旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

春の琉歌・梅と鶯

2007-03-22 09:29:50 | ノンジャンル
★連載 NO.281

 寒さにそう強くない沖縄人は、年明けとともに、そこいらに飛び交う「初春」という言葉を信じて、1日でも早い(春到来)を期待しているのだが、なかなか思い通りに春は来てくれない。
 今年も恒例の期日に「日本一早い桜祭り」を終え、ツツジ祭りは開催中だが、吉丸一昌作詞。中田章作曲「早春譜」♪春は名のみの風の寒さや 谷のうぐいす歌は思えど・・・・の日々がつづいている。

 (それもそのはず)と、言い切れるかどうかは決めかねるが、新暦の2月18日に亥年を迎え、いま旧暦の2月に入ったばかり。沖縄がもっとも寒いのは、旧暦2月と言われるくらいだから、本格的な春(うるじん)は、新暦4月になるかも知れない。昨年は、閏年で旧暦7月が2度あった。そのことと、昨今の気象異変が相なって、今年の春は遅くなるようだ。もっとも、これは私のカンにすぎないが・・・・。
 それでも、春の主役はウグイシ<鶯>とンミ<梅>。春を待つ人びとは昔から、鶯・梅に託して(人生)を数多く詠んでいる。

 ♪初春ぬ梅ぬ なま蕾でぃ居しや 深山鶯ぬ 声が待ちゅら
 <はちはるぬンミぬ なまちぶでぃWUしや みやまウグイシぬ くぃーが まちゅら>
 歌意=春だ春だと人は浮かれているが、梅はまだ蕾。それは、奥山から梅を慕ってやってくる鶯の声を待っているのだろう。鶯の声で花ひらきたいと、梅は思いを定めているのだ。鶯よ、はやく里におりて来い。
 春の風物詩としてとらえるのもいい。また、梅を女性・鶯を男性に置きかえるもいい。
 女童<みやらび・なーらび>は、似合いの若者と出会い、結ばれてこそ花ひらく道理である。
 幼鳥の鶯。つまり(藪鶯)は、発声訓練が未だ十分ではなく「ホー」が打ち出せず「ケキョ、ケキョ」と鳴く。嘴が黄色い。そのことから沖縄では、藪鶯を「チョッチョー・チョッチョイ・チョッチョロー」と言う。そして、年齢は大人の域に達していても、その言動が幼稚なものに対して「やなッ!チョッチョイ!」と、戒めの言葉を投げ放つ。主に男子が対象となるが「きみッ、まだまだ嘴が黄色いよッ」と、同義語なのである。

 ♪昔匂い添たる 深山鶯ぬ 鳴声忘しりたみ 花ぬあるじ
 <んかし にうぃすたる みやまウグイシぬ なちぐぃ わしりたみ はなぬ あるじ>
 歌意=かつては、匂い・香りを慕ってくる鶯と寄り添って春を謳歌した仲なのに 、このごろは、どんなに「ホーホケキョ」と美声を放っても、反応がなく開花の様子もない。鶯の鳴き声を忘れてしまったのか花よ、梅よ。
 千野かおる作詞。鳥取春陽作曲「籠の鳥」♪逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ 僕の呼ぶ声 忘れたか。
 私にも、それらしい経験がないでもないが。サラバンジ<若い盛り>のころ、梅にも優る女性と春夏秋冬、都度逢ってロマンを語ったものだが、このごろは会見を申し入れても、他人行儀の声が返ってくるばかりだ。もっとも、梅はすでに「籠の鳥」になっていて、かく言う私も老鶯になってしまっては、詮ないことである。
 しかし、梅の香り、花への憧れは持ちつづけている。老鶯は、つぎのような琉歌を好んで口にする。

 ♪春や世の中ん 匂いに包まりてぃ 人ぬ肝までぃん 花になゆさ
 <はるや ゆぬなかん にうぃに ちちまりてぃ ふぃとぅぬ ちむまでぃん はなになゆさ>
 歌意=幾年月めぐっても、春は四方、花の香に包まれて、すべての人の心も花のようにやさしく清らかになる心地がする。
 人間は、環境に左右されやすい。季節の風にも感応せず、鳥の声にも耳をかさず、梅にも桜にも目をやらないでいると。心の中に何時までも寒風を囲うことになる。それでは、あまりにも切ないというもの。めぐり来る花の季節への期待感を胸に抱いていれば、佐藤惣之助作詞。古賀政男作曲「人生の並木道」♪・・・・この世の春は きっと来る。

 沖縄の風は、南へまわると見せかけて、まだまだ北から吹く。しばらくはそれを繰り返し、やがて「別り寒さ=わかり びーさ。冬に別れを告げる寒さ」「戻り寒さ=むどぅい びーさ。寒の戻り」があって、うるじん・若夏へと時を移していく。
 その修業は、藪鶯が成鳥となり、誇らしく「ホーホケキョ」と鳴いて告げてくれる。

次号は2007年3月29日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com