旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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梅雨・雨の節入り=あみぬ しちいり

2007-05-23 21:04:57 | ノンジャンル
★連載 NO.289

 2007年5月16日。沖縄気象台は「沖縄地方の梅雨入り」を宣言した。

 ♪雨ぬ降てぃ晴りてぃ 通ゆいたる里や 刀自惚りがしちゃら アティん無らん
  <あみぬふてぃ はりてぃ かゆいたるサトゥや トゥジぶりがしちゃら アティんねらん>
 そう遠くない昔。那覇にあった辻遊郭の尾類<じゅり。遊女>の詠歌である。
 「アティ」は、当てにする。頼みにするの意。転じて、沙汰・面影などを意味する。
 「トゥジ」は、刀自。妻女のこと。
 歌意=雨が降っても晴れても、毎日のように通いつめてくれたサトゥ<男。彼氏>。奥さんに惚れなおしたのか、来る様子も当てもないワ。
 雨降りつづきで、お茶を挽く連日だったのだろう。
 お茶を挽く=江戸川川柳に“花を見て留守してお茶挽く座頭かな”とあって、昔は仕事がヒマな日は、日常飲むお茶を挽いていたそうな。そのことが転じて、色街の芸妓、遊女の(客のいない態)を意味するようになったという。
 長雨は、農家にとっても困りものだが、尾類の仕事?にも大きく影響したようだ。
 晴雨は、家畜が教えてくれた。
 殊に、庭鳥<なぁどぅい。鶏>の動きをよく見ていると、相当な確率で晴雨を予測することができた。それは、いまも変わりない。
 俗語にも「雨ぬ降いねぇ 庭鳥ぬんくぁっくいーん=あみぬふいねぇー なぁどぅいんくぁっくぃーん」とある。雨が降れば、鶏でも(小屋)にかくれるとしている。さらに「まして人間、雨宿りしないものは鶏にも劣る愚者」と、戒めている。
 その鶏が雨にもかかわらず、外に出てエサをついばむ間は、雨は上がらない。食いだめをして長雨に備える行動という。また、少々の雨はいとわず、木の枝や石垣など高い所に止まって羽繕いをすると、間もなく晴れる兆しとした。
 鶏ばかりではない。サージャー<白鷺>が、干潟に遊ぶ間は晴天だが、彼らが海辺・水辺を離れて陸地へ向かって飛び立ち始めると、時を待たず雨が降る。避難するのだ。
 沖縄では(海を生活の場にしている鳥)は、すべて「ウミドゥイ=海鳥」と呼び、ひとつひとつの呼称はない。海を渡る白い鳥は「シルトゥヤー・シラトゥヤー」と、ひと括りにしている。因みに、歌謡「白鳥節=シラトゥヤー節」に詠み込まれているそれは、渡り鳥の白鷺の一種とされている。

 ♪船ぬ高艫に白鳥が居ちょん 白鳥やあらんウミナイうしじ
  <うにぬたかとぅむいに シラトゥヤがゐちょん シラトゥヤやあらん ウミナイうしじ>。    
   船・舟は「ふに」であるが、この歌の場合「うに・御船」と発音する。
 歌意=唐<とう。中国>、大和<やまとぅ>へ長い航海をする帆船の高艫に、白い鳥が止まって水先案内人をしているように見える。いやいや、それは単なる海鳥ではない。航海の安全を守護する姉妹神<WUNAI>なのだ。
沖縄には、兄・弟など男が航海にでる場合、姉・妹の生霊が(旅の無事)を守護するという信仰があって、それを背景に詠まれた歌である。

 天気予測に関しては、人間もトリなぞに負けてはいない。
 那覇では、イリ<西>の海が潮鳴りすると時化<しけ>と言い、本島北部・名護や本部<もとぶ>、国頭<くにがみ>地方の人たちは、西の海上に位置する伊江島<いえじま>のタッチュー<岩山の名称>が、本島から見える間は(晴れ)。見えなくなると(雨)と言い切る。実際、そうであることを私は確認した。

 俗語。
 「濡でぃれーからぁ 雨ぇうじらん=んでぃれーからぁ あめぇうじらん」
 語意=いったんずぶ濡れになると、雨なぞおじることはない。
 まさに、開き直りである。
 雨の日は、鶏でさえ雨宿りするとは言うものの万が一、傘もなく隠れようもなく、全身ずぶ濡れになってしまうと、もう失うものはない。雨なぞ平気である。
 しかし、この俗語の教えるところは、いま少し深いものがある。「朱に交われば赤くなる」と同意。1度悪事に手を染め足を突っ込むと、それ以上の悪事も平気で行うことになると説き、戒めているのだ。
 余談。
 ずぶ濡れ状態を共通語では「濡れ鼠」と、鼠を引き合いに表現するが、沖縄は「濡でぃドゥイ=鳥・鶏」に例える。それほどトリと雨は、浅からぬ因縁にあるということか。
 “本降りになって出て行く雨宿り”

次号は2007年5月31日発刊です!

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