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墨子 巻五 非攻中(原文・読み下し・現代語訳)

2022年06月12日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻五 非攻中(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《非攻中》:原文
子墨子言曰、古者王公大人、為政於國家者、情欲誉之審、賞罰之當、刑政之不過失。是故子墨子曰、古者有語、謀而不得、則以往知来、以見知隱。謀若此、可得而知矣。
今師徒唯毋興起、冬行恐寒、夏行恐暑、此不可以冬夏為者也。春則廃民耕稼樹藝、秋則廃民穫斂。今唯毋廃一時、則百姓飢寒凍餒而死者、不可勝數。今嘗計軍上、竹箭羽旄幄幕、甲盾撥劫、往而靡壞腑爛不反者、不可勝數、又與矛戟戈剣乗車、其往則碎折靡壞而不反者、不可勝數、與其牛馬肥而往、瘠而反、往死亡而不反者、不可勝數、與其涂道之脩遠、糧食輟絕而不継、百姓死者、不可勝數也、與其居處之不安、食飲之不時、飢飽之不節、百姓之道疾病而死者、不可勝數、喪師多不可勝數、喪師盡不可勝計、則是鬼神之喪其主後、亦不可勝數。
國家発政、奪民之用、廃民之利、若此甚衆、然而何為為之。曰、我貪伐勝之名、及得之利、故為之。子墨子言曰、計其所自勝、無所可用也。計其所得、反不如所喪者之多。今攻三里之城、七里之郭、攻此不用鋭、且無殺而徒得此然也。殺人多必數於萬、寡必數於千、然後三里之城、七里之郭、且可得也。今萬乗之國、虛數於千、不勝而入廣衍數於萬、不勝而辟。然則土地者、所有餘也、士民者、所不足也。今盡士民之死、厳下上之患、以争虛城、則是棄所不足、而重所有餘也。為政若此、非國之務者也。
飾攻戦者言曰、南則荊、呉之王、北則齊、晋之君、始封於天下之時、其土地之方、未至有數百里也、人徒之衆、未至有數十萬人也。以攻戦之故、土地之博至有數千里也、人徒之衆至有數百萬人。故當攻戦而不可為也。子墨子言曰、雖四五國則得利焉、猶謂之非行道也。譬若医之薬人之有病者然。今有医於此、和合其祝薬之于天下之有病者而薬之、萬人食此、若医四五人得利焉、猶謂之非行薬也。故孝子不以食其親、忠臣不以食其君。古者封國於天下、尚者以耳之所聞、近者以目之所見、以攻戦亡者、不可勝數。何以知其然也。東方自莒之國者、其為國甚小、閒於大國之閒、不敬事於大、大國亦弗之従而愛利。是以東者越人夾削其壤地、西者齊人兼而有之。計莒之所以亡於齊越之間者、以是攻戦也。雖南者陳、蔡、其所以亡於呉越之閒者、亦以攻戦。雖北者且不一著何、其所以亡於燕、代、胡、貊之閒者、亦以攻戦也。是故子墨子言曰、古者王公大人、情欲得而悪失、欲安而悪危、故當攻戦而不可不非。
飾攻戦者之言曰、彼不能收用彼衆、是故亡。我能收用我衆、以此攻戦於天下、誰敢不賓服哉。子墨子言曰、子雖能收用子之衆、子豈若古者呉闔閭哉。古者呉闔閭教七年、奉甲執兵、奔三百里而舍焉、次注林、出於冥隘之径、戦於柏挙、中楚國而朝宋與及魯。至夫差之身、北而攻齊、舍於汶上、戦於艾陵、大敗齊人而葆之大山、東而攻越、濟三江五湖、而葆之會稽。九夷之國莫不賓服。於是退不能賞孤、施舍群萌、自恃其力、伐其功、誉其智、怠於教、遂築姑蘇之臺、七年不成。及若此、則呉有離罷之心。越王句踐視呉上下不相得、收其衆以復其讐、入北郭、徙大内、圍王宮而呉國以亡。
昔者晋有六将軍、而智伯莫為強焉。計其土地之博、人徒之衆、欲以抗諸侯、以為英名。攻戦之速、故差論其爪牙之士、皆列其舟車之衆、以攻中行氏而有之。以其謀為既已足矣、又攻茲范氏而大敗之、并三家以為一家、而不止、又圍趙襄子於晋陽。及若此、則韓、魏亦相従而謀曰、古者有語、脣亡則歯寒。趙氏朝亡、我夕従之、趙氏夕、亡、我朝従之。詩曰魚水不務、陸将何及乎。是以三主之君、一心戮力辟門除道、奉甲興士、韓、魏自外、趙氏自内、撃智伯大敗之。
