以前に「西周期の賄賂の記録?」というエントリで紹介した金文、五年琱生尊の釈文・解説がこのほど徐義華「新出土『五年琱生尊』与琱生器銘試析」(『中国史研究』2007年第2期)という論文にて発表されました。
この五年琱生尊に関する正式な発掘報告はまだ発表されておりませんが、劉宏斌「吉金現世三秦増輝 -扶風五郡西村青銅器発現保護親歴記」(『文博』2007年第1期)に読み物調で発見当時の様子などが記載されています。この青銅器の写真や銘文の拓本も(かなり縮小されていて見づらい部分もありますが)劉宏斌論文の方に掲載されています。以下、基本的に徐義華論文の解釈に基づいて(一部独断で改めたところがあります)釈文・訓読・解説を行っていきます。
※ 追記 ※ このエントリのアップ後に、『考古与文物』2007年第4期にて発掘報告 宝鶏市考古隊・扶風県博物館「陝西扶風県新発現一批西周青銅器」が発表されていることを確認しました。銘文の拓本なども掲載されています。また、『文物』2007年第8期にも発掘報告と銘文の解説が掲載されるようです。(2007/9/3)
【凡例】
・銘文中では「中(=仲)」、「白(=伯)」、「且(=祖)」、「又(=有)」など字釈上特に問題が無いと思われるものについては、通仮字で表記してあります。
・Shift JISやUnicodeで表示できない文字については、【林去】のように表記するか(この場合は「林」と「去」のパーツを組み合わせた字ということです。)、あるいは字形が複雑でそれも困難場合はやむを得ず〓の記号を付けました。
・銘文中で字の一部が欠けているものについては、[虎]のように[]付きで字を補い、字が丸ごと欠けていて補えないものについては□で表記しました。
・文中の「集成」は『殷周金文集成』の略。数字は著録番号です。
【銘文】
隹五年九月初吉召
姜以琱生熾五〓壺
兩以君氏命曰余老之(=止)
我僕庸土田多積弋(=式)
許勿使散亡余宕其
參汝宕其貳其兄公
其弟乃余惠大璋報
〓(=婦)氏帛束璜一有司眔
盥兩辟琱生拜揚朕
宗君休用作召公尊
〓用祈〓禄得純靈
終子孫永寶用世享
其有敢亂茲命曰汝
使召人公則明極
【訓読】
隹れ五年九月初吉、召姜、琱生に熾五・〓・壺兩を以てし、君氏の命を以て曰はく、「余老ひたり、止す。我が僕庸土田積多し、式て許す。散亡せしむる勿かれ。余、其の參を宕て、汝、其の貳を宕つ。其れ兄は公、其れ弟は乃」と。余、大璋を惠し、婦氏に帛束・璜一を報ず。有司眔に盥し、兩に辟す。琱生朕が宗君の休に拜揚し、用て召公の尊〓を作る。用て〓禄にして純を得て靈終ならんことを祈る。子孫永く寶用して世よ享せよ。其れ敢へて茲の命を亂すこと有らば、曰はく、「汝召人を使ひ、公則ち明極せん」と。
【解説】
関連する銘文として五年琱生簋(集成4292)と六年琱生簋(集成4293)がある。五年琱生簋が西周後期の某王(おそらくは王)の五年正月、六年琱生簋が同じく六年四月のことを記述しており、今回発見された五年琱生尊はこの間の事情を記述したものです。以前紹介した記事では、この3つの銘文は召伯虎が私田の開発を罪に問われた琱生を裁くことになり、琱生が召伯虎の父母に賄賂をおくって口利きをしてもらい、事無きを得たという内容であったとしています。
劉宏斌論文の方でもそういう見方を踏襲していますが、徐義華論文ではこれを否定しこれらは召公一族の財産相続の過程を記述したものとしています。
これらの銘文の登場人物は以下の通り。
・琱生:3つの銘文の主役。召公一族の分家筋にあたる。
・君氏:召公一族の宗君(当主)。五年琱生簋・六年琱生簋では公、幽伯とも呼ばれる。
・召姜:君氏の妻。婦氏とも呼ばれる。六年琱生簋では幽姜と呼ばれる。
・召伯虎:伯氏とも呼ばれる。君氏と召姜の子で、一族の次期当主。五年琱生簋・六年琱生簋で登場。
