キカクブ日誌

熊本県八代市坂本町にある JR肥薩線「さかもと駅」2015年5月の写真です。

張國榮 レスリー・チャン 

2016年04月01日 | ☆旅行─香港
4月1日が来ると、あの日のことを思い出します。
香港のスター、張國榮(レスリー・チャン)が亡くなった日。
2003年のエイプリルフールに飛び込んできたニュース。
SARSの脅威で香港中が皆マスクをしていたころです。
「いくらなんでもひどい冗談・・・」と思ったら、本当の話でした。

亡くなったときレスリーは46歳。
ずっと、お兄さんだと思ってましたが、いつの間にか彼の年齢もこえてしまいました。

今回の香港旅行で、やっぱりレスリーの存在の大きさを感じました。
長洲のカラオケ店で、張國榮の歌が入るとやっぱりすごく盛り上がる。
そこにいる人みんなが歌える。
そんな大スターなんですね。


私がレスリーをちゃんと知ったのは、映画「金枝玉葉」のころだから、1994年です。
その前年、やっとテレビとビデオを買って(それまでテレビなしの生活をしていた)、自宅でレンタルビデオを見まくっていました。最初は、ハリウッドものを見ていたのですが、そのうち見尽くしてしまって、「何かほかに面白い映画はないかな?」と思っていた時に出会ったのが香港映画でした。香港映画は今でもファンが多いですが、当時は本当に面白くて、80年代からの作品をどんどん借りてきて、レンタルビデオ店も10か所くらいメンバーになって、見漁りました。

レスリーを認識した映画「金枝玉葉~君さえいれば」、そしてその次の年の「金玉満堂」のコミカルな演技にファンになり、当時はまっていた韓国旅行の最中にも、ビデオパンに行って、一人でレスリーの出てるビデオを一日中見てたりしたこともありました。


映画の方面では、ハリウッドもの→香港映画ときて、レスリーのファンになるわけなんですが、もうひとつ音楽方面からもこの映画にたどり着くラインがありました。この辺がもう運命的かなと思うわけなんですけど。

私は10代のころからいわゆる洋楽、特にアメリカンロックが好きでした。青春のスターが「ジョンメレンキャンプ」なのは何度かこのブログに書いています。で、80年代~90年代の前半は、そういうロッカーたちの来日公演なんかにもせっせと出かけていたものですが、だんだん洋楽シーンが面白くなくなった…と感じ始めました。90年代に入って、欧米の音楽がラップとかサンプリングとかが台頭してきて、新譜を追いかけるのをやめたんです。最後に買った新譜が、フーティー&ザブロウフィッシュでした。1994年ですね。

それで、しばらくはCDショップに行くと「ワールドミュージック」のコーナーをウロウロし、試聴し、好みに合う音楽がないか探していました。そして、そこで出会ったのがシンガポールのディック・リーでした。
ディック・リーの分かり易い、耳になじむ音楽。アジアの懐メロなんかを巧みに取り込んで新しくする手法なんかにいっぺんに虜になり、まだ見ぬアジア各国の音楽への扉が開かれたようで、一気にCDを10枚くらい買い揃え、ファンクラブにも入り(はじめて誰かのファンクラブというものに入りました!)、コンサートも行きました。ディックの音楽は彼自身がシンガポール人としてのアイデンティティーを探るのがテーマだったということもあり、私にとっても欧米の音楽ばかり聴いていた自分の根っこを見直す機会となり、急速にアジアに目が向いていくのです。


そして、そのディック・リーが香港映画のための音楽を作りました。
それが「金枝玉葉~君さえいれば」で、ディックの作った主題歌をレスリーが歌ったのでした。

こういうきかけで「金枝玉葉~君さえいれば」を公開時に見に行くことになり、そこで、レスリーをはっきり認識し、それから出演作を追うようになります。


実をいうと、今、大ファンになっている陳昇を知ったのも、映画「金枝玉葉」でした。
この映画のサントラに陳昇の歌が入ってたのです。
よく台湾の人に「なんで陳昇のファンになったの?」と聞かれましたが、「金枝玉葉のサントラで」と説明するとみんなすんなり納得してくれました。日本人が陳昇のファンになるのは不可解でも、張國榮のファンになるというのは、有りそうなことだというわけですね。

ちなみに「金枝玉葉」というのは、「ローマの休日」の香港公開時のタイトルだったとか。
1994年~1997年の私の環境はめまぐるしいものでした。
韓国に行ってイスンファンを知ったのも1995年だし。とにかく、アジアのものに目が向いて、旅行も音楽も映画も言葉もすべてが新鮮で、新しいものを知るのが楽しくてしょうがありませんでした。


で、レスリーの話に戻りますが、1993年の映画「さらばわが愛」で芸能界復帰(一時引退していた)したあと、アイドルではなく、アーチストとして認められるようになり、日本でも人気がどんどん急上昇していたので、1997年には来日ツアーがありました。私も、東京公演を1月に2回、6月に2回の計4回見に行きました。初回の時は、そりゃあドキドキしたものです。1997年は香港返還の年でもあり、とにかく香港に関することがあちこちで大きく熱く取り上げられていました。

狂ったように香港映画を見ていたあの頃(だいたい一日平均1本は見てました)レスリーの出演作も見尽くしていました。
コンサートでの魅力全開なところも堪能しました。
4回目のコンサートを見終えた時、「これで卒業だな」と感じました。
ほんとうにお腹いっぱいになり、大満足し、「卒業」という言葉が自然に頭に浮かびました。

日本でのレスリー人気はそれからもどんどん盛り上がり、何度も来日していましたが、私はコンサートには行かなくなりました。たくさん買い集めていたCDや映画のパンフレットやいろいろなものもほとんどヤフオクで(!)手放しました。


46歳で時間を止めてしまったレスリーですが、たくさんの作品の中でいつでも会うことができます。今この世にいないと思うのは寂しいことだけれど、出会えて良かった。いいものを見せてくれてありがとう。


卒業したとはいっても、
やっぱりレスリー好きなんだなぁ。
こんなに熱く語ってしまった・・・。
命日だから、こんなのもいいでしょう。


久しぶりに「白髪魔女伝~キラーウルフ」見ようかな。あのレスリーはとっても良いのです。マンガのような正統派二枚目剣豪を演じていて、昔は恥ずかしかったけど、今なら堪能できる気がする(笑)


これです「白髪魔女伝~キラーウルフ」
相手役は台湾出身、美女の代名詞だったブリジット・リン。

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