是故子墨子言曰、古者有語曰、君子不鏡於水而鏡於人、鏡於水、見面之容、鏡於人、則知吉與凶。今以攻戦為利、則蓋嘗鑒之於智伯之事乎。此其為不吉而凶、既可得而知矣。

字典を使用するときに注意すべき文字
上、指事也。 じょうきょう、ようす、の意あり。
且、又也。 また、の意あり。
中、通、誅 ちゅうする、の意あり。
徒、奴也。 奴婢、奴隷、の意あり。人徒では平民と奴婢の対句
鏡、鑑也 かんがみる、の意あり。


《非攻中》:読み下し
子墨子の言いて曰く、古の王公大人の、政(まつりごと)を國家に為す者は、情(まこと)に誉(ほまれ)を審(つまび)らかにするをなし、賞罰に當(あた)り、刑政に過失をなさずを欲す。是の故に子墨子の曰く、古の者に語(かたり)は有(あ)り、謀(はか)りて而(しかる)に得ざれば、則ち往(おう)を以って来(らい)を知り、見(けん)を以って隱(おん)を知る。謀ること此の若(ごと)きなれば、得て而(すなは)ち知る可(べ)し。
今、師徒(しと)は唯毋(ただ)興起(こうき)し、冬行は寒を恐れ、夏行は暑を恐れる。此れ冬夏を以って為(な)す可(べ)からずものなり。春は則ち民の耕稼(こうか)樹藝(じゅげい)を廃し、秋は則ち民の穫斂(かくれん)を廃す。今、唯毋(ただ)一時を廃すれば、則ち百姓は飢寒(きかん)凍餒(とうたい)して而(しかる)に死する者、勝(あ)へて數(かぞ)ふ可(べ)からず。今、嘗(こころ)みに軍の上(じょう)を計るに、竹箭(ちくせん)羽旄(うぼう)幄幕(あくばく)、甲盾(こうじゅん)撥劫(はつふう)の、往きて而(ま)た靡壞(みへい)腑爛(ふらん)して反(かへ)らざるもの、勝(あ)げて數(かぞ)ふ可からず。又た與(とも)に矛戟(ぼうげき)戈剣(けんけん)乗車(じょうしゃ)、其の往きて則ち碎折(さいせつ)靡壞(ひかい)して而(ま)た反(かへ)らざるもの、勝(あ)へて數(かぞ)ふ可からず。與(とも)に其の牛馬は肥え而して往き、瘠せて而(ま)た反(かへ)り、往きて死亡して而(しかる)に反(かへ)らざるもの、勝(あ)へて數(かぞ)ふ可からず。與(さら)に其の涂道(とどう)は脩遠(しゅうえん)にして、糧食(りょうしょく)輟絶(てつぜつ)して而して継がず、百姓の死する者、勝(あ)げて數(か)ふべからず。與(さら)に其の居處(きょしょ)は不安にして、食飲(しょくいん)は時ならず、飢飽(きほう)は節(せつ)あらず、百姓の道に疾病(しっぺい)して而(しかる)に死する者、勝(あ)げて數(かぞ)ふべからず。師を喪(うしな)ふの多きこと勝(あ)へて數(かぞ)ふ可からず。師を喪(うしな)ひ盡(つく)すこと勝(あ)げて計(かぞ)ふ可からず。則ち是の鬼神の其の主後(しゅご)を喪(うしな)うこと、亦た勝(あ)へて數(かぞ)ふ可(べ)からず。
國家の政(せい)を発し、民の用を奪い、民の利を廃す、若(かくのごと)き此れ甚(はなは)だ衆(おお)し。然らば而(しかる)に何(なに)為(す)れぞ之を為す。曰く、我(おのれ)の勝の名を伐(ほこ)り、及(さら)に利を得るを貪(むさぼ)る。故に之を為す。子墨子の言いて曰く、其の自ら勝つ所を計るに、用ふ可(べ)き所は無し。其の得る所を計るに、反りて喪(うしな)う所の多きに如(し)かず。今、三里の城、七里の郭を攻む。此を攻めるに鋭を用ひず、且(た)だ殺すこと無く而して徒(た)だ得むこと此れ然らむや。人を殺すこと多きは必ず萬を數へ、寡(すくな)きも必ず千を數ふ。然かる後に三里の城、七里の郭、且(た)だ得る可し。今、萬乗の國に、虚は千を數へ、勝たずして而して廣衍(こうえん)に入るは萬を數へ、勝たずして而して辟(ひら)く。然らば則ち土地は、餘り有る所にして、士民は、足らざる所なり。今、士民の死を盡(つく)し、下の上への患(かん)を厳(げん)にし、以って虚城を争ふ。則ち是は足らざる所を棄てて、而して餘り有る所を重(おも)むずるなり。政(まつりごと)を為すの此の若(ごと)きは、國の務(つとめ)に非ざるものなり。
