万葉雑記 色眼鏡 その卅 処女な女の歌を鑑賞する
最初にお詫びいたします。標題がこのようなものになっていますが、ここは万葉集の歌の鑑賞をするブログです。そのため、初めて御来場する御方で、万葉集の歌の鑑賞を目的にしない人には、その御期待に応えられないものとなっていますので、宜しく、お願いいたします。今回は、標題にありますように万葉集での「処女な女」について鑑賞したもので、この「処女」は「をとめ」と訓みます。
さて、「処女な女」についてですが、最初に万葉集で処女と認定された女性をリストアップしたいと思います。以外かと思われるでしょうが、集中で名前が特定出来る女性で処女と認識されている人物はわずかに二人、集歌22の歌の十市皇女ともう一人、菟名日處女(うなひをとめ;葦屋處女や菟原處女での別称有り)だけです。それ以外の女性については名前が特定は出来ませんが、集歌5の歌の讃岐国の海辺の娘たち、集歌53の歌の藤原宮御井謌の娘、集歌81の歌の山邊御井謌の娘たち、集歌2360の歌の娘、集歌2415の歌の石上神宮の娘たち、集歌3084の歌の海辺の娘たち、集歌3243の歌の阿胡の海辺の娘たち、集歌3255の歌の奈良の都の娘など、一般名称のような使い方で八名(グループ)の娘たちが処女と称されています。
一方、年頃の娘を意味する言葉の表記としては万葉集では感嬬(感は当て字、女+感)、未通女、娘子、娘、童女、少女、女、乎等女、遠等、越等賣、尾迹女などがあり、これらは全て訓読万葉集などでの訓みでは「をとめ」です。万葉集の歌の中でのこれらの表記の使用頻度を調べてみますと、漢語表記では未通女を十七首、感嬬を十五首で見ることが出来、他の表記はそれぞれ一、二首です。真仮名表記では乎等女が九首中に見ることが出来、他の表記は一首単独で特別に使われたような表記です。およそ、万葉集中、その歌数上での比較では処女は少数派ですし、逆に少数派であるが故にその女性が処女と特定されたことが特別であったとも推定されます。(注意として、標では「娘子」の言葉が多数、使われていますが、これは調査の対象とはしていません)
なお、先ほどの処女もまた訓読万葉集では「をとめ」と訓みます。従いまして、原文を紹介しない万葉集歌の解説本で、これらの表記の違いを書き分けていない場合、紹介しました「をとめ」の発音に対する多くの表記が「娘女(または娘子や乙女)」などの表記へと統一して、歌を紹介する可能性や危険があります。御承知のように万葉集の歌で表記の書き分けがある場合、そこには作歌者の表記への意図がありますから、それぞれの意味合いは違うと推定するのが現代の正しい万葉集解釈と考えます。つまり、表記を統一した場合、歌の解釈が十分では無い可能性が生じます。
雑談が過ぎました。
ここは万葉集の歌を鑑賞するブログですので、まず、「処女なる女」の歌を紹介しようと思います。以前、紹介しましたが、現在、生活の緊急要請から遠い場所に出稼ぎをしており、手持ちの資料が限られています。そこで万葉集の処女なる女の歌をインターネットから引用させて頂きます。引用先は有名な千人万首からです。(原文付加し、体裁を変更しています)
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
標訓 十市皇女の伊勢神宮に参り赴(おもむ)く時に、波多(はた)の横山の巌(いはほ)を見て、吹黄刀自の作る歌
原文 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手 (1-22)
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川のほとりの神々しい岩々に草が生えないように、変わらずにいてください、いつまでも若い乙女のままで。
また、菟名日處女は多くの長歌、短歌がありますが恣意的に高橋虫麻呂から短歌一首を選び出し、ネットで有名な千人万首の訓読と意訳を紹介します。
原文 葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 (9-1810)
訓読 葦屋の菟原処女(うなひをとめ)の奥つ城(き)を行き来(く)と見れば哭のみし泣かゆ
意訳 葦屋の菟原処女の墓を、往き来のたびに見れば、声を上げて泣かれてならない
この千人万首での意訳を見てみますと、おおむね、校本万葉集が「娘子」へと集約しているものと同じ視線での解釈と想像させられます。同じように参照として伊藤博の萬葉集釋注から集歌22の歌を紹介しますと、
訓読 川の上(うへ)のゆつ岩(いは)群(むら)に草(くさ)生(む)さず常(つね)にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川中の神聖は岩々に草も生えないように、いつも不変であることができたらなあ。そうしたら常(とこ)処女(をとめ)でいられるように。
注意 言葉の解釈として「常処女」は永遠に若く清純なおとめ。
と解釈されています。伊藤氏は十市皇女が子を持つ女性であったために「処女」の意味を性交経験の無い娘の意味ではなく、清純なおとめと解釈しているようです。しかしながら、これは性交経験の有無を基準とする同じ視線上での解釈と考えます。
同様な解釈はインターネットのウィキペディアの十市皇女の解説に見ることが出来ます。
