20年前の平成5年12月16日午後2時すぎ、田中角栄が息を引き取った。
◇角栄邸で、角栄の亡骸に対面した政治家は、細川護熙首相、河野洋平自民党総裁、そして土井たか子衆院議長の三人だった。土井は角栄の顔をのぞいて、「とてもいいお顔をしているわね」と言った。さまざまな苦労を抜け出て、ほんとにいい顔をしていると思った。そばで娘眞紀子が「お父さん、土井さんが来てくださったのよ。起きて」と泣いていた。◇(◇部分は下記書籍より引用、以下同様)
ここに至った時、図らずも目が潤んだ。なぜ、おたかさんなのか。国権の長としての弔問ではあるが、政敵である。かつ巨魁である。だがその死に人間として向き合う、儀礼を超えた誠実が琴線に触れた。
格別におもしろい本だ。元記者である。ベタな筆致であるだけに、余計真に迫る。数々の『角栄本』の中でも出色だ。
田中角栄
──戦後日本の悲しき自画像
著者は早野 透氏(元朝日新聞政治部次長・編集委員、「ポリティカにっぽん」執筆、桜美林大学教授)、昨年12月中公新書より発刊された。帯にはこうある。
──戦後日本政治の体現者 戦後民主主義の中から生まれ、民衆の情を揺さぶり続けた男の栄光と蹉跌。上京、出世、栄光、そして転落──
4年前の朝日新聞調査によると、昭和を代表する人物第1位は昭和天皇、2位は以下を大きく引き離して田中角栄だった。
大正7年から平成5年。75年間の生涯のうち、就学初年に昭和が始まり、青年期に戦争と立志、戦後の「出世、栄光、そして転落」、末年に自らの派閥が解体した。だから、その人生の波瀾万丈は昭和の一部始終とともにある。まさに昭和を代表するにふさわしい人物だ。平成元年に引退を表明しているから、なお際立って昭和の人だ。だから同書は、そのまま昭和政治史でもある。
個人的偏向はあるが、印象に残ったところをいくつかを抜き書きしたい。立ち位置に拘わらず、昭和を生きた者としてこの人物は看過できない。ならば、同書は打って付けだ。御一読をお薦めしたい。なお、今がよく見えてくる余禄にも与かれること請け合いだ。
◇田中角栄に対するもっとも鋭い批判者となる立花隆は「抽象思考ゼロの経験主義者」と断じた。実感的、経験的、そして人生訓的であることは、角栄の生涯の思考形式である。それを角栄の「非」とするのも酷である。往時、「村に大学出などひとりもいなかった」のである。ひたすら「具体」に生きたことは、政治家田中角栄の強みともなり、弱みともなる。のちに角栄が肩肘張った国家意識を持たなかったことは、「具体」の生き方の強みだった。また逆に、角栄が出世するのにカネの威力に依存しすぎたことは、やはり「抽象」の価値を持たなかったことの弊であった。◇
この一段は鮮やかな核心である。画竜点睛である。戦後日本の軌跡とも重なる。グランドデザインを引いた吉田茂との因縁を考え併せると、角栄こそがその忠実な後継者といえる。
「日本列島改造」は「具体」の極みであり、戦後が終わった後に新たに描き加えようとしたグランドデザインでもあった。
◇「明治維新からの折り返し点」──日本列島改造に角栄がこめていた思想は、明治維新以来から今日まで続く都市への人口流動現象を逆転させることだった。◇
角栄の代名詞ともいえるこの構想は、後に論として発刊される。47年、総理に就く直前だった。
◇何をするにせよ、土地買収が必要になる。すると地価が上がる。土地の騰貴対策が決定的に欠落していた。
角栄の夢はわかる。しかし、これは霞ヶ関官僚が上から目線で描いた青写真ではないか。それに業者が蟻のように群がる図である。◇
「夢」の一例がある。
