ツトムさん家の写真日記。

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第809回 大田原市 那須与一の墓。

2013-09-13 12:00:00 | 旅行

2013 08 03(土)


大田原市福原361に在る名刹“玄性寺”(げんしょうじ)、那須与一の墓所寺として有名。
道路脇の坂道を上がると「須峯山玄性禅寺」「那須與一公御墓」と刻まれた石柱、その奥正面には沢山の地蔵尊が出迎えてくれます。
 
境内の片隅には那須家の菩提寺らしく那須家の家紋が付いた弓道場もあります。

広い境内の奥まった場所に建つのが“一心堂”、那須与一を祀る祈祷堂です。


一心堂の内部、正面には木彫の那須与一像。弓の名手らしく横には弓が立て掛けられています。
左右の壁には「一発必中」の書額と「那須与一扇的」の絵額。
 

屋島の戦い(元暦2年 1185年)で平家の軍船に掲げられた扇の的を見事打落とし、名声を天下に轟かせた「那須与一扇の的」奉納大絵馬。
 
願いは「一発必中」で叶えてくれる絵馬もあります。

那須与一墓所への途中に「矢剪石」(やせんせき)なる大石があります。
この「矢剪石」は母を知らない那須与一が「守り地蔵尊」と名付け注連縄を張って日頃から母のように尊んでいました。
屋島の戦いで那須与一が見事に扇的を射抜いた時、680km離れていたこの大石が裂けたと伝えられ、村人たちはその不思議さに「矢剪石」と命名して祭り、長く与一公の遺徳を偲んだそうです。
 
確かに、上右画像の大石の左側から下にかけて亀裂が入っています。

「矢剪石」から参道を上がると、直ぐに「那須家の墓所」に到着。
小高い場所の石の柵で囲まれた中に古色蒼然とした七墓石が並んでいます。
 


那須与一公の墓石は左から三基目、墓所前に立てられた墓碑には「那須与一宗隆公墓」と記されています。
那須家は名前を世襲する慣習で、当主になった時には那須資隆と名乗りました。
宗隆は初名であり、与一は11番目に生れた男で十あまる一で与一と通称されるようになったそうです。
なを、那須与一は佐奈田義忠と浅利義遠を加えて「源氏の三与一」と呼ばれたとか・・・。
 
那須与一公墓石の左には与一の父(那須資隆)の墓石。
那須与一公の戒名は「即成院殿禅海宗悟居士」「即成院殿月山洞明大居士」、山城国伏見で逝去した与一公は京都東山の泉涌寺の即成院に埋葬された後、この福原の地に分骨されたので「即成院殿」文字が戒名に記されました。

十一男に生まれながら、兄弟の長男から十男までが平家に味方したなどで、与一公が那須家当主の座に治まりこの地方の領主となります。

墓所前の那須与一公顕彰碑 “那須与一公を讃える”。
「見よやあっぱれ与一公 三国一の晴れ姿 八百年の後までも そのいさおしは 伝えらる」。


那須与一公墓所下に建つ玄性寺本堂を参詣。
正式名は曹洞宗須峯山瑠璃光院玄性寺、創建の時期は定かではないが江戸時代と謂われている。


本堂内の須弥壇に鎮座するのは御本尊の“薬師如来坐像”。
  
ユニークな姿の木彫りタヌキ僧侶像が廊下で日向ぼっこしていました。
このタヌキは木魚の上に座禅を組み瞑想の境地を悟った“観月たぬき”とか・・・。
那須与一公の眠る菩提寺本堂ですから、「屋島の合戦扇的」の貼り絵・絵画なども沢山奉納されています。


2013 09 13(金)記。     前橋市     最高気温 31.2℃    最低気温 24.0℃


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http://news.livedoor.com/article/detail/8057362/


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