なお、『万葉集』巻1によれば、この際に吹芡刀自(ふふきのとじ:侍女と思われる)が十市の歌を作ったとある。また、前年の10月にも十市皇女が伊勢に赴いたという説もある[1]が、ちょうどそのころ大来皇女が伊勢斎宮となり伊勢へ群行したと日本書紀に書かれていることから、これに同行した可能性がある。
その後、未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日である4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されていた。4月14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際、父の天武天皇が声を出して泣いたという。
そもそも、未亡人であり出産も経験したにもかかわらず、未婚の女性(=処女)でなくてはならない斎宮になぜ選ばれたのか。これについて、乱後7年経って大友皇子の喪が明けることと関係があるとみなす見方もある。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。
この解説では明確に未婚の女性=処女と記しています。また、明治から昭和初期に活躍したマルチタレントの折口信夫氏の解説に「この河のほとりにある、沢山かたまり合うた巌の上には、一本の草も生えていない。何時迄も古めかず、新しう見える。その様に、我が皇女も、齋宮になってお下りだから、いつまでも年とらず、処女で入らせられることでありたいものだ」と云う意訳文があるそうです。これらの意味するところは処女の言葉とは性交経験の無い女性と推定されます。これが標準的な解釈であり、理解なのでしょう。
ここで、話題を変えたいと思います。
現代日本語に「窓際」と云う言葉があります。私的な話ですが、この言葉は私にとって一生、忘れられない言葉です。ただ、御存じのように「窓際」と云う言葉本来には、余剰人員とか、退職勧奨対象者のような意味合いは有りませんでした。雑誌のキャッチコピーであった「窓際族」の言葉が広く一般に認知され、その新たな意味合いが加わって、現代語としての「窓際」と云う言葉が出来ました。例文として「リゾートホテルの窓際の席」と云うのが古いスタイルでしょう。どちらかと云うと「あの人は窓際なの」と云う使い方が今日的ではないでしょうか。
現代はカタカナ日本語、つまり、造語が溢れている時代です。これを日本語の乱れと嘆く人もいます。ところが、現代より格段に造語が溢れた時代がありました。それが明治初期から中期にかけてです。西洋文明と本格的に接し、その文明・文化を吸収する時、それを紹介する言葉が必要でした。ただ、現代で日本語の乱れと嘆く人が失念していることに、明治期に創られた言葉は漢字表記でした。当時の人々の言語表記のベースとなるものは漢語・漢文でしたから造語が共通認識となる言葉であるがためには漢字表記が必要でした。一方、現代日本では漢語・漢文が言語表記のベースとなる人は少数派であって、逆に英語がベースとなる人が多数派でしょう。つまり、今、創られる言葉はカタカナ表記を選択せざるを得ないのです。これを日本語の乱れと云うかというと、当然、違います。そのように考える人は揺れ動く時代に生きていない人です。その発想と意見は文化的交流と進歩を否定した時だけに成り立つ感情です。
明治時代、日本は西洋文明と本格的に接しました。一方、西洋もまた日本と云う国に接しました。例として、その時、西洋にとって日本はvirgin countryでありましたし、その国土の多くはvirgin forestで覆われていると紹介されたようです。幕末以前にこのvirginと云う英語に相対する翻訳語はありませんでした。そこで明治時代人はthe Virgin, Mary, the mother of Christやpureとかfirstなどの意味を参照にvirginと云う英語に対して処女という造語(訳語)を作りました。つまり、この時、virgin countryが未開地でなく処女地となり、virgin forestが原生林でなく処女林と云う名称が与えられたのです。
この処女という言葉は江戸期にもありました。漢語としては読んで字の如く、「所に居る女」です。つまり、実家に暮らす女の意味です。当時、女性は適齢期になれば婚姻して夫の家に入るのが社会の認識でしたから、社会通念として「所に居る女」なる言葉、処女は未婚女性の意味を持つことになります。先の「窓際」と同じです。そして、儒教の解釈と男の願望から女性は夫以外の男性とは性交渉をしないとの迷信が生まれ、そこから未婚女性は性交渉をしたことがないとの付随した意味が生まれました。これをインターネットで調べますと、
漢語の「処女」の「処」は「居る」の意味であり、本来は「結婚前で実家に居る女性」という意味であった。当時の中国の社会通念として当然ながら処女は「性交の経験のない女性」という意味にもなるが、こちらは引伸義である。「性交の経験がない」ことを表わす言葉として「童貞」があった。童貞は、本来は男女の区別なく使う言葉である。
・・中略・・
漢文では、上述の「処女」に対し、男性の場合の言葉は「処士」であって「童貞」ではない。処士とは「仕官前で実家に居る男性」の意である。これに対し「童貞」とは男女にかかわらず「性交の経験がない」ことをいい、結婚や仕官とは関係がない。
とあります。
