旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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愚弟賢兄

2010-07-08 00:20:00 | ノンジャンル
 その日、新潟県六日町にいた。
 仲間内の温泉小旅行の初日だ。3月半ばの越後は雪の中。時おり吹雪が見られ、雪との付き合いのない沖縄人にとっては貴重な体験で「注文通りのウァーチチ<天気>だわい」と、地元の人にはわけが分からないであろうはしゃぎ方を楽しんでいた。

新潟県六日町にて

 夜、寒さに疲れた躰を名湯で癒やし、それでも思いっきり冷やしたビールと、逆に越後の名手の熱燗で乾杯した。すると、馴染みの役者北村三郎<本名高宮城実政>が、丹前の懐から茶封筒を出して、そっと私に見せた。
 「持ちつけない現金か。大枚らしいな」
 「うん。実は・・・」
 その年生まれの北村三郎は満72歳。数え73のトゥシビー祝儀をすべき丑年だ。しかし北村は、老人になったことを自認するのに、いささか抵抗があって「生まれ年祝い」をする気はなかった。新暦の年が明け、26日遅れでやってきた旧暦の〔丑年〕の初め、兄の高宮城実から電話があった。例によって(囲碁の相手をせよ)ぐらいの用件だろうと、気軽に兄宅へ行ってみると案の定、基盤が待っている。ともあれ、二盤、三盤ほど打ち終えたとき、兄は立ち上がり、仏壇に置いてあった茶封筒を取り、弟実政に手渡して言った。
 「お前も丑年を六回りさせたんだな。躰をいとえよ。温泉でも入ってくるがいい」

 「うん。実は兄がそう言って僕にくれたんだ10万円。兄から見れば弟は、いつまでたっても未熟なんだなハハハハ」
 北村はそう話して笑ったが、目は濡れていた。高宮城実氏は私も存じ上げているが、そのとき御年80。八つ年下とは言え、80歳の兄が72歳の弟に(躰をいとえよ)と、10万円の気遣いをする。
 「まさに愚弟賢兄だね」と、馴染みの兄弟ばなしを茶化してはみたものの、なぜか胸が熱くなっていた。丑年の越後の酒が旨かったこと。ふたりして酔うた。
     
        写真:北村三郎氏

 兄弟ばなしはアメリカにもあった。脚本家マイケル・V・ガッツオの作品「帽子いっぱいの雨」は、父親がからんだ兄弟ばなしだ。西部の大牧場主の父親は、兄を英才教育し、思惑通り大都会ニューヨークの一流企業に就職できるまでにした。一方、弟には牧場を継がせる算段があって(学問をするに及ばず)の育て方をする。しかし弟は、好きなジャズトランペッターを目指して家出。ニューヨークの兄と同居する。弟の行為に怒った父親は、弟を叱咤すべく遠路、息子二人を訪ねる。理想通りのエリートを堅持しているらしい兄に満足、得心の笑みを見せるが、弟のミュージシャン暮らしには猛反発。兄と弟の生き方の格差に、怒りは弟にのみ向けられる。
 しかし、現実はそうではなかった兄は父親の期待とエリートであり続けるという重圧に抗しきれず、麻薬に依存してすっかり重症。弟が兄を立ち直らせるために尽力してくれたのである。まあ、ざっとこのような物語。愚弟賢兄か愚兄賢弟かいずれとしようか。この脚本は昭30年代、ドン・マレー主演の映画「夜を逃れて」になり、那覇市の国映館で見て感動したものだ。

映画と言えば、私も兄と見た映画がある。
  黒澤明監督、昭和25年の作品「羅生門」がそれである。1年遅れで旧石川市の映画館新興劇場に掛かった「羅生門」を見に行ったわけだが当時、兄直政は23歳、弟直彦は13歳。兄には黒澤映画のよさは理解できたであろうが、映画はチャンバラものにしか興味を覚えなかった弟には、内容なぞまるでチンプンカンプン。ただ、 目を剥き歯を剥いて太刀を振り回す三船敏郎だけが見どころ。退屈この上もなかった。
 映画がハネて兄弟は家路につく。ふたりの下駄の音が星月夜に響いていた。兄は道々語ってくれた。
 「芥川龍之介という作家の原作だ。藪の中で惨劇が起きたのだろう。それを数人の人が見聞していて証言するが、一人ひとりのそれが微妙に食い違っている。つまりだな、人の世の真実か判断しかねる。この考え方も芥川龍之介の仏教的思想のひとつだろう」
 そう解説されても13歳には、またぞろチンプンカンプン。ただひとつ覚えたのは(日本には芥川龍之介という偉い作家がいる。それにしても月形龍之介同様、時代劇俳優みたいな名前だなぁ)。このことであった。
 私の場合、確かに兄直政は(賢)であった。何ひとつ頭の上がることはない。(ない)と言うよりも、その賢兄直正が去年逝ってしまってどうしようもない。ひと言だけでも褒め言葉を掛けられたかったと痛感するのだが、末弟の愚弟はついに(愚)を通していかなければならない。残念なり無念なり。

 ところで。
 上原直實・カマドのこと。
 長男直勝を筆頭に長女とみ・直繁・直喜・直政・愛子・由子・春子、そして私を生み育てた両親である。しかし、長男は上海沖、次男はビルマ戦線で戦死。これが両親には耐えられない心痛であった。両親もすでに逝き、加えて三男四男、さらに長女も三女も親・祖父母のもとへ行った。残るのは次女と四女の姉ふたりとウッチラー<末っ子>の私のみ。私自身には子、孫がいて幸福をかみしめている。母カマドはそうでもないが父直實は嫁も婿も知らず、まして孫、曾孫の顔も見ず早逝している。子としてはこのことが悔しい。戦世を恨まなければならない。
 この連載の最終章に両親を登場させて(あなたたちの子に生まれてよかった)と結ぶのは、浪花節に過ぎる。しかし、自分が歳を重ねるにつけ、ますますそのことを実感するのである。

  ※琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」2010年6月3日掲載を転写