攻戦を飾(かざ)る者の言いて曰く、南は則ち荊、呉の王、北は則ち齊、晋の君、始めて天下に封ぜられし時、其の土地の方(ほう)、未だ數百里は有るに至らず。人徒(じんと)の衆(しゅう)、未だ數十萬人は有るに至らずなり。攻戦の故を以って、土地の博(ひろ)きこと數千里は有るに至り、人徒(じんと)の衆(しゅう)、數百萬人は有るに至れり。故に當に攻戦するも而(しかる)に為す可からずとせむとす。子墨子の言いて曰く、四五國は則ち利を得ると雖(いへど)も、猶之を行道に非ずと謂ふ。譬(たと)へば医薬が人の病の有るものに然(しか)するが若(ごと)き。今、此に医有り、其の祝薬(しゅくやく)を和合(わごう)し、天下の病の有る者に之(い)きて而して之に薬(やく)し、萬人は之を食ふ。若(も)し四五人に医して利を得るとも、猶之を行薬(こうやく)に非ずと謂はむ。故に孝子は以って其の親に食せしめず、忠臣は以って其の君に食せしめず。古(いにしへ)の國を天下に封ぜり、尚(かみ)なる者は耳(じ)の聞く所を以ってし、近き者は目(もく)の見る所を以ってするに、攻戦を以って亡びし者は、勝(あへ)て數ふ可からず。何を以って其の然(しか)るを知るや。東方に自(おのず)から莒(きょ)の國なるもの、其の國(くに)為(た)ること甚だ小、大國の閒(あひだ)に閒(はさ)まれ、大いに敬事(けいじ)せず。大國も亦た之に従つて而(しかる)に愛利せず。是を以って東は越人は其の壤地(じょうち)を夾削(きょうさく)し、西は齊人は兼(あわ)せて而(しかる)に之を有す。莒の之の齊越の間に亡びし所以(ゆえん)のものを計るに、是の攻戦を以ってなり。南は陳、蔡と雖(いへど)も、其の呉越の閒(かん)に亡びし所以(ゆえん)のものは、亦た攻戦を以ってす。北は且(しょ)不一著何(ふとか)と雖(いへど)も、其の燕、代、胡、貊の閒(かん)に亡びし所以(ゆえん)のものは、亦た攻戦を以ってなり。是の故に子墨子の言いて曰く、古(いにしへ)の王公大人は、情(まこと)に得るを欲して而して失ふを悪(にく)み、安きを欲して而して危きを悪(にく)む。故に攻戦の當(ごと)きは而して非(ひ)せざる可(べ)からず。
攻戦を飾(かざ)る者の言いて曰く、彼(か)は彼(か)の衆(しゅう)を収用すること能はず、是の故に亡ぶ。我(おのれ)は能く我(おのれ)の衆(しゅう)を収用す。此を以って天下に攻戦せば、誰か敢て賓(ひん)服(ふく)せざらむや。子墨子の言いて曰く、子(し)は能く子(し)の衆(しゅう)を収用すと雖(いへど)も、子は豈に古(いにしへ)の呉(ご)闔閭(こうりょ)に若(し)かむや。古(いにしへ)の呉闔閭は教ふること七年、甲(こう)を奉じ兵を執(と)り、三百里を奔(はし)りて而して舍(やど)り、注林(ちゅうりん)に次し、冥隘(めいあい)の径(みち)に出で、柏挙(はくきょ)に戦ひ、楚國を中(ちゅう)し而して宋及び魯とを朝(ちょう)せしむ。夫差(ふさ)の身に至りて、北して而して齊を攻め、汶上(もんしょう)に舍(やど)り、艾陵(がいりょう)に戦い、大いに齊人を敗りて而して之を大山に葆(ほう)せしめむ。東して而して越を攻め、三江五湖を濟(わた)り、而して之を會稽(かいけい)に葆(ほう)せしめむ。九夷の國の賓服(ひんふく)せざるは莫(な)し。