3月3日(土) 3日は桃の節句の雛祭りですが、珍しいお祭りがあると聞いたので遠方へLETS'GOです。
場所は越後の国、コシヒカリ米で有名な南魚沼市の大和町。
大和町と云っても知らないでしょうが、スキー場や上越新幹線駅で知られている浦佐のある町です。
浦佐の街中に位置する普光寺の毘沙門堂で天下の奇祭が毎年3月3日に開催されると言う。 調べると日本三大はだか祭りの一つとあった。
「岡山県の西大寺はだか祭り」、「愛知県の国府宮はだか祭り」と「浦佐毘沙門堂はだか押合祭り」が日本三大はだか祭りと云うらしい。
早速、記録的暖冬で全く雪の無い関越道をで走りました。湯沢町の次の塩沢で左に折れて十日町へ、
“腹が減っては祭りは出来ず”と、先ずは“へぎそば”の元祖・小嶋屋で昼食です。 その後、近くの十日町市博物館で国宝・火炎土器など見学。(後日、掲載予定。)
午後4時に越後浦佐に到着、駅前から裸祭りの普光寺までの通りは露天商の店と冷やかし客で大賑わいです。
人込みを掻き分けて、先ずは毘沙門堂のある普光寺へ急ぎます。
普光寺は1200年余前、四海将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征定の折、この地に毘沙門天を祀り戦勝を祈願し建立と云われる。
普光寺は山号を“吉祥山”と言い、真言宗豊山派の寺院。
江戸時代には天領として十万石の寺格を持つ名刹として名高かった。
浦佐商店街中ほど寺入口の大提灯には“毘沙門天”ではなく“多聞天”と書いてありました。(因みに、毘沙門天と多門天は同一神との事。)
暖冬なので山から運んできた雪とムシロで裸祭り用に作った坂道を登ると吉祥山普光寺の大きな山門(楼門)です。
失礼ながら、越後・浦佐には似合わない立派な山門(楼門)は、日光東照宮の陽明門を模して総欅造り、江戸・天保2年(1831年)に当地の豪商・関市四郎の寄進により建てられました。 建築にさいして鉄釘など金属は全く使用していません。
山門(楼門)の楼下の天井は南画師・谷文晁「双龍図板絵」、楼上天井には京都絵師・板谷桂舟の「二十三天女」などが描かれています。
下から見上げると山門の壮大さ見事さには驚かされます。
豪壮な山門をくぐり抜けると長い回廊に出会います。床は踏み固められた雪です。
(長谷寺の回廊を模したと云う。)
回廊も広い境内も全て雪が一面に敷き詰められていました。(膨大な移雪量)
毘沙門堂裸祭りには雪が必須条件の一つですから・・・。
回廊脇には雪壇にのった巨大な奉納蝋燭(ローソク)のオンパレード。
大ローソクは全部で百数十個の数です。 不思議な眺めです。
回廊を真直ぐに進むと、左手に“聖徳太子堂”がありますが、このお堂は小さな山門を作り変えたと云う説もあります。 外観は確かに八脚門の山門風です。
回廊を挟んで聖徳太子堂の合い向かいには本日のメイン舞台の毘沙門堂(多門天王堂)。
ど~んと前に突き出した唐破風向拝が印象的な大きなお堂です。
毘沙門堂の前を回廊づたいに行くと、回廊正面に大きな一枚岩を彫り上げた不動明王が見えます。 不動の滝と名付けられています。
雪解けの冷たい岩清水が滴り落ちて、裸祭りの水垢離(みずごり)の準備中。
不動明王下の洗盤池(うがい鉢)は八海山の一つの大岩をくり抜いて作ってあるそうです。
本舞台の毘沙門堂(多門天王堂)では賽銭箱や蜀台を撤去し“裸押合い祭り”の準備が着々と・・・。
毘沙門堂裸祭り福物係りの可愛い巫女さまも用意万端・万事OK!
毘沙門堂の右手境内広場には福餅撒与の雪台が用意されていました。
雪台には人が100名程乗るので、極めて頑丈な圧雪造りです。
後方の赤い屋根が普光寺・本堂になります。
毘沙門堂と本堂を結ぶ回廊の中間には多門天宝蔵があり、参詣客への福物撒与の掛け声がこの屋根上から発せられるのです。
浦佐 普光寺“毘沙門堂はだか押合祭り”の舞台は整いました。
いよいよ、次回からは“毘沙門堂裸押合祭り”開始となります。
2007 03 09(金)記。 前橋市 最高気温12℃。 平年並み。
3月9日 ありがとうの日(サンキュー) 記念切手記念日