万葉集の歌は明治以降に出来た歌集ではありません。つまり、明治時代の造語または付加された意味を持つ「処女」の理解で万葉集の歌を解釈してはいけないのです。処士と同じ処女として解釈しなければいけないのです。
ここで重要な事を思い出して下さい。万葉集の時代は妻問い婚で夫なる男は女の家に婿入りします。この場合、家産は産まれて来る娘が継ぎます。武家社会以降の一所懸命の時代は武力を持つ者だけが家産を保全維持することが出来ました。つまり、必然的に男から男へと家産が引き継がれます。しかし、万葉時代はまだ母系氏族社会が色濃く残っていますから、場合により処女が家督相続者となります。つまり、江戸期以降に処女に性交をしたことが無い娘との意味が付け加えられたとの裏返しに、万葉時代では漢語の「処女」に家督を相続する娘とか一族を束ねとなる女(刀自)の候補者のような意味が加わっていた可能性があります。
古事記で例を採りますと、神武天皇の皇后となる伊須氣余理比賣が他の六人の娘たちを率いて高佐士の野を行く風景です。神武天皇はその伊須氣余理比賣に求婚として家と名を確認します。雄略天皇とその皇后となる若日下部王との出会いの場面もまた同じです。古代には娘の背景にはその娘が属する氏族がありますから、もし、娘が「処女」であり、その娘と婚姻する場合、婚姻する男が有力者であれば処女が所属または後に刀自として引率することになる一族や氏族は、必然的にその男の支配下に入ることを意味します。
少し、雑談が過ぎたようです。しかしながら、万葉の時代に「処女」と云う言葉に性交経験の有無にかかわるイメージが無いとすると、先の十市皇女へ歌で使われる「常処女」とはどのような意味があるのでしょうか。伊藤博氏は萬葉集釋注で歌を奉げた吹芡刀自の人物像を、次のように推定されています。
高貴な女性に付けられた女たちは、一様にしっかりした人びとであったはずで、そういう女たちを代表してこうした呪歌を詠んだ吹芡刀自は、おそらく四十歳を超えていたであろう。
十市皇女や吹芡刀自が生きた天武天皇の時代、女性三十歳は老女と認識するような区切りの年だったようで、三十歳を超えた女性は髪結いや乗馬法など宮中女官が守るべき服装規定などの適用除外として扱われていました。この吹芡刀自の年齢を四十歳を超えるような女性と考えますと、天武天皇の時代では老女の域に入るわけです。十市皇女と吹芡刀自との間に長い年月の関係があったとしますと、伊勢国への旅は飛鳥から大津へと王宮が遷った時以来の旅となります。そうした時、吹芡刀自が己の年齢を踏まえた時、あとどれほどの間、十市皇女に仕えることが出来るのかとの感慨が生まれたとしても不思議ではないのではないでしょうか。つまり、この常処女とは常久しい女主人と云う意味合いの方が強いと考えます。
私訳はその視線に立って鑑賞したものです。およそ、日本古来の万葉集の鑑賞に西洋流の聖処女伝説は不要なものと考えます。
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹芡刀自作謌
標訓 十市皇女の、伊勢の神の宮に参(まゐ)赴(おもむ)きし時に、波多の横山の巌を見て吹芡(ふふきの)刀自(とじ)の作れる謌
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河し上(へ)のゆつ磐(いは)群(むら)に草生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
私訳 流れる川の磐に草が生えないのと同じで、これからも雑念が生じないようにずっと一生懸命にお側でお仕えしたいので私の十市皇女であってほしい
一方、菟名日處女(葦屋處女や菟原處女)は兵庫県芦屋地方の豪族の娘で、実家で暮らす中、二人の男に妻問いされる関係にありました。この二人の男に挟まれる関係を苦にし、娘は自殺し、二人の男もまたそれぞれ娘を追うように自殺します。これが菟名日處女の伝説で、この伝説の下、多くの歌が詠われました。ここでの処女の意味は、明らかに家に居る娘であって、性交をしたことが無いという意味ではありません。
みなさんの思いに「では、万葉集の時代、性交をしたことがない若い娘をどのように称したのか」と云う疑問が生じたと思います。実は、万葉集では、そのような娘を未通女や童女と表記しました。つまり、万葉集の原文の文字を読んで字の如く、男性経験の無い娘は未通女であり、まだ、そのような年齢に満たない娘は童女です。一方、男性経験の有無に関わらず家に居る娘や家付きの女性は処女なのです。そこが万葉集の歌は漢語と音を借りた真仮名で表記されている特性です。その表記には作歌者の意図がきちんと示されています。そのため原文表記を伴わない訓読万葉集だけでは万葉集は鑑賞出来ません。問題は一部の訓読万葉集ではこの区分を無視して、表記の統一を行っているものがあることや現代語から古語を解釈しようとする態度です。そのため、処女なる女の歌を解釈することが出来なくなってしまいました。
参考として男性経験の無い娘である未通女の歌を、少し、紹介します。集歌501の歌は石上神宮での神事の風景を詠ったものです。神事で袖振りの舞を舞う娘たちは、現在で云う早乙女です。次の集歌1244の歌の娘は放髪(おかっぱ)姿ですから、現在では十一、二歳ぐらいの女の子を想像すればいいと思います。まだ、初潮前で裳着の儀式も迎えてはいません。三首目の集歌2351の歌は娘が腰巻祝いをするときの祝い歌です。ちょうど、この日、娘は女へと公の導きで羽化します。ここらあたりの事情は、弊ブログ「初夜の儀」を参照下さい。
