いるわけですけれども、今の特徴は、度外れて質の悪い人間が跳梁跋扈していることです。◇
つとに知られた発言だが、「劣化」のコンテクストに措かれると目眩がする。先月末には、大阪府警での犯罪認知8万件の過少報告が発覚した。劣化知事(当時)による劣化政策のプレッシャーに因るものだ。おちこちで劣化の連鎖が起こっているといえそうだ。
白眉は自民党の「劣化」について論ずる件(クダリ)だ。笠井氏はこう語る。(以下、抄録)
◇安倍の鈍感さ。あれはネトウヨと同じですよね。共通の事実認識が最低限ないと、そもそも議論にならない。あるいは論破された後、一歩引いて理屈を組み立てなおしてまた反論してくるんだったら再論の余地があるけど、安倍は論破された後も同じことを繰り返し言い続ける。自分のそういう行動パターンに何の疑問も抱かない。これは安倍個人の知性の問題であるのはもちろんですが、日本社会に深く根を張りつつある新たな反知性主義の問題でもあると思うんです。「これこれの文献にこう書いてあるじゃないか!」と言っても、そもそも読んでいないし、これから参照しようという気もない。「自分の意見に反する文献なら、どっちみち嘘が書いてあるにきまってる」というわけです。この種の人間が目の前に現れたら、さすがにアメリカも面食らうでしょう。これは、同時代的な広がりを持つ非常に根深い鈍感さだと思いますね。◇
受けて、白井氏は「こういう時期にああいう人が首相になって、最高権力者になってしまったということは偶然ではなく、ある意味必然ですよね。社会全体に反知性主義が蔓延しているのですから、見方によっては、日本国民を正しく代表しているとも言えるわけです」と語る。まことに手厳しい。「社会全体に反知性主義が蔓延している」事況については、『劣化する日本人』で香山リカ氏が克明に剔抉している。
STAP細胞問題に潜む「自己愛パーソナリティ」、佐村河内騒動に顕れた「演技性パーソナリティ障害」、パソコン遠隔操作事件に視る「回避性パーソナリティ障害」、政治家の暴言・失言などなど、知的な劣化や想像力の衰退を事例を挙げつつ導出している。
中でも、注目される実例がある。首相再登板を間近に控えた安倍晋三氏が、フェイスブックのコメントに特定のコメンテーター(香山氏自身)に対して「人前にでれない」「恥を知れ」などと過激な言葉で罵っているのだ。それよりも注目は、「さすが安倍さん」といった賞賛の声が圧倒的だったことだ。権力者のトポスや品格を等閑視する知的劣化が歴然としてはいないか。
終章で反知性主義が安手の陰謀説への盲従に繋がる危険と、市場万能主義の跋扈に警鐘を鳴らしている。
◇「単純なもの、考えなくてもいいものが好まれる」という状況やそれでも説明がつかないことが起きると、とたんに「韓国が日本のマスコミや広告代理店を牛耳っている。その証拠はこれとこれで……」といった安っぽい陰謀論が登場してくる状況を見ると、「反知性主義」という病理の進行はすでに治療不能のレベルにまで到達しているのではないかとさえ思われる。
従来の日本人モデル、つまり生真面目、慎重で誠実といった性質が突然、消えてなくなったわけではなく、それよりも「稼ぐことは悪いことではない。カネがほしいと思うのは汚いことではない」という資本主義が行き着いた先に一気に花開いた市場万能主義、新自由主義が、すべてを凌駕してしまったということなのではないだろうか。◇(上掲書より抄録)
『日本劣化論』に戻ろう。
圧巻は最終章で語られる戦争観だ。笠井氏の論攷を要約する。
◇一九世紀までヨーロッパでは、国際社会には国家間の対立を決裁しうるメタレヴェルの権力が存在しないので、戦争が利害調整の最終手段になるしかなかった。
