もともとが偏屈なので、小学校の高学年だったころ空手の流行に抗って合気道に憧れたことがあった。「小よく大を制する」澱みない流れるような体の動きに魅せられた。片田舎とて道場一つなく心得のある人も見つからず夢は散ったが、環境さえあればのめり込んでいたはずだ。
合気道は武道家・植芝盛平が大正末期に創始した近代武道である。柔術・剣術などを総合した武術で、体格や体力に依らない合理的な体の運用で相手を制する。先方の力に逆らわない。むしろ逆用すべく体を捌く。だから、「小よく大を制する」。心身の錬成と自然との調和をめざし、争いなき平穏を志向する。従って、「強弱勝敗を論じない」を旨とし、ほとんどの流派は形稽古中心で試合をしない。目の前の相手に打ち勝つことではなく、敵をつくらない、敵を無力化することを目的に掲げる。
先日車を洗っていて、ふと涌いた想念がある。アルキメデスは風呂で巨大な着想を得たが、筆者にはまずそれはありえない。砂粒にも満たない凡愚に加え、何度も触れたように風呂が嫌いだ。我が身の替わりに、車の洗浄中に極小規模のひらめきを得たという次第である。
──内田 樹氏の発想源は合気道ではないか。
「鶏と卵」で、どちらが先というのではない。引かれるものがあり、気脈を通じる。やがて気脈は深まり、血脈となる。合気道七段、「凱風館」道場主と思想家・内田 樹は同一人物である。
例を挙げよう。
◇私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのかしらないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである。その理由が少し分かった。
宮台は「分かっている人」なのである。それが彼に共感できなかった理由だったのである。宮台は「私には全部分かっている」という実に頼もしい断定をしてくれる。「事態がこうなることは私には前から分かっていたのです。いまごろ騒いでいるのは頭の悪いやつだけですよ」。冷戦の終結も、バブルの崩壊も、性道徳の変化も、家庭の機能不全も、教育システムの荒廃も……宮台にとってはすべて読み込み済みの出来事なのである。それを見て、秩序の崩壊だアノミーだ末世だとあわて騒ぐのは時計の針を逆に回そうとしている愚物だけなのである。実に明快だ。宮台は「知っている」ということで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」ということが知的人間の基本的な語り口であるとたぶん思っている。
ところが、私はそういうふうに考えることができない。「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする……」と螺旋状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っているのである。◇(「「ためらいの倫理学」 」から)
よく氏は柔らかな知性と評される。宜なる哉。しかしわたしに言わせれば、頭のいい人だ。「私には分からない」という「知性の基本的な構え」と「螺旋状態」で「あまりぱっとしない」という「知性のいちばん誠実な様態」を備えている人は、「デルフォイの神託」を持ち出すまでもなく最高度の知性の人だ。硬軟という知性の肌理以前の次元に拘わる。
こういう構えはどこからくるのか。全知に対する嫌悪は、人知と人為を超える武道の世界の構えでありメンタリティーではないか。更に挙例する。
◇そもそも西部邁という人の書いたものを読まないのでよく知らない。昔、西部の本を買って、読み終わってそのままゴミ箱に投げ捨てたことがある。読み終わってそのまま本を捨てたことはこれまでに二回しかなくて、そのうちの一回であるから私は西部とは相性が悪いのかもしれない。ともあれ、「こわいもの見たさ」というか、「まずいもの食いたさ」というか、そういうネガティヴな好奇心のなせるままに、宮崎哲弥の本を買ってこわごわ読んでみた。読んでみると、文章は達者であるし、若いのに博識であるし、論理も明快であり、悪口の言い方も堂に入っているし、嫌いなもの──上野千鶴子とか──も私といっしょである。しかし、それにもかかわらず面白くない。なぜ面白くないのか? そしたらすぐに分かった。
