伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

笑わせ、泣かせてくれた

2014年08月13日 | エッセー

 ロビン・ウィリアムズが忽然(コツネン)と生者の列を離れた。患いの後の自死らしい。こういう永訣はなんとも耐え難い。
「ロビン・ウィリアムズはパイロット、医師、妖精、ベビーシッター、大統領、教授、ピーターパン、そしてその間にいるすべてだった。最初は宇宙人として登場し、やがて人の心のあらゆる要素に触れた。私たちを笑わせ、泣かせてくれた。それを必要としている人たちのために、無限の才能を惜しみなく発揮してくれた」 
 オバマ大統領の追悼談話である。国民的アクターであったことが知れる。
「私たちを笑わせ、泣かせてくれた」
 このフレーズは名優の核心を衝いている。時系列でも、まさにそうだ。コメディアンとして名を上げ、後演技派に転じた。シリアスな性格俳優としても高い評価を得た。
 こういう例は日本にもある。馴染みのあるところを挙げれば、植木 等、いかりや長介、泉ピン子もそうか。特に黒澤の『夢』で鬼役に起用されたいかりやは印象に残る。
 コメディアンと演技派。両端のようで、人によっては見事な転身を遂げる。笑わせるのか、泣かせるのか。一般には笑わせるのが難しいという。してみれば、元々演技力があったというべきか。
 この両端の近似性について、脳科学者・茂木健一郎氏が語る以下の知見は示唆的だ。
◇進化の過程で、笑いが生まれてきたプロセスを説明する考え方として、「偽の警告」仮説がある。人類の祖先が集団で暮らしていたとき、仲間に危険を知らせるためのシグナルがあったはずである。肉食獣が迫ってきたときなどに、叫び声を上げて仲間に知らせる。そのような警告が実は間違いだったとわかったときに、緊張をほぐすために笑って見せたのが、笑いが生まれてきた理由だというのである。そう言われれば、緊張と隣り合わせだが、実は安全だというときに、人は笑うようである。バナナの皮にすべって転ぶというのは古典的なギャグだが、考えてみれば危険と紙一重である。もっとも、本当に危険だったら、笑うことはできない。危険に見えて実は安全であるという微妙なさじ加減が、笑いを誘うのである。◇(中公新書ラクレ「すべては脳からはじまる」から)
  「緊張と隣り合わせだが、実は安全」「危険と紙一重」「危険に見えて実は安全」に、笑いの骨法がある。目から鱗である。外敵との不断の緊張関係にあった太古の生活が笑いに満ちていたとは考えられない。もしいつも笑っているようであれば、アタマを疑われたにちがいない。不適応の烙印を押されてパージされただろう。ところが、現今はまったく逆だ。テレビメディアは多幸症のような笑いで溢れかえっている。安全になったともいえようが、内面は不安全を極めているともいえる。
 コメディアンと演技派が近似であることも「偽の警告」仮説で得心がいく。両端ではなく、「紙一重」で裏表なのだ。
 ロビン・ウィリアムズはかつて「アカデミー主演男優賞」に3回ノミネートされたが、いずれも選に漏れた。ゴールデングローブ賞の同賞は獲っている。このあたりに、運不運と世の移り気を感じなくもない。しかし渥美清が寅さんに乗っ取られたような悲劇は免れ、件の裏表を縦横に駆け抜ける果報には恵まれたといえよう。
 最初の主演映画ではポパイを演じた。80年のことだ。日本語の吹き替えは、奇しくもいかりや長介だった。まだ「8時だョ! 全員集合」の時代だった。声にもまして、なにか響き合うものを興行担当者は感じたのであろうか。
 ドラッグとアルコール。繰り返した挫折と栄光。深い病。皮肉なことに、名コメディアンの最終シーンはシリアスな役柄であったようだ。 
 「笑わせ、」そして「泣かせてくれた」名優に満腔の弔意を捧げたい。 合掌。 □