是に於て退(の)きて孤(こ)を賞し、群萌(ぐんぼう)に施舍(ししゃ)すること能はず、自ら其の力を恃(たの)み、其の功に伐(ほこ)り、其の智を誉(ほ)め、教(おしへ)を怠(おこた)り、遂に姑蘇(こそ)の臺(たい)を築き、七年成らず。此の若(ごと)きに及んで、則ち呉に離罷(りひ)の心有り。越王句踐(こうせん)は呉の上下の相(あい)得(え)ざるを視(み)て、其の衆(しゅう)を収めて以って其の讐(しゅう)を復し、北郭に入り、大内を徙(わた)り、王宮を圍(かこ)み而して呉國は以って亡ぶ。
昔は晋に六将軍有り、而して智伯は焉(これ)より強(きょう)為(た)るは莫(な)し。其の土地は博(ひろ)く、人徒(じんと)の衆(おお)きを計り、以って諸侯に抗すを欲し、以って英名(えいめい)を為(な)さむ。攻戦は速(すみや)かなり、故に其の爪牙(そうが)の士を差論(さろん)し、皆其の舟車の衆(しゅう)を列し、以って中行氏を攻めて而して之を有(たも)つ。其の謀(はかりごと)を以って既已(すで)に足れりと為す。又た茲(ここ)に范(はん)氏を攻めて而して之を大いに敗り、三家を并せ以って一家と為し、而して止まず。又た趙(ちょう)襄子(じょうし)を晋陽に圍(かこ)む。此の若きに及び、則ち韓、魏も亦た相(あひ)従(したが)ひて而して謀(はか)りて曰く、古(いにしへ)に語(ことば)は有り。脣(くちびる)は亡ぶれば則ち歯寒し。趙(ちょう)氏(し)は朝(あした)に亡び、我(われ)は夕(ゆうべ)に之に従はむ。趙氏は夕(ゆうべ)に亡びて、我は朝(あした)に之に従はむ。詩に曰く、魚水(ぎょすい)の務(つと)めざれば、陸(りく)は将た何ぞ及ばむや。是(これ)を以って三主の君、心を一にして力を戮(あは)せ門を辟(ひら)き道を除(のぞ)き、甲(こう)を奉じ士を興(おこ)し、韓、魏は外(そと)自りし、趙氏は内(うち)自りし、智伯を撃ち之を大いに敗る。
是(これ)の故に子墨子の言いて曰く、古(いにしへ)に語(ことば)は有りて曰く、君子は水に鏡(かむが)みずして而して人に鏡(かむが)む。水に鏡(かむが)みれば、面(かほ)の容(かたち)を見、人に鏡(かむが)みれば、則ち吉と凶とを知る。今、攻戦を以って利を為すは、則ち蓋(なむ)ぞ嘗(こころ)みに之を智伯の事に鑒(かむが)みざるか。此れ其の不吉にして而して凶(きょう)為(た)ること、既に得て而して知る可(べ)し。


《非攻中》:現代語訳
子墨子の語って言われたことには、『古代の王公大人が、政治を国家に行う者は、まことに名誉の基準を明確にすることを行い、賞罰にあっては、刑事と政治に過失がないことを願っていた。』と。このことにより、子墨子が言われたことには、『古代の者に語録があり、計画しても結果が得られなければ、既往のことから将来のことを理解し、発見により隠蔽を知る。計画することがこのようであれば、結果を得て、その物事を理解するべきなのだ。』と。
今、軍の動員はしきりに行われ、冬の行軍は寒さを恐れ、夏の行軍は暑さを恐れる。つまり、冬と夏はこのことから行軍は行うべきではない。春の動員は民の耕作や果樹の生業を止め、秋の動員は民の収穫の生業を止める。今、わずかに一季節の生業を止めても、それでも百姓は飢えと寒さに凍えて死ぬものは数えきれないほどだ。今、仮に軍の動員の利を計算してみると、弓矢、旗印や陣幕、鎧や盾・大盾を揃えて出撃しても損耗・破損して持ち返れないものは数えきれない。また、矛や戟、戈や剣、馬曳戦車を揃えて出撃しても砕け折れ損傷して持ち返れないものは数えきれない。さらに、その従軍する牛や馬は肥えた姿で行くが、痩せた姿で返り、また、従軍し死亡して返ってこない牛や馬は数えきれない。さらに、戦場への道程は遥かに遠く、糧食は兵站が途絶えて補給が続かず、従軍する百姓で死亡する者は数えきれない。さらに、百姓たちの故郷での暮らしは不安定で、日々の食事は一定ではなく、端境期の飢えと収穫期の飽食とがあるはずが季節に寄らずに飢えが現れ、百姓が行軍の道中に疾病に遭い死亡する者は数えきれない。軍勢を失う場面の多いことは数えきれなく、軍勢を失い全滅することは数え切れない。そして、里で祀られるはずの鬼神がその祀りを行うはずの神主を失うことは数えきれない。
