伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

終の姿か

2014年08月09日 | エッセー

 先日喫茶店で、同じ団塊世代で少し先輩の女性と偶会した。談偶々、高齢化に話柄が及んだ時だ。彼女はやおら、さらさらと川柳をメモに記して渡してくれた。

   これがまあ 終の姿か 鏡見る

 ほう、即興でこれ。なかなかのものですねー。いつになく褒めそやしたのに、自分のお代だけ払ってそそくさと店を出て行った。こちらのしょぼい目論見は外れたが、この川柳は的を外れてはいない。
 「まあ」は、驚きではなかろう。詠嘆、諦念の「まあ」ではないか。ひょっとして、達観といえなくもない。鏡の己と、見ている己。清々しいというか、巧まざる心身二元論が心地よいではないか。
 見ている己は、決してリアルタイムの己ではない。うんと若いはずだ。“同い年”なら「終の」などとは言わぬ。だって、「終」の訳がない。しっかりした足取りで、“生きて”帰って行ったのだから。今に至るまで、死んだという話は聞かない。辞世でないとすれば、見ている己は明らかに今より若年だ。
 余命を勘案すれば、本当の「終」に至るまでにはさらに深刻な変化が予見される、どころか必定だ。もしかしたら向後のヘビーでシリアスなメタモルを見越した上で、ここらで早々と手打ちに及んだか。今を先途とピリオドを打って、こっから先は知らぬ存ぜぬ、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿を決め込んだのかもしれない。つまりは、逃げを打ったのか。
 「姿」といって終の「住処」を連想させたのは、憎い捻りだ。心身の「身」を住処に見立て、二元論を立てた。御婆(オババ)のくせに、なかなか手強い。

 老いについて、内田 樹氏が卓見を示している。
◇老いるというのは「精神は子どものまま身体だけが老人になる経験」のことである。「存在のゆらぎ」が老人であるということの最大の特徴である。赤ちゃんはずっと赤ちゃんのままである。でも、老人は赤ちゃんになったり、青くさい少年少女になったり、分別くさいおじさんや世間ずれのしたおばさんになったり、死にかけのおいぼれになったり、ちょっとした状況の与件の変化でこまめに「ゆらぐ」。老いるということは、単線的に加齢するというほど単純なことではない。「よく老いる」というのは、「いかにも老人臭くなること」ではない。そんな定型的な人間になっても仕方がない。生まれたときから現在の年齢までの「すべての年齢における自分」を全部抱え込んでいて、そのすべてにはっきりとした自己同一性を感じることができるというありようのことをおそらくは「老い」と呼ぶのである。幼児期の自分も少年期の自分も青年期の自分も壮年期の自分も、全員が生きて今、自分の中で活発に息づいている。そして、もっとも適切なタイミングで、その中の誰かが「人格交替」して、支配的人格として登場する。そういう人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」だと私は思うのである。◇(小学館文庫「街場のマンガ論」から抄録)

 「老いの手柄」を掴むには、「ちょっとした状況の与件の変化でこまめに『ゆらぐ』」心のフレキシビリティが要る。「人格交替」の抽斗が、すっすっと滑らかに前後せねばならぬ。これがぎくしゃくしては、元も子もない。有り体にいえば、こころが若くあることだ。かつて拙稿(06年5月、「老人力、ついてますか?」)で触れた“老人力”にせよ、老いた心ではついたと知ることさえ叶わぬ。
 してみると、件の川柳は優れものといわざるを得まい。鏡の前に立った刹那、「世間ずれのしたおばさん」を抽斗から取り出してくる。「人格の可動域」はかなり広いとみてよかろう。かつて立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花だった作者も、今や、立てばビヤ樽座れば盥歩く姿はドラム缶へと見事にメタモルフォーゼなすっている。その御容姿を「終の姿」と決め切る明晰で図太い知性。依然として目から鼻へ抜けていらっしゃる。その「手柄」にあやかりたいものだ。
   これがまあ 終の姿か 御婆見る
 後ろ姿を見遣りながら返歌が浮かび、慌てて腹中深く呑み込んだ。 □