集歌501 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
訓読 未通女等(をとめら)し袖布留山の瑞垣(みずかき)し久しき時ゆ思ひき吾は
私訳 未通女(おとめ)たちが霊寄せの袖を振る布留山の瑞垣の久しい時よ。昔を思い出したよ。私は。
集歌1244 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當将見
訓読 未通女(をとめ)らし放(はなり)し髪を木綿(ゆふ)し山雲な蒙(おほ)ふな家しあたり見む
私訳 未通女(おとめ)たちがお下げ髪を結う、その言葉のひびきのような、木綿を垂らす山に、雲よ覆うな。恋人の家の辺りを見つめたい。
集歌2351 新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室(にひむろ)し壁草刈りしに坐し給はね 草し如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)しまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈りに御出で下さい。刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気の召すままに。
参考知識として、次に紹介する集歌1512の歌は大津皇子の御歌とされる未通女の言葉を取り入れた歌です。ただ、歌の表記には少し違和感があります。
本来ですと発音の「も」には「母」の方が相応しいのですが「毛」の方の真仮名を使っています。未通女がどのような娘かと思う時、「毛無」とか、「毛不定」という表記はどうなのでしょうか。毛不定からは毛がまばらと云う意味が取れますし、毛無は読んで字の如くです。これは、今まで説明しました処女なる女の歌と云う視線から想像しますと、御歌と云うより宴会での良く出来たバレ歌です。もし、皇子の女性への好みが歌に出ているとしたら、それは大和氏族の風習ではありません。違反です。(弊ブログ「初夜の儀」で未通女と娘子との違いをご確認ください)
大津皇子御謌一首
標訓 大津皇子の御謌(おほみうた)一首
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
訓読 経(たて)もなく緯(よこ)も定めず未通女(をとめ)らし織る黄葉(もみぢは)に霜な降りそね
私訳 どれが縦糸、どれが横糸ということを定めずに天の乙女たちが織り成す色取り取りの黄葉の葉を、白一色に隠す霜よ降らないでくれ
最後に話題提供として、現在の万葉集の歌の解釈では童女、未通女、娘子、処女などの漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みを与えています。異なる漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みですが、これは大和言葉の語彙不足を補うために漢字が持つ表示文字の性質を用いて、作歌者が歌で詠う女性の区分を示したものと解釈されています。逆に万葉集の漢字表記の童女や未通女に「をとめ」の訓が与えられているから「をとめ」とは男性経験の無い女性と解説するのは本末転倒です。ここでは、「逆も真なり」とはなりません。
もう少し。「をとめ」の語源を考えますと、「をとめ」や「をとこ」の「をと」の言葉は若返ると云う意味を持つ言葉である「をつ」が関連語と推定されています。言葉として「をとめ」は「をと+め」であり、「をとこ」は「をと+こ」とその語源が推定されていて、「め」は女性一般を意味し、「こ」は「彦(ひこ)」で代表されるように男性一般を意味すると解釈されています。つまり、「をとめ」や「をとこ」は生殖能力=子を作る能力で区分された言葉と思われます。これとは別に古代では女性一般を「をみな」と称していたようですので、「をとめ」と「をみな」とは対象と性別での人の区分がほぼ重なる言葉だったと思われます。ちなみに「をみな」は大切なものや小さいものを意味する接頭語「を」+女性一般を意味する「み」+相手を意味する「な」で出来た言葉のようで、対立語では男性を指す「をぐな」があります。言葉の歴史では「をとめ」と「をとこ」、「をみな」と「をぐな」の組み合わせですが、それが次第に「をとめ」と「をぐな」、「をみな」と「をとこ」の組み合わせに変わり、「をみな」が「おんな」、「をとこ」が「おとこ」へと変わっています。一方の「をとめ」は「おとめ=乙女」、「をぐな」は「おぐな=童男」となりました。
古代では成人した者だけを人と認識していたと云う説があります。場合によっては、古代、成人前の童女や童男は性別を区分すること無く、「わらわ」とか「よちこ」と呼ばれていたかもしれません。一方、可能性として集歌3871の角嶋の歌から想像して未通女には「わかめ」の訓みがあるかもしれません。
今回はとりとめの無い話となりました。反省するところです。ただ、言語学とか、万葉集の歌の鑑賞を説明するものの根拠をクロスオーバー的に調べますと、通説や学会で信じられているのが、相当いい加減なものであることが判ります。特に通説での十市皇女の人物像への理解は、いけません。