国家が政令を発して、民の財産を奪い、民の利を無駄にする、このようなことは甚だ多い。そうではあるが、どのような理由で戦争を行うのか。言うことには、『我々の戦勝の名誉を誇り、さらに占領により利を得ることを計画する。その利のために戦争を行う。』と。子墨子の語って言われたことには、『その自分たちが勝ったことの利を確認してみると、利用すべき利点は無い。』と。その戦勝で得るものを確認すると、反って失うことの方の多いことに及ばないだろう。今、三里四方の城、七里四方の城郭を攻めるとする。これを攻撃するに精兵を用いず、それも敵を殺すこともしないで、そのままに得ることが出来るだろうか。人を殺すこと、多い場合は必ず万の数字を数え、少ない場合でも千の数字を数える。その後に三里四方の城、七里四方の城郭を獲得することが出来るだろう。今、戦車の動員力が万ほどの大国の内には、廃城の数は千を数え、戦争に勝たなくても広く地味が肥えた土地への入植が出来るところの数は万を数え、戦争に勝たなくてもその土地を開拓できる。そうであるならば土地はあまり有ることがらで、士や民は不足することがらだ。今、士や民の死を尽くし、下の者が上の者を批判することを厳密に取り締まり、それにより空き城を奪い合う。つまりこのことは、足りないものを捨てて、そして余っているものを大切にすることなのだ。政治を行うことがこのようであれば、それは国が行うべき責務では無いのである。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『南、すなわち荊や呉の王、北、すなわち斉や晋の君が、始めて天下に諸侯として封じられた時、その領地の四方の大きさは、まだ数百里にも達しなかった。人(平民)や徒(農民農奴)の人口は、まだ数十万人にも達しなかった。攻戦の事績により、土地の広さは数千里にも広がり、人徒の人口は数百万人にも達した。このような訳で攻戦をしてはいけないとは決めつけられないのだ。』と。子墨子の語って言われたことには、『四つや五つの国は多分、利を得ると言えても、それでも攻戦は国が行うべき道として取ってはいけないと言わざるを得ない。例えれば、医薬は人の病とともにあることを当然とするようなものだ。』と。今、ここに医師がいるとしよう、その良き効能の薬を調合し、天下の病に罹った者のところに行ってこれを万民に処方すれば、万民はこれを服用するだろう。もしただ、四、五人だけに処方して治癒の利を得ただけとするなら、それではこれは万人に行うべき薬では無いと言うだろう。そのため、孝行の子はその親に服用させず、忠臣はその主君に服用させないのだ。古代の、国を天下に封じられた、その上古の諸侯の事績はその伝説を耳で聞き、近世の諸侯の事績は目で見ることがらで知っているが、攻戦によって滅びた者は数えきれないのだ。どのようなことでそのことを知ったのか。東方に独立した莒という国があったが、その国は甚だ小さく、大国の間に挟まれていたのに、それでも熱心には大国への儀礼を行わなかった。大国も莒国のその外交の姿勢により莒国への愛しみも利することもしなかった。そのため、東は越の人がその領土を狭め削り取り、西は斉の人が領土を併合して領有した。莒国がこの斉国と越国との間に滅んだ理由を考えると、これは攻戦によるものだ。南は陳国や蔡国と云う知られた国といっても、その国が呉国と越国の間に滅んだ理由は、また攻戦によるものだ。このために子墨子が語って言うことには、『古代の王公大人は、まことに領土を得ることを願い、領土を失うことを嫌い、安定を願い、危険を嫌う。それならば攻戦は非としないわけにはいかないのだ。』と。
