旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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なぜか嘉手刈林昌・名言珍言

2010-07-01 00:45:00 | ノンジャンル
 「くぬ三線のぉ あんすか 鳴らんさぁ
 素人の域を出、歌者仲間のうちでも一応の名を知られている御仁。最近、大枚で手に入れた三線を弾きながらそう言った。
 「この三線(値段の割には)いい音色が出ないなぁ」
 その座には数人の歌者が顔を揃えている。
 三線の所有者自身にそう言われて面々は、三線の鑑定士のような面持ちになり、その三線を回し弾きした。
 「張りが甘いのではないか」「ンマ<駒>が、ちょっと低いせいかな」「歌口が高いようだぜ」「チーガ<共鳴板>のせいだね」などなど。持主に同情するかのように、いや、持主の鑑定眼を支持して(よくは鳴らない三線)にしてしまっている。すると、それまで黙って彼らの鑑定談を聞いていた風狂の歌者嘉手苅林昌<かでかる りんしょう>が、おもむろにボソリと話に加わった。
 「んだんだ。ちゃぬあたい鳴らんが」
 と、件の三線を受け取り弾き始めた。歌詞の付かない三線のみの曲「渡りぞう節」の後は、渋い歌声を乗せて「揚作田節=あぎ ちくてん」など2、3曲。
 「どれどれ(よくは鳴らない音色の三線とは)どのくらい鳴らないのかな」
 嘉手苅林昌は、確かめに入ったのである。彼の手に掛かった三線は、リズムよく歯切れよく、めりはりの利いた音色を座いっぱいに響かせた。しばし聴き入った一座の誰にともなく嘉手苅林昌は、はたまたボソリと言った。
 「ゆう鳴とぉーしぇ。いい三線どぉ=よく鳴るではないか。いい三線だよ」
 座には得心の沈黙の間があった。
     

 歌者の間に言われている言葉がある。
 「三線のぉ 好かち弾き=さんしのぉ しかちふぃき
 三線は、子どもを好かすように、彼女を好かすように。惚れ込む心情をもって弾くことをよしとしているのである。それだけの思い入れがあれば三線は、それに応えて〔いい音色〕を出すとしている言葉だ。嘉手苅林昌は、件の三線の持主と同座の後輩たちに、このことを実演で立証してみせた。三線は、値段やあれこれの能書を並べて弾くものではない。自分の意志で購入し、縁あって手元にやってきた三線は、まず所有したことを歓び〔惚れなさい〕〔心をあづけなさい〕と、言いたかったのではないか。まさに「三線のぉ 好かち弾き」である。

 嘉手苅林昌。
 大正9年<1920>7月4日。越来村仲原<ごえくそん なかばる。現沖縄市>に生れた。
 「アメリカとの戦争で遠く南洋諸島を転戦。3度も死に損ねたワシがアメリカの独立記念日に生れている。徴兵されて3ヵ月も経たず、鉄砲の引き金も引かず、敵国のアメリカ兵の顔も1度も見ないうちに(この戦争は日本の負け)というのがワシには分かった。なぜと言って、戦争とは敵兵を殺すことだが日本軍は、大和魂を叩き込む!とかで、上官が新兵のワシたちを精神棒で骨折するほど殴るんだものな。ワシも滅私奉公!天皇陛下の御為にいい兵隊になろうと決意していたのにサ。“キサマッ!沖縄モンのくせしてカデカルリンショウ?なぞと訳の分からない漢字の姓名とはけしからんッ!”と、殴るんだ。敵を殺すべき戦争で味方を殺しにかかっては勝てるわけがなかろう」
 嘉手苅林昌は貧農の子に生れた。越来尋常小学校中退。篤農家の小作人になり家計を助けながら、歌好きの母親の影響で7歳から隣家のオジさんの三線を貸してもらって弾いていた。農業・馬方・日本帝国軍人。戦後は東京に引揚げ、東京~神奈川方面往復のヤミ商売。帰郷して軍雇用員・コザ市室川の区長1期。巡業芝居の地謡など職歴多々。以降は三線ひと筋。
 「嘉手苅林昌の歌唱は、沖縄そのものを語っている」
 これが彼に対する沖縄人の評価。のちに親交を結ぶ評論家故竹中 労・作家長部日出雄をして「北の高橋竹山、南の嘉手苅林昌」と言わしめ、両者の共演を企画した。しかし、対面は果たしたものの、共演は実現に至らなかった。
 昭和47年<1972>5月15日の沖縄の日本復帰以前、以後を通して本土各地や海外でも、乞われるままに〔沖縄を歌い続けた功績〕が評価されて平成6年<1994>沖縄県文化功労賞を受賞している。受賞後の言葉も彼らしかった。
 「表彰状の紙は妙に厚ぼったくて、弁当は包めないし折り紙にも適さない。どうせ紙をくれるなら、使いでのある紙の現金がありがたかったのになぁ」
 テレ隠し。嘉手苅林昌も平成11年<1999>10月9日。癌に負けて逝った。享年満79歳。私のことを〔ヒコ〕と呼んでくれた。
 「ヒコ。金銭には縁がなく、フィンスー<貧乏>を通してきた。フィンスーはなれると苦にもならない。しかし、ヤンメー<病>の苦しさは耐えられないなぁ」
 入院先の病床での言葉が、私が聞いた嘉手苅林昌最後の肉声だった。
 名人上手ゆえの奇行や名言・珍言はつきものだが、三線1丁を抱いて大正・昭和・平成の時代を駆け抜けて行った嘉手苅林昌。出版された名唱のレコード・CDは、ほかの歌者のそれを圧して最も多く、いまもって人びとに愛されている。
 待て。
  
    〈故嘉手刈林昌〉

 なぜいま時〔嘉手苅ばなし〕なのか。
 沖縄における日米の地上戦終結から65年経った6月23日「慰霊の日」。ラジオ・テレビの正午の時報を合図に沖縄全県民は一斉に黙祷をした。私の脳裏を戦死した肉親の顔や縁者のそれがよぎった。その中になぜか彼の顔もあった。
 戦中でも戦後でも行った人びとの冥福を祈ることは、その人びとを忘れないためだ。そして、忘れないでいれば歴史を語ることができる。一人ひとりの沖縄人はもちろん、島うたにも戦前、戦中、戦後は確かな形であったのだから。