最初にお詫びいたします。標題がこのようなものになっていますが、ここは万葉集の歌の鑑賞をするブログです。そのため、初めて御来場する御方で、万葉集の歌の鑑賞を目的にしない人には、その御期待に応えられないものとなっていますので、宜しく、お願いいたします。今回は、標題にありますように万葉集での「処女な女」について鑑賞したもので、この「処女」は「をとめ」と訓みます。
さて、「処女な女」についてですが、最初に万葉集で処女と認定された女性をリストアップしたいと思います。以外かと思われるでしょうが、集中で名前が特定出来る女性で処女と認識されている人物はわずかに二人、集歌22の歌の十市皇女ともう一人、菟名日處女(うなひをとめ;葦屋處女や菟原處女での別称有り)だけです。それ以外の女性については名前が特定は出来ませんが、集歌5の歌の讃岐国の海辺の娘たち、集歌53の歌の藤原宮御井謌の娘、集歌81の歌の山邊御井謌の娘たち、集歌2360の歌の娘、集歌2415の歌の石上神宮の娘たち、集歌3084の歌の海辺の娘たち、集歌3243の歌の阿胡の海辺の娘たち、集歌3255の歌の奈良の都の娘など、一般名称のような使い方で八名(グループ)の娘たちが処女と称されています。
一方、年頃の娘を意味する言葉の表記としては万葉集では感嬬(感は当て字、女+感)、未通女、娘子、娘、童女、少女、女、乎等女、遠等、越等賣、尾迹女などがあり、これらは全て訓読万葉集などでの訓みでは「をとめ」です。万葉集の歌の中でのこれらの表記の使用頻度を調べてみますと、漢語表記では未通女を十七首、感嬬を十五首で見ることが出来、他の表記はそれぞれ一、二首です。真仮名表記では乎等女が九首中に見ることが出来、他の表記は一首単独で特別に使われたような表記です。およそ、万葉集中、その歌数上での比較では処女は少数派ですし、逆に少数派であるが故にその女性が処女と特定されたことが特別であったとも推定されます。(注意として、標では「娘子」の言葉が多数、使われていますが、これは調査の対象とはしていません)
なお、先ほどの処女もまた訓読万葉集では「をとめ」と訓みます。従いまして、原文を紹介しない万葉集歌の解説本で、これらの表記の違いを書き分けていない場合、紹介しました「をとめ」の発音に対する多くの表記が「娘女(または娘子や乙女)」などの表記へと統一して、歌を紹介する可能性や危険があります。御承知のように万葉集の歌で表記の書き分けがある場合、そこには作歌者の表記への意図がありますから、それぞれの意味合いは違うと推定するのが現代の正しい万葉集解釈と考えます。つまり、表記を統一した場合、歌の解釈が十分では無い可能性が生じます。
雑談が過ぎました。
ここは万葉集の歌を鑑賞するブログですので、まず、「処女なる女」の歌を紹介しようと思います。以前、紹介しましたが、現在、生活の緊急要請から遠い場所に出稼ぎをしており、手持ちの資料が限られています。そこで万葉集の処女なる女の歌をインターネットから引用させて頂きます。引用先は有名な千人万首からです。(原文付加し、体裁を変更しています)
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹黄刀自作謌
標訓 十市皇女の伊勢神宮に参り赴(おもむ)く時に、波多(はた)の横山の巌(いはほ)を見て、吹黄刀自の作る歌
原文 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手 (1-22)
訓読 河の上(へ)のゆつ磐群(いはむら)に草むさず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川のほとりの神々しい岩々に草が生えないように、変わらずにいてください、いつまでも若い乙女のままで。
また、菟名日處女は多くの長歌、短歌がありますが恣意的に高橋虫麻呂から短歌一首を選び出し、ネットで有名な千人万首の訓読と意訳を紹介します。
原文 葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 (9-1810)
訓読 葦屋の菟原処女(うなひをとめ)の奥つ城(き)を行き来(く)と見れば哭のみし泣かゆ
意訳 葦屋の菟原処女の墓を、往き来のたびに見れば、声を上げて泣かれてならない
この千人万首での意訳を見てみますと、おおむね、校本万葉集が「娘子」へと集約しているものと同じ視線での解釈と想像させられます。同じように参照として伊藤博の萬葉集釋注から集歌22の歌を紹介しますと、
訓読 川の上(うへ)のゆつ岩(いは)群(むら)に草(くさ)生(む)さず常(つね)にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
意訳 川中の神聖は岩々に草も生えないように、いつも不変であることができたらなあ。そうしたら常(とこ)処女(をとめ)でいられるように。
注意 言葉の解釈として「常処女」は永遠に若く清純なおとめ。
と解釈されています。伊藤氏は十市皇女が子を持つ女性であったために「処女」の意味を性交経験の無い娘の意味ではなく、清純なおとめと解釈しているようです。しかしながら、これは性交経験の有無を基準とする同じ視線上での解釈と考えます。
同様な解釈はインターネットのウィキペディアの十市皇女の解説に見ることが出来ます。