攻撃や戦闘の場面を讃える者が語って言うには、『それはその国の民衆を収め用いることが出来なかったので、そのために滅んだのだ。我々は上手に我々の民衆を収め用いる。この民衆を使って天下に攻戦すれば、だれが敢えて服従しないだろうか。』と。子墨子が語って言われたことには、『貴殿は、上手に貴殿の民衆を収め用いるとするが、貴殿はそれでも古代の呉闔閭ではないでしょう。古代の呉闔閭は民衆を訓練すること七年、呉闔閭は甲冑を身に着け兵卒を指揮し、三百里を走って宿営し、注林に駐屯し、冥隘の街道に出撃して、柏挙の地に戦い、楚国を誅罰し、そして宋国と魯国とを朝貢させた。夫差の世になって、北上して斉国を攻撃し、汶上に駐屯して、艾陵の地に戦い、大いに斉の人を破り、斉国を大山で平定した。東に向かい越国を攻め、三江五湖を渡り、そして越国を會稽で平定した。九夷、中国全土の国で服従しない国はなかった。このときにあっても、動員を解除せず、孤児にその戦没者した親のことを褒賞せず、群衆に施しをすることはなく、自らその己の力を頼み、その己の功績を誇り、その己の智力を誉め、兵卒の訓練を怠り、そして、姑蘇に臺、観望の塔を築いたが七年たっても完成しなかった。この状況になって、呉の国に夫差への離反する機運が起きた。越王句践は呉の国の上の者と下の者とが互いに与しないことを見て、越の民衆を取り込み、その軍勢で復讐をなし、北の城郭に攻め入り、大内を渡り、王宮を囲み、これにより呉国は滅んだ。
昔、晋国に六人の将軍がおり、その中で智伯より強者はいなかった。智伯は、己の土地は広く、人徒の人口は多くなることを企み、それにより諸侯に対抗することを願い、そこから己の英名を立てようとした。攻戦は速やかで、智伯は己の士の内から剛毅の者を選抜し、皆、舟や車を操る常備軍の衆を列ね、その軍勢で中行氏を攻めてその領土を占領保有した。その企みはすでに成った。また、さらに范氏を攻めて、これを大いに破り、三家を併せて一家としたが、併合は止まなかった。また、さらに趙襄子を晋陽に囲んだ。この状況になって、韓や魏は同盟して相談して語るところに、『古代の言葉に、「唇が無くなると歯は寒い。」と。趙氏が朝に滅べば、我々は夕に滅びるだろう。趙氏が夕に滅べば、我々は朝には亡ぶだろう。』と。詩に言うに、『魚は水中にいなければ、陸は魚にどのような意味があるだろうか。』と。これにより、三人の君主は心を一つにして力を合わせ、門を開き、道の障害物を取り除き、甲冑を身に着け軍勢を興し、韓と魏は外から、趙は内から、智伯を攻撃し、これを大いに破った。
この故事により、子墨子は語って言われたことには、『古代に言葉があって言うには、君子は水を鏡とせず、人に鏡を見る。』と。水に鏡を見れば、顔の形を見、人に鏡を見れば、そこに吉凶を知る。今、攻戦をもって利とすることは、どうして、試みに攻戦を為すことを智伯の故事に鑑みないのか。これからすれば、攻戦を為すことが不吉にして凶であることを、すでに心得て理解するべきだろう。

注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
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