◇角栄は、原発設置にあわせて電源三法をつくって、設置自治体に国の交付金が落ちるようにした。角栄にとって、新潟、そして福島に林立した原発もまた「日本列島改造論」の実践だったのである。だが 東日本大震災で、福島第一原子力発電所が爆発を起こした。「日本列島改造論」は、大きく頓挫した。◇
「改造論」が導出した悪「夢」のひとつだ。
「今太閤」は成り上がりにだけではなく、説得の才気と人誑しにも来由する。
◇(全逓との角逐で大量処分を実行・引用者註)角栄は「処分しないでは大臣の務めは果たせない」と突っぱねる一方で「香典は出そう」と退職に際しての手当、いわばクビ切り料を三億円出すことを提示した。交渉のその場で大蔵省局長に電話、「郵政省は貯金や簡保で自分で金を集めているのだからいいだろう」と納得させた。全逓幹部が「三億といわず五億出してください」とねだると、角栄は「香典の額に注文をつける者はいない」とやり返した。◇
診療報酬の引き上げを要求して日本医師会が保険医総辞退を企むという悶着があった。事態は膠着し、角栄の出番となる。
◇角栄は、武見(「ケンカ太郎」と呼ばれた当時の医師会会長・引用者註)に一通の手紙を贈った。武見が開けると、ほとんど白紙で末尾のところに「右により総辞退は行わない」と書かれてある。白紙は、武見の思うとおりにそこに妥協の条件を書き入れろ、それを全部受け入れるという意味と竹見は察し、医師会はかえって譲歩して決着した。◇
この手の話は枚挙に暇がない。筆者はこう視る。
◇後年、ロッキード事件でマスコミの激しい攻撃にさらされると、「一〇人も兄弟がいれば、一人ぐらいは共産党もいるさ。記者には記者の仕事があるんだ。それでめしを食っているんだからそれでいいよ。日本というのは同族社会さ」というせりふをよく口にした。「説得の才気」は単に駆け引き上手というだけではない。ある種の共同体思想がそこに存在していた。◇
同族、共同体意識が伏流していた。宜なる哉だ。ただし、水量は常人をはるかに越えるものだったにちがいない。
ビートルズ来日騒動の折、曲を聴いて「ふん、なかなかいいじゃないか」と好感を寄せたこと、小唄の名取であったこと、自著の「私の履歴書」を小林秀雄が「達意の文章」だと褒めたこと。この手の逸話も事欠かない。極め付きは58年の総選挙でのエピソード。ロッキード事件からの生き残りを賭けた大勝負であった。野坂昭如が刺客よろしく新潟三区で立候補した。
◇野坂は演説して回っても、よそ者だから道順がわからない。立ち往生するたびに警察や消防の世話になった。これを聞いた角栄が「風邪をひくぞ。あったかい肌着を届けてやれ」。早坂(秘書・引用者註)が深夜、ホテルの部屋を訪ねて渡した。野坂は「角サンが、これを俺に……」。落選してから一ヵ月後、お礼の電話がきた。◇
人誑しの面目躍如だ。
資源外交や日中国交回復交渉、アメリカとの軋轢など重要なイシューもある。本書でじっくりと吟味願いたい。最後に一点だけ取り上げる。
なぜ、ウソとわかっている金の受け取りを否認し続けたのか、という疑問だ。角栄、最大の謎だ。
◇それにしても、なぜ角栄はロッキードのカネをもらっていないと言い続けたのだろう。あれだけの証言が揃ってどだい無理な話である。おれはもらった、すまなかったと詫びて、越後に戻っていればよかったろうに。しかし、それまでに注いだ力と汗、投じた膨大なカネ、そして築いた「田中角栄」という存在、それは捨てるに捨てられぬ、自ら抛つことがついにできなかったということか。それが「上り列車」の終着駅だったのである。◇
上りの終着駅で再び乗車すれば、それは下り列車以外にない。今太閤に、凱旋よりほかの下り列車はない。それは自死になるからだ。
昭和を顧みて、これほどの主役を張れるアクターを知らない。蓋し、好著である。 □