なお、『万葉集』巻1によれば、この際に吹芡刀自(ふふきのとじ:侍女と思われる)が十市の歌を作ったとある。また、前年の10月にも十市皇女が伊勢に赴いたという説もある[1]が、ちょうどそのころ大来皇女が伊勢斎宮となり伊勢へ群行したと日本書紀に書かれていることから、これに同行した可能性がある。
その後、未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮の斎宮となることが決定するが、天武天皇7年(678年)、まさに出立の当日である4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されていた。4月14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際、父の天武天皇が声を出して泣いたという。
そもそも、未亡人であり出産も経験したにもかかわらず、未婚の女性(=処女)でなくてはならない斎宮になぜ選ばれたのか。これについて、乱後7年経って大友皇子の喪が明けることと関係があるとみなす見方もある。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。
この解説では明確に未婚の女性=処女と記しています。また、明治から昭和初期に活躍したマルチタレントの折口信夫氏の解説に「この河のほとりにある、沢山かたまり合うた巌の上には、一本の草も生えていない。何時迄も古めかず、新しう見える。その様に、我が皇女も、齋宮になってお下りだから、いつまでも年とらず、処女で入らせられることでありたいものだ」と云う意訳文があるそうです。これらの意味するところは処女の言葉とは性交経験の無い女性と推定されます。これが標準的な解釈であり、理解なのでしょう。
ここで、話題を変えたいと思います。
現代日本語に「窓際」と云う言葉があります。私的な話ですが、この言葉は私にとって一生、忘れられない言葉です。ただ、御存じのように「窓際」と云う言葉本来には、余剰人員とか、退職勧奨対象者のような意味合いは有りませんでした。雑誌のキャッチコピーであった「窓際族」の言葉が広く一般に認知され、その新たな意味合いが加わって、現代語としての「窓際」と云う言葉が出来ました。例文として「リゾートホテルの窓際の席」と云うのが古いスタイルでしょう。どちらかと云うと「あの人は窓際なの」と云う使い方が今日的ではないでしょうか。
現代はカタカナ日本語、つまり、造語が溢れている時代です。これを日本語の乱れと嘆く人もいます。ところが、現代より格段に造語が溢れた時代がありました。それが明治初期から中期にかけてです。西洋文明と本格的に接し、その文明・文化を吸収する時、それを紹介する言葉が必要でした。ただ、現代で日本語の乱れと嘆く人が失念していることに、明治期に創られた言葉は漢字表記でした。当時の人々の言語表記のベースとなるものは漢語・漢文でしたから造語が共通認識となる言葉であるがためには漢字表記が必要でした。一方、現代日本では漢語・漢文が言語表記のベースとなる人は少数派であって、逆に英語がベースとなる人が多数派でしょう。つまり、今、創られる言葉はカタカナ表記を選択せざるを得ないのです。これを日本語の乱れと云うかというと、当然、違います。そのように考える人は揺れ動く時代に生きていない人です。その発想と意見は文化的交流と進歩を否定した時だけに成り立つ感情です。
明治時代、日本は西洋文明と本格的に接しました。一方、西洋もまた日本と云う国に接しました。例として、その時、西洋にとって日本はvirgin countryでありましたし、その国土の多くはvirgin forestで覆われていると紹介されたようです。幕末以前にこのvirginと云う英語に相対する翻訳語はありませんでした。そこで明治時代人はthe Virgin, Mary, the mother of Christやpureとかfirstなどの意味を参照にvirginと云う英語に対して処女という造語(訳語)を作りました。つまり、この時、virgin countryが未開地でなく処女地となり、virgin forestが原生林でなく処女林と云う名称が与えられたのです。
この処女という言葉は江戸期にもありました。漢語としては読んで字の如く、「所に居る女」です。つまり、実家に暮らす女の意味です。当時、女性は適齢期になれば婚姻して夫の家に入るのが社会の認識でしたから、社会通念として「所に居る女」なる言葉、処女は未婚女性の意味を持つことになります。先の「窓際」と同じです。そして、儒教の解釈と男の願望から女性は夫以外の男性とは性交渉をしないとの迷信が生まれ、そこから未婚女性は性交渉をしたことがないとの付随した意味が生まれました。これをインターネットで調べますと、
漢語の「処女」の「処」は「居る」の意味であり、本来は「結婚前で実家に居る女性」という意味であった。当時の中国の社会通念として当然ながら処女は「性交の経験のない女性」という意味にもなるが、こちらは引伸義である。「性交の経験がない」ことを表わす言葉として「童貞」があった。童貞は、本来は男女の区別なく使う言葉である。
・・中略・・
漢文では、上述の「処女」に対し、男性の場合の言葉は「処士」であって「童貞」ではない。処士とは「仕官前で実家に居る男性」の意である。これに対し「童貞」とは男女にかかわらず「性交の経験がない」ことをいい、結婚や仕官とは関係がない。