琱生は琱生鬲(集成744)によると、父親が「宮仲」という人物であり、あるいは君氏(幽伯)と宮仲とが兄弟であったのかもしれません。琱生は師〓簋(集成4324~5)に王に仕える宰の官として登場し、分家筋といえども宮廷内の有力者であったようです。
五年琱生簋では召姜が琱生に、君氏が引退を決意し、土地やそれに附属する人員を、本家と琱生とで3:2あるいは2:1の割合で分割したい旨を伝え、本家を相続する召伯虎も父母の意志に従うことを表明した。
ついで五年琱生尊では、改めて召姜が琱生に君氏の意志を伝え、君氏が老年によって引退するので、土地やそれに附属する人員を本家と琱生とで3:2の割合で分割相続し、弟の家系の琱生が兄の家系の召伯虎(すなわち召公)に従うことが確認された。その間に召姜と琱生との間で贈品のやりとりがなされ、相続の合意に関しては有司、すなわち宮廷の官吏も同席したようです。銘文末尾の「其れ敢へて茲の命を亂すこと有らば、曰はく、『汝召人を使ひ、公則ち明極せん』と」とは、後になってからどちらかがこの合意に背くことがあれば、琱生は領民とともに本家に反抗し、本家は琱生を懲罰するという盟誓の辞です。
六年琱生簋では宮廷の官吏による審査が終わり、事前の合意通りに分割相続がなされたことを記しています。この銘では君氏と召姜がそれぞれ幽伯・幽姜と諡号でもって呼ばれているので、五年九月から六年四月にかけて二人は亡くなったと思われます。
今回紹介した五年琱生尊、そして関連する五年琱生簋と六年琱生簋は細部の読解が確定しにくい銘文なので、今回紹介したような召公一族の相続説が正しいかどうかまだまだ検討の余地がありますが、以前紹介した賄賂説は無理があるような感じです。琱生と婦氏との間の贈品のやりとりを賄賂であると見たのでしょうけど…… ただ、どういう風に読むにしろ、当時の貴族の一族同士の関係を探る上では有用な史料となるでしょう。
この五年琱生尊に関する正式な発掘報告はまだ発表されておりませんが、劉宏斌「吉金現世三秦増輝 -扶風五郡西村青銅器発現保護親歴記」(『文博』2007年第1期)に読み物調で発見当時の様子などが記載されています。この青銅器の写真や銘文の拓本も(かなり縮小されていて見づらい部分もありますが)劉宏斌論文の方に掲載されています。以下、基本的に徐義華論文の解釈に基づいて(一部独断で改めたところがあります)釈文・訓読・解説を行っていきます。
※ 追記 ※ このエントリのアップ後に、『考古与文物』2007年第4期にて発掘報告 宝鶏市考古隊・扶風県博物館「陝西扶風県新発現一批西周青銅器」が発表されていることを確認しました。銘文の拓本なども掲載されています。また、『文物』2007年第8期にも発掘報告と銘文の解説が掲載されるようです。(2007/9/3)
【凡例】
・銘文中では「中(=仲)」、「白(=伯)」、「且(=祖)」、「又(=有)」など字釈上特に問題が無いと思われるものについては、通仮字で表記してあります。
・Shift JISやUnicodeで表示できない文字については、【林去】のように表記するか(この場合は「林」と「去」のパーツを組み合わせた字ということです。)、あるいは字形が複雑でそれも困難場合はやむを得ず〓の記号を付けました。
・銘文中で字の一部が欠けているものについては、[虎]のように[]付きで字を補い、字が丸ごと欠けていて補えないものについては□で表記しました。
・文中の「集成」は『殷周金文集成』の略。数字は著録番号です。
【銘文】
隹五年九月初吉召
姜以琱生熾五〓壺
兩以君氏命曰余老之(=止)
我僕庸土田多積弋(=式)
許勿使散亡余宕其
參汝宕其貳其兄公
其弟乃余惠大璋報
〓(=婦)氏帛束璜一有司眔
盥兩辟琱生拜揚朕
宗君休用作召公尊
〓用祈〓禄得純靈
終子孫永寶用世享
其有敢亂茲命曰汝
使召人公則明極
【訓読】
