記者会見で、監督はこう語った。
──いつから平手打ちや、はりを始めたのか。
力があっても、練習で超えられない壁を自分自身でつくっている部分があって、そこをどうにかしたいと会話でコミュニケーションをとってきた。だが時間が経過するにつれ、焦る部分が私にあった。急いで強化しなきゃいけないというのがあった。それがたたくという行為になったと思う。 (朝日新聞から)
「会話でコミュニケーション」とは何だろう。会話によらないそれは、手話、筆談、身振り、表情によるほかない。インタラクティヴであってこそコミュニケーションは成立するのだから、『手足』を使えば途端にインタラクティヴではなくなる。一方通行ではコミュニケーションではないからだ。それでもなおインタラクティヴであろうとすれば、殴り『合う』ことになる。それは通常、ケンカと呼ばれる。かつて何度か触れた「やぎさんゆうびん」を持ち出すまでもなく、行き来がなければコミュニケションは発動しない。
彼は会話以外の手段として、手話、筆談を想定していたのだろうか。そうではなく「『手足で』コミュニケーション」を、明らかな形容矛盾とも気づかず想定していたにちがいない。
こんな「さあ、突っ込んでください」風な発話は余程の胆力の持ち主か、知的練度が低いか、文字通りコミュニケーションの極めて貧困な環境に身を置いて来たか、それぐらいしか理由が浮かばない。
会見全体を通して「部分」「中で」の多用が目立った。コンテクストがたちまち霞んだ。語彙は僅少で、言葉遣いも遣り取りも稚拙で不得要領であった。つまりはコミュニケーション能力がかなり低い。自らの思念をきちんと言葉に載せて相手に届ける技量が欠落している。だからフィジカルな意思の伝達をするのだろうな、と会見を聞きながら推し量った。知的未熟が問題の核心的原因ではないか。四の五のいう前にまずはそれだろう。随分な「何様」発言だと咎められそうだが、事は選手ではなく指導者だ。世界を相手にするには、メンターも世界標準であってほしいと願うからだ。
かつて長嶋が原に打撃指導をした折の逸話がある。身振りを交えて“バーン”“キューン”“バシッ”と、オノマトペの連続だったそうだ。それでも十分伝わり、立派な教えになった。なにせ原は、自らのノートにそれらオノマトペを忠実に録していたそうだ。アスリートに学びのモチベーションが起動し、メンターがオノマトペに極意を載せて届ける。絶類のコミュニケーションではないか。オノマトペは知的低位を徴するのではなく、むしろ知的極まりが導出したものだ。日本語は世界で最多のオノマトペを誇る。
監督に『長嶋語』を学べとはいわない。ほかの指導者も含め遅きに失するかもしれぬが、知的錬磨と日本語による会話力の向上を期待したい。ともあれ、受け取り拒否の「ゆうびん」では“歌”にならない。 □