『天意 超能篇』第4~最終9話まで見ました。
第4話は「流血的門徒」。本編では影が薄めだった隠鬼門の話。墨遠が実はライバル団体幽冥教のスパイだったという事実が明らかに…… 36人の「隠鬼」の中から彼と墨舞の2人が門主・墨非の直弟子となるまでの顛末が描かれます。
第5話は「天依的使命」。韓信の斉国征服の際に天依が滄海客に連れ去られてから張良のもとに戻されるまでの間の話。
第6話は「烏江!烏江!」。「覇王別姫」の裏側で、韓信が滄海客に頭を下げても項羽を救おうとした顛末が描かれます。結果はやはり……なわけですが。
第7話は「漢宮異聞録」。これも本編終盤の挿話で、女羲と滄海客が韓信を放棄して劉邦に乗り換えるあたりの話。滄海客を劉邦の新たな寵姫と勘違いした呂后が彼女を排除しようとしますが、最後は劉邦と彼女の信者となります。滄海客を「お前ホントに神の使者?」と奇跡を見せられても信じなかった韓信の強さを感じます……
『天意 超能篇』第8~9話は「逆転未来(上)(下)」。本編最終回の続きです。韓信と女羲との戦いは「平行宇宙」を舞台に続けられていたようで、本編のラストも平行世界のひとつという位置づけになるようです。平行世界の存在を認めてしまうと、本編の文明が女羲の介入によって作られた世界もそのうちの一部にすぎないということになるわけで、歴史改変を御法度としてきた当局の姿勢を思うと、危険な領域に足を踏み入れた感があります。
第8~9話の韓信。中の人的にはこういうナリの方が似合うような……
【総括】
これは毎回オープニングの最後で出てくる「おことわり」ですが、この護符の力でどこまでやれるか挑戦したような作品でした。
韓信・蕭何・張良らの人物設定が史実(というよりは『史記』など史書の記載)と合わないのは、平行世界の存在を前提としているから、あるいは女羲による「歴史改変」の結果、この時代の中国に唐辛子が存在するのも同じ理由と、歴史物としてはいわゆる「史実厨」とか「ジャガイモ警察」の類を虚仮にしているかのような描写も目立ちました(原作者は中学の歴史教師とのこと)。
もっとも、虚仮にしたいのは一般の歴史ファンではなく、もっと別のものなのかもしれません。本作のタイトル『天意』は作中に出てくる台詞「天意難違」から取っているわけですが、この作品自体にとっての「天意」とは何でしょうか。あるいは作中の「神」こと女羲は自らの目的遂行を第一とし、人類の歴史への介入や改変など意に介さないわけですが、本作にとっての「神」が存在するのでしょうか。こういうメタ的な視点から見ると面白さが一層増す作品なのではないかと思います。
第4話は「流血的門徒」。本編では影が薄めだった隠鬼門の話。墨遠が実はライバル団体幽冥教のスパイだったという事実が明らかに…… 36人の「隠鬼」の中から彼と墨舞の2人が門主・墨非の直弟子となるまでの顛末が描かれます。
第5話は「天依的使命」。韓信の斉国征服の際に天依が滄海客に連れ去られてから張良のもとに戻されるまでの間の話。
第6話は「烏江!烏江!」。「覇王別姫」の裏側で、韓信が滄海客に頭を下げても項羽を救おうとした顛末が描かれます。結果はやはり……なわけですが。
第7話は「漢宮異聞録」。これも本編終盤の挿話で、女羲と滄海客が韓信を放棄して劉邦に乗り換えるあたりの話。滄海客を劉邦の新たな寵姫と勘違いした呂后が彼女を排除しようとしますが、最後は劉邦と彼女の信者となります。滄海客を「お前ホントに神の使者?」と奇跡を見せられても信じなかった韓信の強さを感じます……
『天意 超能篇』第8~9話は「逆転未来(上)(下)」。本編最終回の続きです。韓信と女羲との戦いは「平行宇宙」を舞台に続けられていたようで、本編のラストも平行世界のひとつという位置づけになるようです。平行世界の存在を認めてしまうと、本編の文明が女羲の介入によって作られた世界もそのうちの一部にすぎないということになるわけで、歴史改変を御法度としてきた当局の姿勢を思うと、危険な領域に足を踏み入れた感があります。
第8~9話の韓信。中の人的にはこういうナリの方が似合うような……
【総括】
これは毎回オープニングの最後で出てくる「おことわり」ですが、この護符の力でどこまでやれるか挑戦したような作品でした。
韓信・蕭何・張良らの人物設定が史実(というよりは『史記』など史書の記載)と合わないのは、平行世界の存在を前提としているから、あるいは女羲による「歴史改変」の結果、この時代の中国に唐辛子が存在するのも同じ理由と、歴史物としてはいわゆる「史実厨」とか「ジャガイモ警察」の類を虚仮にしているかのような描写も目立ちました(原作者は中学の歴史教師とのこと)。
もっとも、虚仮にしたいのは一般の歴史ファンではなく、もっと別のものなのかもしれません。本作のタイトル『天意』は作中に出てくる台詞「天意難違」から取っているわけですが、この作品自体にとっての「天意」とは何でしょうか。あるいは作中の「神」こと女羲は自らの目的遂行を第一とし、人類の歴史への介入や改変など意に介さないわけですが、本作にとっての「神」が存在するのでしょうか。こういうメタ的な視点から見ると面白さが一層増す作品なのではないかと思います。