とあります。
万葉集の歌は明治以降に出来た歌集ではありません。つまり、明治時代の造語または付加された意味を持つ「処女」の理解で万葉集の歌を解釈してはいけないのです。処士と同じ処女として解釈しなければいけないのです。
ここで重要な事を思い出して下さい。万葉集の時代は妻問い婚で夫なる男は女の家に婿入りします。この場合、家産は産まれて来る娘が継ぎます。武家社会以降の一所懸命の時代は武力を持つ者だけが家産を保全維持することが出来ました。つまり、必然的に男から男へと家産が引き継がれます。しかし、万葉時代はまだ母系氏族社会が色濃く残っていますから、場合により処女が家督相続者となります。つまり、江戸期以降に処女に性交をしたことが無い娘との意味が付け加えられたとの裏返しに、万葉時代では漢語の「処女」に家督を相続する娘とか一族を束ねとなる女(刀自)の候補者のような意味が加わっていた可能性があります。
古事記で例を採りますと、神武天皇の皇后となる伊須氣余理比賣が他の六人の娘たちを率いて高佐士の野を行く風景です。神武天皇はその伊須氣余理比賣に求婚として家と名を確認します。雄略天皇とその皇后となる若日下部王との出会いの場面もまた同じです。古代には娘の背景にはその娘が属する氏族がありますから、もし、娘が「処女」であり、その娘と婚姻する場合、婚姻する男が有力者であれば処女が所属または後に刀自として引率することになる一族や氏族は、必然的にその男の支配下に入ることを意味します。
少し、雑談が過ぎたようです。しかしながら、万葉の時代に「処女」と云う言葉に性交経験の有無にかかわるイメージが無いとすると、先の十市皇女へ歌で使われる「常処女」とはどのような意味があるのでしょうか。伊藤博氏は萬葉集釋注で歌を奉げた吹芡刀自の人物像を、次のように推定されています。
高貴な女性に付けられた女たちは、一様にしっかりした人びとであったはずで、そういう女たちを代表してこうした呪歌を詠んだ吹芡刀自は、おそらく四十歳を超えていたであろう。
十市皇女や吹芡刀自が生きた天武天皇の時代、女性三十歳は老女と認識するような区切りの年だったようで、三十歳を超えた女性は髪結いや乗馬法など宮中女官が守るべき服装規定などの適用除外として扱われていました。この吹芡刀自の年齢を四十歳を超えるような女性と考えますと、天武天皇の時代では老女の域に入るわけです。十市皇女と吹芡刀自との間に長い年月の関係があったとしますと、伊勢国への旅は飛鳥から大津へと王宮が遷った時以来の旅となります。そうした時、吹芡刀自が己の年齢を踏まえた時、あとどれほどの間、十市皇女に仕えることが出来るのかとの感慨が生まれたとしても不思議ではないのではないでしょうか。つまり、この常処女とは常久しい女主人と云う意味合いの方が強いと考えます。
私訳はその視線に立って鑑賞したものです。およそ、日本古来の万葉集の鑑賞に西洋流の聖処女伝説は不要なものと考えます。
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌吹芡刀自作謌
標訓 十市皇女の、伊勢の神の宮に参(まゐ)赴(おもむ)きし時に、波多の横山の巌を見て吹芡(ふふきの)刀自(とじ)の作れる謌
集歌22 河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手
訓読 河し上(へ)のゆつ磐(いは)群(むら)に草生(む)さず常にもがもな常(とこ)処女(をとめ)にて
私訳 流れる川の磐に草が生えないのと同じで、これからも雑念が生じないようにずっと一生懸命にお側でお仕えしたいので私の十市皇女であってほしい
一方、菟名日處女(葦屋處女や菟原處女)は兵庫県芦屋地方の豪族の娘で、実家で暮らす中、二人の男に妻問いされる関係にありました。この二人の男に挟まれる関係を苦にし、娘は自殺し、二人の男もまたそれぞれ娘を追うように自殺します。これが菟名日處女の伝説で、この伝説の下、多くの歌が詠われました。ここでの処女の意味は、明らかに家に居る娘であって、性交をしたことが無いという意味ではありません。
みなさんの思いに「では、万葉集の時代、性交をしたことがない若い娘をどのように称したのか」と云う疑問が生じたと思います。実は、万葉集では、そのような娘を未通女や童女と表記しました。つまり、万葉集の原文の文字を読んで字の如く、男性経験の無い娘は未通女であり、まだ、そのような年齢に満たない娘は童女です。一方、男性経験の有無に関わらず家に居る娘や家付きの女性は処女なのです。そこが万葉集の歌は漢語と音を借りた真仮名で表記されている特性です。その表記には作歌者の意図がきちんと示されています。そのため原文表記を伴わない訓読万葉集だけでは万葉集は鑑賞出来ません。問題は一部の訓読万葉集ではこの区分を無視して、表記の統一を行っているものがあることや現代語から古語を解釈しようとする態度です。そのため、処女なる女の歌を解釈することが出来なくなってしまいました。
参考として男性経験の無い娘である未通女の歌を、少し、紹介します。集歌501の歌は石上神宮での神事の風景を詠ったものです。神事で袖振りの舞を舞う娘たちは、現在で云う早乙女です。次の集歌1244の歌の娘は放髪(おかっぱ)姿ですから、現在では十一、二歳ぐらいの女の子を想像すればいいと思います。まだ、初潮前で裳着の儀式も迎えてはいません。三首目の集歌2351の歌は娘が腰巻祝いをするときの祝い歌です。ちょうど、この日、娘は女へと公の導きで羽化します。ここらあたりの事情は、弊ブログ「初夜の儀」を参照下さい。