二〇世紀の世界戦争は、世界国家の実現を最終目的にした戦争であった。第一次大戦を起点とする二〇世の世界戦争は、国際社会にメタレヴェルを、要するに世界国家を析出するための戦争だった。
二一世紀の戦争はどうなるのか。いわゆる世界内戦という戦争形態になるでしょう。テロとも戦争とも決めかねる軍事力行使に、これまた国家間戦争ではない反テロ戦争が対抗する。◇
白井氏は「そういったテロの定義も戦争の定義も国家の定義もすべてぐちゃぐちゃになってきたから、その状態を世界内戦と言ったわけですね」とまとめている。
国家間戦争から、世界戦争へ。そして世界内戦に。詳説は本書に委ねるとして、このように大きな俯瞰的勘考は視界を一気に開いてくれる。澄明な視座を与えてくれる。ところが、実態はこうだ。
◇笠井:大東亜戦争肯定論を靖國参拝などの形で実行していくと、サンフランシスコ条約体制を認めないのかということになりますね。条約破棄で第二次世界大戦をもう一度やり直そうとしていると疑われる。安倍にはどうも、そこのところがよく分かっていない。「戦争には負けたけれども、あれは正しかった」「勝敗と正邪善悪は別だ」と思ってるんだろうけど、喧嘩に負けた子供の負け惜しみと同じで、こんな言い草は国際政治のレヴェルでは通用しません。
白井:そりゃ、幼児化していますから、子供の喧嘩レヴェルの理屈しか繰り出せないんでしょうね。
笠井:一九世紀的な国民戦争ならともかく二〇世紀の世界戦争では、敗北の承認はすなわち、勝者の論理を受け入れることを意味します。それが嫌だったら、ドイツのように国家体制が崩壊するまで戦い続けるしかない。負けを認めたが最後、「アメリカは強かったから負けた。でも日本は正しかった」なんていう理屈は通りません。日本の戦後右翼とそれにつながる保守勢力というのは、どうもそこのところにかんして腹が決まっていない。ボクは悪いことなんかしていないという自己肯定、自己承認の欲望に取り憑かれ、それを疑おうとしない幼児性が抜きがたく存在する。この点は八・一五以来、何も変わっていないと思います。◇(抄録)
これは核心をまっすぐに衝く。日本の保守と時の為政者が「子供の喧嘩レヴェル」でしかないほど劣化している事態に唖然とする。
外に天皇、自虐史観の誤謬、ネトウヨ、レイシズム、沖縄、経済成長の無力と、論点は多岐に亘る。笠井氏は自著『国家民営化論』を基に国家が存続する意味を問い、主権国家の先に世界国家を遠望している。書名のインパクトもさることながら、蓋し好著である。
以下、余話として。
意外なことにGHQ時代にマッカーサー人気が日本人女性の間に起こり、アメリカ人男性への強い憧れを呼んだ。当然、日本人男性には深い性的トラウマが生まれた。石井氏はこれのソリューションとして石原裕次郎を挙げる。
◇兄である石原慎太郎が原作や脚本を手がけた初期の作品で、裕次郎はいわばアメリカっぽい男として登場します。とは言ってももちろんアメリカ人ではなくて、あくまで偽物なんだけど。『太陽の季節』や『狂った果実』というのは基本的に、そのアメリカっぽい日本人男がアメリカ人に奪われていた日本女性を奪還するという物語なんですよ。言ってみれば、アメリカに骨の髄まで完敗したという話です。日本男子の自己回復がアメリカもどきになることによってなされるわけですから。日本の保守派ナショナリストたちの矮小性の根源というのは、ここにあるのではないかと思うんです。◇(同上)
内田 樹氏が『街場のアメリカ論』などでよく口にする──「日米同盟を強化することを通じてアメリカから離脱する」というトリッキーな構造、「従属を通じて自由になる」というすぐれて日本的なソリューション──がしきりに想起される。してみれば、あながち余話とは言い難い。 □