宮崎には「とほほ」がないのである。「とほほ」とは何か? それは要するに「従犯感覚」である。たとえば日本の政治システムを批判するとき、私たちはつい弱腰になる。それは批判している当の本人が久しく政治にかかわる言論の自由・集会結社の自由を保証され、選挙権や被選挙権を行使してきた結果、いまの政治システムを作りあげてきた一人だということを、骨身にしみて知っているからである。私たちの努力も怠慢も参加も無関心も全部込みで、その総和としていまの政治体制がある以上、「だいたい日本の政治システムは」みたいなことを、外国人のようなスタンスで言うことは許されない。いや、許されているのかも知れないけれど、するのが恥ずかしい。日本の政治システムや官僚制度がろくでもないものであるということはよく分かっている。分かっているけれど、「ろくでもない」と言うときは、「そのろくでもない制度の片棒担いでいるわけだけど……」という内心の痛みと恥が、私たちの言葉尻を濁らせてしまう。
この「罪責感」と「自己免責」のないまぜになった「腰の決まらなさ」こそ、私が「とほほ」感覚と呼ぶものなのである。日本の中年の男性でこの「とほほ」感覚から完全に自由な人間はいないだろう。夏目漱石以来、この「とほほ的」脆弱性が別の意味では日本のおじさんたちの「自我の鎧」となっていることを私は知らないではない。すぐにへこへこ謝る奴が一番反省していないということを私は知らないではない(現に私がそうだ)。宮崎哲弥に欠けているのは、この「とほほ」の感覚である。彼が日本の状況という関数式に算入するのは、「おのれの無垢」(あるいは「無力」)というデータである。「無垢にして無力」なものとして自らを提示するのは、「自分が含まれている社会」の諸制度を審問する上できわめて有利な戦略である。◇(同上)
途方に暮れて情けない。「とほほ」感覚、「とほほ的」脆弱性である。如上の「どうにもあまりぱっとしない」と同類だ。「私には全部分かっている」の真向いにあるスタンスだ。「知性のいちばん誠実な様態」をこのようにあからさまに表明できるのは、武道の間合いであり体捌きではないか。
内田氏は、形稽古の狙いは理想的で本然的な身体運用法則の発見にあるという。自然な身体運用と信じられているものの過半は歴史的、地域的に限定された「民族誌的奇習」に類するものであり、人間という類の生物学的に自然な身体運用を考究することが目的であると論じる。
そのような錬成を日常とする人は、知性の運用においても同等ではあるまいか。「従犯感覚」や「とほほ」感覚とは、──彼が日本の状況という関数式に算入するのは、「おのれの無垢」(あるいは「無力」)というデータである。「無垢にして無力」なものとして自らを提示するのは、「自分が含まれている社会」の諸制度を審問する上できわめて有利な戦略である。──の対極にある感性だ。合気道の、相手の動きにしなやかに応ずる舞うがごとき身の捌きが彷彿するではないか。
テクニカルな例を挙げよう。
◇「結婚は損か得か?」という問いに対して、「どうしてあなたは『損得』という価値基準がすべての人間的事象に適用できると信じていられるのか?」という答え方。
手の内を明かすと、「問いに応じるに問いを以てする」というユダヤ人が得意とするところの「必殺技」である。問題の「次数を一つ繰り上げる」ことによって、当面している問題をまったく別のパースペクティヴから眺めることを可能にする、たいへんすぐれた知的装置である。(ただし、欠点が一つある。相手はいらついて、「ばかにするな!」となる。ユダヤ人が憎まれるのはこのせいだ。)◇(「街場の現代思想」から)
これなどはそのまま知的関節技といえよう。内田氏の論攷の切れ味と爽快感はここにあると視たい。
次は止(トド)めだ。
◇私は論争ということをしない。自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに「正しい」か「間違っている」かいずれかだからである。
批判が「正しい」ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。
また、批判が「間違っている」なら、この場合はさらに反論を要さない。私のような「わかりやすい」論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。
というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是としている。それに、私の知る限り、論争において、ほんとうに読む価値のあるテクストは「問題のテクスト」と「それへの批判」の二つだけである。それ以後に書かれたものは反批判も再批判もひっくるめて、クオリティにおいて、最初の二つを超えることがない(だんだんヒステリックになって、書けば書くほど品下るだけである)。◇(「街場の読書論」から)
すでに免許皆伝の域ではなかろうか。「敵をつくらない、敵を無力化する」極意が象嵌されているといえば大袈裟か。
文武両道といえばまことに素っ気ないが、その体現者であることに疑いはない。内田思想の源は合気道にありと見つけたり、だ。 □