旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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激動の中の比嘉秀平

2010-07-15 02:36:00 | ノンジャンル
 「久しぶりッ。近くまできたのでキミの顔がみたくなってね」
 6月始め、知人のYがやってきた。社内のカフェでコーヒーを飲むこと小1時間。これと言った言葉を交わすでもなく、ごく世間ばなしをした後Yは、次の日程とやらで慌ただしく帰って行った。その間、Yの携帯電話は2度3度鳴った。相変わらず分刻みで立ち回っているらしい。私は予感した。
 「大きな選挙があるな」。
 知人Yの挙動からそれを感知したのである。Yは建設会社の社長。青年のころから選挙への関心度は並ではなく〔選挙〕と聞いただけで血が騒ぐのだそうな。その血に動かされてYは国、県、市町村の各選挙に顔を出し、最近では特定の政党を支持。強力な支援者のひとりと目されている。ならば、自ら立候補すればよいものをと思うのだが、Yの思惑は別のところにある。
 「いやいや。政治は表舞台よりも役者を引き立てる裏方のほうが面白い。例え成っても武田信玄の参謀山本勘助でありたいのだよ」
 さまざまな生き方がある。
 仲間内ではYのことを〔海鳥〕と別称している。海鳥は、気象台よりも早く台風発生を感じ取り、陸地に避難してくる。昔の民間天気予報にも「海鳥が山に向かって飛ぶと海は時化、あるいは台風がやってくる」と言われてきた。つまり、政界はさざ波程度でもYが「キミに逢いたくてネ」なぞと1年ぶり2年ぶりに顔を見せると〔選挙が近い〕と噂しはじめるのである。
 案の定。2010年7月11日。第22回参議院議員選挙は、慌ただしく投票・開票がなされ与野党逆転の結果となった。
    
 知人Y風に言うべきか、寄席の講談風にいえば輸入依存国日本はいま、剣聖宮本武蔵の生き方を選択せざるを得ないようだ。右手に武力大国アメリカ、左手に急成長を遂げた経済大国中国という大刀小刀を持ち、いや、持たされて世界に立ち向かおうとしている。この二刀流の奥義を極めることができるかどうか。漫画本の見てくれだけの宮本武蔵に終わるか。国民はそれを見極めることすらできない現状にある。

 大きな選挙のたびに思い出す人物がいる。
 アメリカ統治下にあった昭和26年<1951>に琉球臨時中央政府、翌年琉球政府が成立して、初代行政主席に任命された比嘉秀平氏<ひが しゅうへい>である。私はまだ13、4歳だったが、父や兄や周囲の大人たちが石油ランプの灯を囲んで話す沖縄の現状と将来などなどを意味も理解できないまま、それでも胸を高鳴らせて聞いていたころ〔比嘉秀平〕の名は三再四出ていて耳の底から離れないでいた。なにしろ沖縄地上戦は終わったものの、占領軍アメリカは赤狩りを強行して反米思想の一掃に躍起となった時代。大人たちの声を殺した熱っぽいヒソヒソばなしは、少年を緊張させ、興奮させるに十分だった。

 比嘉秀平。
 明治34年<1901>6月7日。読谷村大木の貧農の子に生れた。小学校のころ、家計を助けるために就労した製糖工場のサトウキビ圧搾機に右腕を取られた。しかし、少年は苦学力行。早稲田大学英文科に進学・卒業。高野山中学校の教壇に立ったあと帰郷。沖縄県第二中学校教諭を経て第三中学校の主任になり多くの英才を育てた。戦後、語学をかわれて沖縄民政府翻訳課長、同政府官房長を歴任。当時の志喜屋孝信知事<しきや こうしん>を大いに助け、全琉統合政府の設立に手腕を発揮した。その功績が評価されて、琉球政府初代行政主席に任命されたのである。選挙ではなく、アメリカの任命というところに戦後沖縄の実態を見ることができる。
 【任命】官職・役に任ずること。役に就くことの命令。
 辞書にあるように沖縄は、終戦から27年間、自分たちの首長を自ら選ぶことも許されず、米民政府の〔役に就くことの命令〕のままの主席の下にあったのである。もちろん、沖縄人民の本意とするところではない。それは比嘉秀平氏も変わらなかった。しかし、誰かが沖縄側の先頭に立たなければならない。比嘉秀平氏は苦難覚悟で引き受けた。
 沖縄人民もアメリカの軍政に唯々諾々追従したわけではない。まもなく、大きな政治問題なった〔軍用地問題〕では比嘉秀平氏は、人民から「米軍のイヌ」「アメリカの手先」などと突き上げられ、人民と米軍の板挟みに苦悩しながらも職務を遂行した。そして、島ぐるみ反米闘争の渦中、心痛心労がたたったのか昭和31年<1956>10月25日、急逝することになる。55歳の働き盛りだった。
      
       写真:比嘉秀平氏(ウィキペディアHP写真より)

 比嘉秀平氏は任命主席在任中、重大な問題が発生すると、常に英文タイプした辞表を懐にして、米民政府との折衝に臨んだ。実際にその辞表を叩き付けること7回に及んだ。心身は常時、人民とともにあったからだろう。
 沖縄受難の時代、しかも人民からは批判の声、米軍からは一方的な命令を受けながらも4年間、非合理を承知で沖縄の将来を見つめて行政に専念したのだ。
 今日、この4年間で日本国の総理大臣が幾度替わったことか。時代が異なるとは言え、いや、過剰平和のせいか、上に立つ者のスタンスが甘いような気がする。すぐに砕ける足腰しか持ち合わせていないような気がする。
 「総理大臣は、誰がなっても世の中は変わらない」
 国民の中に広がるこの観念がそれを物語っている。国民は、政府に対していかなる辞表を突きつければよいか。政治家の言動・政治の動向を注視しなければ、日本はどこへ流されるか知れたものではない。