旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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盛夏・ガジャンの季節

2010-07-29 00:24:00 | ノンジャンル
 「オレは40歳、独身。したがって子はない。しかし、これは本能というべきか、自分のDNAを何らかの形で残したい。そこで、この夏から蚊を飼うようになった。ベランダの空きプランターに水を入れて放置した。やがて蚊が卵を産み、すぐにそれはボウフラになり、間もなく立派な蚊になって部屋に羽音を立てて入ってくる。オレは蚊に喰われることになる。腕などに止まり必死になって血を吸うさまを目の当たりに見ていると、愛しくなるんだナ。血を吸うのは雌蚊だけで、見る見る腹部がオレの血で赤くなる。蚊はオレの血を命を繋ぐ栄養として産卵。ぼうふらを経て成虫なる。ああ、オレの血統書付のDNAは確実に蚊に遺伝されたッと思うと、これは感動以外の何ものでもない。また、刺された後のかゆみッ。これがまた快感!。蚊との一体感を覚える」。
 男は恍惚の面持ちで話す。世の中には変態としか言いようのない感動の仕方、快感の覚え方をする人間もいるものだ。
    

 蚊は、ハエ目カ科の昆虫の総称。世界には約2000種。日本に約100種。吸血するのはメス蚊。日本脳炎などを媒介する害虫だ。イエカ類は夜間に暗躍するのに対して、ヤブカ類は昼間に活動する。
 人間は、蚊とのつき合いを長くしていて、日本語の中にも生きている。
 ※蚊の食うほども思わない。
 *痛くも痒くもないと同意。何とも思わない。何も困らないの例え。
 ※蚊のスネ。
 *やせ細ったスネ。頼りにならないことの例え。
 ※蚊の鳴くような声。
 *非常に微かな声。
 ※蚊の涙。
 *数や量が少ないことの例え。雀の涙に同じ。

 沖縄方言で「蚊」は、ガジャン。ガザン、ガザミという地域もある。
 ハマダラカ・オオカ・チビカ・ヤブカ・イエカなど約60種が分布。日常の吸血害はもちろんのことマラリア、デング熱、日本脳炎などを媒介する衛生害虫〔ガジャン〕は、昔から天下の嫌われものだが、言葉の面では別の意味を持つ場合もある。
 童女が14、5歳にもなって色気づいてくると大人たちは、
 「男を意識するようになったら、蚊もその色気にあてられて刺すのを遠慮するようになる」
 などと冷やかしとも、成長の歓びとも取れる言葉を掛けた。「ガジャンぬん喰うらんさ」がそれである。しかし逆に、美形とはほど遠い女性や人情味のないそれには「ガジャンぬん向からん」つまり、蚊でさえ見向きもしない面相というひどい表現もする。この言葉は男にも投げ掛ける。あまりにも根性が曲がり切っていて協調性に欠ける野郎のことをそう言い切る。意味するところは蚊も「嫌がる・無視する・相手にするに値しない・食欲を示さない血の持ち主!」と決めつけられるのだから、もう救いようがない。この夏、すでに1度でも刺された人は安心するがいい。蚊も周囲の人たちも、決して見捨ててはいない証なんだから。
 「ガジャンぬ喰え=くぇ!」なる言葉がある。蚊に刺された痕跡・赤い湿疹のこと。これにも別の使い方がある。まずは琉歌を1首。

 symbol7首筋に残る赤豆ぬアジャや ガジャン喰えぬ跡とぅ 与所ね言りよ
  <くびすじに ぬくる あかまみぬ アジャや
    ガジャン喰えぬ あとぅとぅ ゆすね いりよ


 年ごろになって色気で蚊を遠ざけていた童女も、その色気が熟するにつれ女童<みやらび。若い女性>に変身する。恋をするのも自然の成り行きだろう。恋人たちは人目を忍んで愛の交歓に身を焦がす。気づいてみれば彼女の首筋に若者の唇の愛の印が、赤い豆のような鮮やかなアザ<痣>になって残っている。それほど激しい愛の交歓だったのだ。帰路で若者は言った。
 「首筋の赤いのは何だ。どうしたのだと聞かれたら、何でもないワ。先ほどヤブ蚊に刺されたのヨ。単なるガジャンぬ喰えーよッと、返事するんだよ。親兄弟に問われても、そう言い通すんだよッ」と。
 ここでは蚊も、忍び逢いの言い訳の役に立っている。マラリア・デング熱・日本脳炎のみならず〔愛の媒介・仲介〕もなしていると言えよう。
 蚊の多くは、梅雨明けに出来る水溜りや人間が放置した器に溜まった少量の水にも産卵する。それがアミジャー<ぼうふら>になり、そして一人前の蚊になって、人間や動物の生血を吸い、植物の樹液、葉液を糧として繁殖。その一生は30日足らずだが、その間に4~5回は産卵すると言われている。道理で殺虫剤や蚊取り線香が売れるわけだ。
 蚊の飛行高度は18~20メートルと言われているが、それ以上の高さのビルのオフィスに蚊が出現した例がある。半袖や胸元の開いた着衣の上に猛暑・酷暑の中に働く人の汗に誘われて、エレベーターに乗り込んだのではないかと噂されている。蚊も現代を生き抜くために学習をしているのだろう。また、最近の情報によると、日本の蚊の分布の北限は関東までとされていたが近年、東北地方まで拡大しているという。これも地球温暖化に関わっていると思われる。

 冒頭の男のように、蚊に己のDNAを託し感動・快感を覚えることもないが、出来るだけ蚊とのつき合いは回避して、長い夏を乗り切りたい。
 蛇足ながら、ぼうふらの感じは〔孑孑〕と書くそうな。
 “孑孑に月がさすなり手水鉢” 高濱虚子