隹れ五年九月初吉、召姜、琱生に熾五・〓・壺兩を以てし、君氏の命を以て曰はく、「余老ひたり、止す。我が僕庸土田積多し、式て許す。散亡せしむる勿かれ。余、其の參を宕て、汝、其の貳を宕つ。其れ兄は公、其れ弟は乃」と。余、大璋を惠し、婦氏に帛束・璜一を報ず。有司眔に盥し、兩に辟す。琱生朕が宗君の休に拜揚し、用て召公の尊〓を作る。用て〓禄にして純を得て靈終ならんことを祈る。子孫永く寶用して世よ享せよ。其れ敢へて茲の命を亂すこと有らば、曰はく、「汝召人を使ひ、公則ち明極せん」と。
【解説】
関連する銘文として五年琱生簋(集成4292)と六年琱生簋(集成4293)がある。五年琱生簋が西周後期の某王(おそらくは王)の五年正月、六年琱生簋が同じく六年四月のことを記述しており、今回発見された五年琱生尊はこの間の事情を記述したものです。以前紹介した記事では、この3つの銘文は召伯虎が私田の開発を罪に問われた琱生を裁くことになり、琱生が召伯虎の父母に賄賂をおくって口利きをしてもらい、事無きを得たという内容であったとしています。
劉宏斌論文の方でもそういう見方を踏襲していますが、徐義華論文ではこれを否定しこれらは召公一族の財産相続の過程を記述したものとしています。
これらの銘文の登場人物は以下の通り。
・琱生:3つの銘文の主役。召公一族の分家筋にあたる。
・君氏:召公一族の宗君(当主)。五年琱生簋・六年琱生簋では公、幽伯とも呼ばれる。
・召姜:君氏の妻。婦氏とも呼ばれる。六年琱生簋では幽姜と呼ばれる。
・召伯虎:伯氏とも呼ばれる。君氏と召姜の子で、一族の次期当主。五年琱生簋・六年琱生簋で登場。
琱生は琱生鬲(集成744)によると、父親が「宮仲」という人物であり、あるいは君氏(幽伯)と宮仲とが兄弟であったのかもしれません。琱生は師〓簋(集成4324~5)に王に仕える宰の官として登場し、分家筋といえども宮廷内の有力者であったようです。
五年琱生簋では召姜が琱生に、君氏が引退を決意し、土地やそれに附属する人員を、本家と琱生とで3:2あるいは2:1の割合で分割したい旨を伝え、本家を相続する召伯虎も父母の意志に従うことを表明した。
ついで五年琱生尊では、改めて召姜が琱生に君氏の意志を伝え、君氏が老年によって引退するので、土地やそれに附属する人員を本家と琱生とで3:2の割合で分割相続し、弟の家系の琱生が兄の家系の召伯虎(すなわち召公)に従うことが確認された。その間に召姜と琱生との間で贈品のやりとりがなされ、相続の合意に関しては有司、すなわち宮廷の官吏も同席したようです。銘文末尾の「其れ敢へて茲の命を亂すこと有らば、曰はく、『汝召人を使ひ、公則ち明極せん』と」とは、後になってからどちらかがこの合意に背くことがあれば、琱生は領民とともに本家に反抗し、本家は琱生を懲罰するという盟誓の辞です。
六年琱生簋では宮廷の官吏による審査が終わり、事前の合意通りに分割相続がなされたことを記しています。この銘では君氏と召姜がそれぞれ幽伯・幽姜と諡号でもって呼ばれているので、五年九月から六年四月にかけて二人は亡くなったと思われます。
今回紹介した五年琱生尊、そして関連する五年琱生簋と六年琱生簋は細部の読解が確定しにくい銘文なので、今回紹介したような召公一族の相続説が正しいかどうかまだまだ検討の余地がありますが、以前紹介した賄賂説は無理があるような感じです。琱生と婦氏との間の贈品のやりとりを賄賂であると見たのでしょうけど…… ただ、どういう風に読むにしろ、当時の貴族の一族同士の関係を探る上では有用な史料となるでしょう。
本家筋の奥さんが最初に主役に分与の話を持ち出したこと。奥さんと主役で贈答が発生していること。宮廷が裁定に関与していること。…まあ邪推しようと思えばネタにはなりそうですが。でもせいぜい家庭の事情どまりのような。
賄賂説は銘文の内容を曲解するものだという主旨の記事が去年の『西安日報』とかに出てたみたいです。
まあ、家庭の事情とは言っても当時の大貴族の家の事情なんで、こうして銘文として残すだけの必要はあったということなんでしょう。