やはり案の内、浜 矩子先生はアベノミクスに反対だ。舌鋒は相変わらず鋭い。論旨は以下の通りである。
◇そもそもアベノミクスという言葉が非常に気に食わない、なんとかのミクスとかいう偉そうな名前を付けるに値するものではない。
──「悪徳商法」
日銀に圧力をかけて金融を緩和し、積極的な財政支出をすればカネ余り状態に陥り実体経済には効果がない。
株、不動産など投機的商品は上がり、資産インフレはどんどん進行する。ところが、実物の世界は引き続きグローバルな競争にさらされるので、火がつくことは考えられない。資産インフレと実物デフレが進行する最もタチが悪い状況となる。
自国の通貨安を誇るのは異様だ。輸入物価が上がり、資材、燃料の高騰から企業にとってもコスト高要因となる。コスト削減のため賃金が一段と抑え込まれ消費も伸びなくなる。
さらに、日本が通貨安競争の引き金を引く懸念があり、米国、欧州、中国などは円安政策に不満を抱いている。日本は世界有数の債権国家であり、今の円安局面は長続きしない。
──「浦島太郎の経済学」
アベノミクスではインフレターゲットなどの金融政策が前面に出てきているが、その実態はばらまき型公共事業や円安による輸出企業の救済であり、これは50~60年前の「浦島太郎」の経済戦略だ。
非常に古典的というか。若い経済ならこういう格好で喝を入れるというのはありかもしれないが、成熟度が高くなった日本経済に対してこういう処方箋を当てはめるというのは、時代錯誤も甚だしい。
──目指すべきは「成熟戦略」
既に成熟している日本経済に今必要なのは、インフレターゲットでも成長戦略でもなく成熟戦略である。今日本は既に積み上げた国富を国民全体でどう分かち合っていくのか考えなければならない段階にある。◇
お説ごもっとも、異論の挟みようはない。内田 樹先生も同様である。ツイッターでの発言要旨は以下の通り。
◇さきの大戦での帝国戦争指導部はAnything that can go well will go well. 「これがうまくいって、これもうまくいったら、あれもうまくゆく」という希望的観測を針の穴を通すように積み重ねて歴史的大敗を喫しました。アベノミクスにも同じ匂いを感じます。
(1)借金をして(2)土木工事をすると(3)企業の収益が増えて(4)株価が上がって(5)賃金が上がって(6)消費が増えて(7)イノベーションが起きるというシナリオだが、(4)のところで「折れて」(5)につながらないような気がします。
現に、収益を上げても「国際競争に勝ち抜くためにはたえざる研究開発と市場開拓が必要で賃上げなんかしている余裕はない」と言って企業は労働者への「トリクルダウン」を拒んでいます。アメリカでも中国でも、経営者たちは個人資産を増やすことには熱心でしたが、分配には熱意を示しませんでした。
同じことが日本でだけは起こらないという保証は誰がどういう論拠でしてくれるんでしょう。「薄氷」の経済政策の隙間を縫って成功した人はリスク感度が高いがゆえに、大盤振る舞いするよりは「これから何が起きても自分だけは生き延びられるように」個人資産を退蔵することになると思いますけど。
アベノミクスは論理的に考えれば「富の偏在と階層二極化」を結果すると思います。でも、国民のみなさんが「それがいい」と思って選んだ政権ならしかたがありません。僕にできるのは、とりあえず市井のかたすみで「富の分配と階層の平準化」のために何ができるか工夫するだけです。◇
こちらの御高説も肯んじざるをえない。ただそれにしても次のような言述に接すると、ひどく戸惑い、考え込んでしまう。
〓『官僚の反逆』などの著書がある評論家の中野剛志さんは「国の最も大事な役割は雇用対策。労働とは生きる糧を得るためだけでなく、『自分も世の中に存在していい』と確認できる承認の問題だから。そして雇用確保のためには、絶対にデフレからは脱しなければだめだ。成長うんぬんとは別問題」という。
その前提のうえで、低成長論者が陥りやすい落とし穴を指摘する。一般に「経済成長こそ貧困をなくす」といった反論があるが、中野さんはさらに広く、世代問題の視座も提供する。「『世の中にはモノがあふれている、無理に需要を喚起するのは地球環境にもよくない』と低成長論者は主張するが、需要には現在の消費だけではなく、将来世代のための投資も含まれる。自分たちは先行世代の投資のおかげを被ってきたのに、年金や医療が心配だから、子供世代のための公共事業まで削れという低成長論者は、私に言わせれば不道徳。ふしだらだ」長い歴史のスパンで見ても、人類の経済規模が拡大していく「成長の時代」は、ここ250年の出来事に過ぎないとも話す。「成長の時代の前は、戦争と飢餓の時代。そこに戻っていいのでしょうか」〓(2月18日付朝日新聞から)
「国の最も大事な役割は雇用対策。労働とは生きる糧を得るためだけでなく、『自分も世の中に存在していい』と確認できる承認の問題だから」であり、「雇用確保のためには、絶対にデフレからは脱しなければだめだ」は、通途の脱デフレ論に比してより深い視点だ。内田先生の
◇憲法には国民は「勤労の権利を有し、義務を負う」と定めている。おそらくそれが憲法に規定してあるというのは、労働は私事ではないからである。労働は共同体の存立の根幹にかかわる公共的な行為なのである。◇(「下流志向」から)
との論攷を重ね合わせると、雇用が失われていくことは「共同体の存立の根幹」が根腐れしていくことだ。デフレは不倶戴天の敵といえよう。
次の「世代問題」については、中野氏はインフラが今一斉にメンテの時期を迎えていることを特に指摘している。確かにどんどん老朽化しているインフラを等閑視することは、「不道徳。ふしだら」の譏りを免れまい。笹子トンネルの事故は象徴的で警告に満ちている。
だからアベノミクスなのか。イシューはそこだ。
「なんとかのミクスとかいう偉そうな名前を付けるに値するものではない」と、浜先生は斬って捨てる。「資産インフレと実物デフレが進行する最もタチが悪い状況」を危惧されているが、内田先生の「富の偏在と階層二極化」という結果予測と軌を一にする高見だ。別けても「トリクルダウン」の不首尾についての指摘は的を射るどころか、的そのものがぶっ壊れるほどの洞察力だ。現に中国の改革開放はその急峻な坂に喘いでいる。
内田先生の嗅覚はアベノミクスに、「帝国戦争指導部」の「希望的観測を針の穴を通すように積み重ね」た知的退嬰と「同じ匂い」を捕らえている。「これがうまくいって、これもうまくいったら、あれもうまくゆく」は、明らかな戦略論的サボタージュであろう。否定形でシミュレートしてみるのは最低限の戦略的リテラシーではないか。「彼を知りて己を知らば、百戦して殆(アヤ)ふからず、彼を知らずして己を知らば一たび勝ち一たび負く、彼を知らず己を知らざれば、戦ふ毎に必ず敗る」孫子のいう「彼」も「己」も、アベノミクスで論述された節はない。
内田先生は、
◇「日本には成長戦略がないのが問題」ということに対して、わたしはこう言いたいと思う。問題なのは成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだと。◇
との平川克美氏の言を受け、
◇日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、なにか直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史そのものが、まったく新たなフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える。◇(「街場の読書論」から)
と応じた。紛れもなく、先生には「彼」が闡明に見えている。 □