集歌501 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
訓読 未通女等(をとめら)し袖布留山の瑞垣(みずかき)し久しき時ゆ思ひき吾は
私訳 未通女(おとめ)たちが霊寄せの袖を振る布留山の瑞垣の久しい時よ。昔を思い出したよ。私は。
集歌1244 未通女等之 放髪乎 木綿山 雲莫蒙 家當将見
訓読 未通女(をとめ)らし放(はなり)し髪を木綿(ゆふ)し山雲な蒙(おほ)ふな家しあたり見む
私訳 未通女(おとめ)たちがお下げ髪を結う、その言葉のひびきのような、木綿を垂らす山に、雲よ覆うな。恋人の家の辺りを見つめたい。
集歌2351 新室 壁草苅迩 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室(にひむろ)し壁草刈りしに坐し給はね 草し如寄り合ふ未通女(をとめ)は公(きみ)しまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈りに御出で下さい。刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気の召すままに。
参考知識として、次に紹介する集歌1512の歌は大津皇子の御歌とされる未通女の言葉を取り入れた歌です。ただ、歌の表記には少し違和感があります。
本来ですと発音の「も」には「母」の方が相応しいのですが「毛」の方の真仮名を使っています。未通女がどのような娘かと思う時、「毛無」とか、「毛不定」という表記はどうなのでしょうか。毛不定からは毛がまばらと云う意味が取れますし、毛無は読んで字の如くです。これは、今まで説明しました処女なる女の歌と云う視線から想像しますと、御歌と云うより宴会での良く出来たバレ歌です。もし、皇子の女性への好みが歌に出ているとしたら、それは大和氏族の風習ではありません。違反です。(弊ブログ「初夜の儀」で未通女と娘子との違いをご確認ください)
大津皇子御謌一首
標訓 大津皇子の御謌(おほみうた)一首
集歌1512 經毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零
訓読 経(たて)もなく緯(よこ)も定めず未通女(をとめ)らし織る黄葉(もみぢは)に霜な降りそね
私訳 どれが縦糸、どれが横糸ということを定めずに天の乙女たちが織り成す色取り取りの黄葉の葉を、白一色に隠す霜よ降らないでくれ
最後に話題提供として、現在の万葉集の歌の解釈では童女、未通女、娘子、処女などの漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みを与えています。異なる漢字表記に対して同じ「をとめ」の訓みですが、これは大和言葉の語彙不足を補うために漢字が持つ表示文字の性質を用いて、作歌者が歌で詠う女性の区分を示したものと解釈されています。逆に万葉集の漢字表記の童女や未通女に「をとめ」の訓が与えられているから「をとめ」とは男性経験の無い女性と解説するのは本末転倒です。ここでは、「逆も真なり」とはなりません。
もう少し。「をとめ」の語源を考えますと、「をとめ」や「をとこ」の「をと」の言葉は若返ると云う意味を持つ言葉である「をつ」が関連語と推定されています。言葉として「をとめ」は「をと+め」であり、「をとこ」は「をと+こ」とその語源が推定されていて、「め」は女性一般を意味し、「こ」は「彦(ひこ)」で代表されるように男性一般を意味すると解釈されています。つまり、「をとめ」や「をとこ」は生殖能力=子を作る能力で区分された言葉と思われます。これとは別に古代では女性一般を「をみな」と称していたようですので、「をとめ」と「をみな」とは対象と性別での人の区分がほぼ重なる言葉だったと思われます。ちなみに「をみな」は大切なものや小さいものを意味する接頭語「を」+女性一般を意味する「み」+相手を意味する「な」で出来た言葉のようで、対立語では男性を指す「をぐな」があります。言葉の歴史では「をとめ」と「をとこ」、「をみな」と「をぐな」の組み合わせですが、それが次第に「をとめ」と「をぐな」、「をみな」と「をとこ」の組み合わせに変わり、「をみな」が「おんな」、「をとこ」が「おとこ」へと変わっています。一方の「をとめ」は「おとめ=乙女」、「をぐな」は「おぐな=童男」となりました。
古代では成人した者だけを人と認識していたと云う説があります。場合によっては、古代、成人前の童女や童男は性別を区分すること無く、「わらわ」とか「よちこ」と呼ばれていたかもしれません。一方、可能性として集歌3871の角嶋の歌から想像して未通女には「わかめ」の訓みがあるかもしれません。
今回はとりとめの無い話となりました。反省するところです。ただ、言語学とか、万葉集の歌の鑑賞を説明するものの根拠をクロスオーバー的に調べますと、通説や学会で信じられているのが、相当いい加減なものであることが判ります。特に通説での十市皇女の人物像への理解は、いけません。
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