ステージおきたま

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『ニシパ 松浦武四郎』NHK、うーん、ちょっとがっかり!

2019-07-16 08:57:49 | テレビ

 北海道150年記念だって言うし、シナリオ、大石静だろ、こりゃ見なけりゃよ、って。おっと、この先、ネタバレあり!だから要注意!

 まず、オープニング、北海道の雪原を行く犬橇、遥か彼方に山々。おお、さすがNHK、金かけてるよ、ロケにもね。ドラマが始まってからも、北海道の自然を巧みに切り取っているシーンが多く、ここいら民放じゃぜったい敵わないね。

 で、お話しの方だ。記念ドラマてして松浦武四郎てのはど正解だ。何度も北海道、樺太を踏査して、精確無比の地図を仕上げ、アイヌたちの生活風習を事細かに伝えた人だ。それも、当時、収奪の対象でしかなかったアイヌに同じ人間として敬意と愛着をもって接し、アイヌとの融和、共存を献策した稀有な人物だ。

 武四郎はその見聞を次々に本として送り出したので、資料としてはかなりのものが残っている。それらを活用しつつ、フィクションとして再構成するてのは、パズルのような楽しみと、空白部分に未知のピースをはめ込む難しさが多々あっただろうな。

 作者の大石は、ここに、アイヌ娘リセとの淡くも狂おしい恋物語をはめ込んだ。そう、異民族間の純愛ものだ。設定や描写は巧みだ。リセは和人の下で働いた経験があり、和人の言葉が喋れる。(上手い!これで、通訳付きの会話の手間が減った。)和人に無理やり犯されて出来た子とともに、以前のアイヌの夫=大切な人・ニシパの家族の一員となって暮らしている。夫は、妻が和人に蹂躙されたことに狂い自死している。ほれほれ、和人はリセ、ひいてはアイヌの憎みきれない敵ってことだ。その大きな隔たりを子どもを介して溶かして行く。うむ、常套手段とは言え、巧みだ。リセは自ら機を繰り、厚司作って武四郎に与え、彼がアイヌのコタン=村に残ることを願うが、武四郎は自らの使命を果たすことを選択し、リセに同行するよう求める。リセはこれを拒絶するのだが、この時の静かな言葉が、この物語の核に繋がって行く。「私はここに住む人。どこへも行かない、ずっとここにいる。」武四郎はリセの名を漢字、「里清」だったかな?で篆刻したペンダント、なんと言ったらいい、日本語で?を別れ際手渡し別れて行く。ここまでが第一幕。その前段にはアイヌの案内人が自らの腕を食いちぎられながらも熊と闘い武四郎を守るというエピソードが組み込まれ、勇敢で誠実なアイヌの気質をさりげなく描くとともに、これがリセの義兄で、リセとの出会いへと導いて行く、これまた巧みな設定だ。

 江戸に帰って、武四郎の見聞記が大評判となる。その中で非道ぶりを告発された松前藩とその御用商人から恨みを買い、刺客に狙われる、なんてサスペンスシーンも盛り込んである。ふふふ、手を代え品を代えして、飽きさせぬようにって算段だ。武四郎は、幕閣への必死の献策が功を奏し、蝦夷地探索方に取りたてられて再度北方へと向かう。捨てたリセとの苦い再会。いや増したアイヌ搾取の惨状を見聞きし、旅を続ける。その山中、松前藩の手のものか?狙撃を受けるも、リセが身代わりとなって果てる。

 と、ここまで来ると、おいおい、ちょっと通俗的に過ぎやしないかい?時代劇じゃありきたりのシーンだぜ、身代わりとなって射られた女を抱き寄せて、アイヌのために尽くすことを誓うとかって。で、そう見え始めると、前のシーンも、なんかどっかで見たようなものばかりなんだよな。勇敢なアイヌが身代わりとなって、熊と闘うとか、異民族の娘との恋物語とか。そうか、上手いなぁと感心しつつも、どこかのめり込めなかったのは、ここに原因があったんだ。はあはあ、こう描けば、見る人は食いつくよね、これって、定番だよな、どれもこれも。大石さん、せっかくだけど、詰まらない!そこそこ評判にはなるだろうけど、無難に過ぎる。ほら、いつも書いてること、観客の見知った世界を描けば受けるって、あの手さ。違うのは、アイヌ、武四郎、っていう彩色の仕方だけ。

 と、やや白けつつ最後まで付き合ったが、ラスト近く、二つの挿話にははっとした。一つは、アイヌとの共存策が退けられ、無念の思いを抱えつつ鬱勃とした日々を過ごす武四郎の見る悪夢。政府の高官たちがアイヌのしゃれこうべを前にその臓腑を食らって酒宴を催している。これにはちょっと意表を突かれた。それと、北海道の名称は、武四郎が命名案を示したということと、その採択された北海道は北加伊道と字を送られていて、加伊とはアイヌ語で住むという意味だったということ。これはいい話しだ。ほら、リサの決別の言葉がここで生きて来る、「私はここに住む人」。武四郎の北に住まう人々への愛が込められている。忘れたくない逸話だ。と、同時に上手い!お見事!!

 でも、最後の最後はいただけなかった。武四郎の意に反し、明治政府のアイヌ政策は、民族の抹殺、完全な同化策で、アイヌの地の収奪と人々への暴圧へと進んて行く。憤懣やるかたない武四郎に代って、江戸で勉学に励んでいたリサの息子、市蔵が名をアイヌ名に戻し、和人とアイヌと架け橋となるべく北の地に旅立っていく。その後ろ姿を頼もしく明るい未来として描いて終わる。

 だが、待てよ。強大な権力と武力が差別と偏見を身にまとい、アイヌの地を根絶やしにしていったことは、周知の事実だ。未だに、日本は単一民族国家だと信じ、アイヌ人など一人もいないと嘯く政治家や似非知識人さえいるという現実は、その民族抹殺がとことん徹底したものであったことを語っている。その弾圧の中に一人の少年を放り込むことが希望であるはずがない。彼の悲惨な運命は目に見えている。

 今年になってようやく、アイヌ新法が成立し、アイヌが先住民であることが認められたのだ。そこには150年に及ぶ迫害と抹殺の歴史が北の大地に埋もれている。その事実から目を背けて、北海道の150年を語ることはできない。その痛恨事を描き切ってこそ、北海道の新しい時代が始められるってことなんじゃないかな。

 ついでに言うなら、アイヌなど獣同然と見做す人たちが大多数の中で、同じ人間として、敬意を持って接すべき文化の持ち主として、いささかの偏見もなく飛び込み、紹介しきれた武四郎という人物の公平な性格はどこから生まれたのか、そこのところが、大いに気になるところなんだよな。未だに、差別の尾っぽを隠し持ってる身としちゃぁな。

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