白村江の戦いと軍団の性格
最初に、日本書紀の中から天智二年(663)の百済援軍について確認していきます。
さて、普段の歴史解釈は軍隊の組織論を無視して「白村江の戦い」の戦闘を詳述しますが、まず、理解していただきたいのは、日本書紀から大和朝廷が派遣した「百済の白村江の戦い」の部隊と「新羅の沙鼻岐(さびき)・奴江(ぬえ)(又は沙鼻(さび)・岐奴江(きぬえ))」の二つ城を攻略した新羅懲罰軍の部隊とは別組織で別指揮系統なのです。白村江で戦った部隊に、大和朝廷の百済国への軍事顧問団とその部隊が参戦していますが、これは百済王豊璋(ほうしやう)の指揮下にある百済国の軍隊です。ところが、任那・新羅へ進軍した新羅懲罰軍の部隊は大和朝廷の直接の指揮下の部隊です。この姿は、有名な第二次世界大戦のヨーロッパ戦線での米・英・仏三国連合軍によるノルマンジー上陸軍と米軍主体のシシリア上陸軍を一つの軍団として、戦闘はノルマンジーだけで行われたと解説するようなものなのです。命令指揮系統を無視して、社会や組織を理解することは出来ません。軍隊や会社は組織で動きますので、所謂、文化人が個々人で存在するのとは違います。軍隊は組織で構成され、定められた指揮命令系統を下に行動すると理解する必要があります。
この軍の命令指揮系統の視線を下に日本書紀からその軍編制を確認しますと、百済王豊璋への護衛を兼ねた軍事顧問団は、次の編制になっています。
百済軍事顧問団 団長:大山下狭井連(さゐのむらじ)檳榔(あぢまさ)
補佐:小山下秦造(はだのみやつこ)田来津(たくつ)
軍団規模:兵約五千人
増派百済救援軍 將軍:蘆原臣(いほはらのおみ)君(きみ)
軍団規模:兵約一万人(?)
(なお、秦造田来津は朴市(えち)田来津(たくつ)と同じ人物と見做しています。)
一方、大和朝廷直属の新羅懲罰軍は古来の大和の軍編制に則り、三軍編制で、次のような組織になっています。そして、軍隊においては誰の指揮系統下であるかが重要なはずですが、この三個軍団は正史にあるように百済王豊璋の指揮下にはありません。この新羅懲罰軍は百済軍とは独立的に行動しています。そして、その行軍方向から推測して、その目的は百済と高麗を攻略した新羅を懲罰し、百済と高麗の独立を保障するものだったと思われます。
前軍(まへのいくさ)(先鋒軍団) 大將:上毛野君(かみつけのきみ)稚子(わかこ)
補佐:間人連(はしひとのむらじ)大蓋(おほふた)
軍団規模:兵約九千人
中軍(そひのいくさ)(中段軍団) 大將:巨勢神前臣(こせのかんさきのおみ)譯語(をさ)
補佐:三輪君(みわのきみ)根麻呂(ねまろ)
軍団規模:兵約九千人
後軍(しりへのいくさ)(後詰軍団) 大將:阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)比邏夫(ひらふ)
補佐:大宅臣(おほやけのおみ)鎌柄(かまつか)
軍団規模:兵約九千人
百済王豊璋への軍事顧問団についてみてみると、日本書紀の記事からは百済王豊璋と軍事顧問団とは作戦を進める上で意思の疎通が悪かったようで、朴市田来津は州柔(つぬ)の要塞に籠り持久戦を進言していますが、百済王豊璋は短期決戦による国土復興を目指して、増派百済救援軍である蘆原臣君が率いる一万の新たな大和軍団の到着前の前線基地の避城(へさし)への前進を主張し実行しています。このため、白村江の戦いに軍事顧問団が積極的に参戦したかどうかは不明ですし、増派された蘆原臣君の軍勢が戦局に間に合ったか、どうかについても不明です。各国の歴史書は此処のところを詳しくは語っていません。ただ、軍船の数だけです。
一方、白村江の戦い前後で、大和の三個軍団で組織する新羅懲罰軍は任那を回復し、新羅本土に向けての進撃中でした。この戦局下では、朴市田来津が進言した州柔(つぬ)の要塞での篭城戦の方が有利なはずです。また、新羅懲罰軍は陸軍であり、海軍ではありません。ここから、蘆原臣君が率いる増派百済救援軍の兵も陸軍の可能性が高いのではないでしょうか。私は、増派百済救援軍は、ちょうどその時、軍事空白地帯であった朝鮮半島南西部の牟婁や多利の占領が目的の増派軍ではないかと推測しています。
従って、白村江の戦いで敗戦したのは、百済遺臣の百済軍と百済軍事顧問団の軍だけではないでしょうか。このため、復興百済国の滅亡後、百済難民は朝鮮半島南部に展開する大和朝廷の新羅懲罰軍を頼って任那・伽耶に移動し、最終的に大和朝廷軍の引き上げに合せて大和に移住しています。このような情景があるため、唐・新羅・日本の各歴史書からも「白村江の戦い」以降に朝鮮海峡で海戦が無かった理由と思っています。「白村江の戦い」で大和軍が全軍壊滅するような事態なら、唐・新羅海軍は朝鮮海峡を封鎖するはずですが、それをしていませんし、また、しようとした形跡もありません。軍事的には対大和軍の戦いは朝鮮海峡争奪戦でもあるはずです。従来の解釈ですと、「白村江の戦い」で大和朝廷・百済連合軍の軍船は壊滅しているはずですので、唐・新羅海軍は朝鮮海峡を容易に封鎖できたはずです。また、唐や新羅は重要な戦局である朝鮮海峡封鎖を史書で誇って良いはずです。
ここで歴史を確認するために、この「白村江の戦い」の前段階に遡って見ますと、大和朝廷は斉明六年(660)九月五日に百済の達率(だちそち)からの百済滅亡の通報を受けて、翌七年(661)正月六日に九州への下向を開始、三月二十五日に九州(娜大津)に到着しています。なお、日本書紀では斉明紀と天智紀とでは、多少、記事の混乱があり、百済王豊璋の百済での王位着任が、斉明紀の斉明七年九月説と天智紀の天智元年(662)五月説とがありますが、私は百済義勇軍の派遣を考えて斉明紀の斉明七年九月説を採用します。
日本書紀の天智紀からすると、熟田津の歌が詠われた斉明七年八月に大和朝廷は百済・高句麗救援軍を派遣しています。その編制は、次の通りです。
百済・高句麗救援軍 二軍編制
前軍(先遣隊) 將軍:大花下阿曇連(あづみのむらじ)比邏夫(ひらふ)
補佐:小花下河邊臣(かはへのおみ)百枝(ももえ)
軍団規模:兵九千人(?)
後軍(本隊) 將軍:大花下阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)
補佐:大山上物部連(もののべのむらじ)熊(くま)
補佐:大山上守君(もりのきみ)大石(おほいは)
軍団規模:兵九千人(?)
ここでは、天智二年の新羅懲罰軍の軍団構成を元に百済・高句麗救援軍を率いる將軍の格から各軍団の構成兵員を公称九千人と考えました。つまり、都合、公称一万八千人規模の派遣です。この百済・高句麗救援軍とは別に、大和朝廷は百済王豊璋の護衛を兼ねた軍事顧問団五千人を派遣していますので、斉明七年九月の段階では、大和朝廷が送り込んだ軍団は三個軍団で公称総勢二万三千人規模としていいのではないでしょうか。
なお、この百済・高句麗救援軍は、百済残党の兵と百済・高句麗救援軍との協同作戦により百済は国を回復し、新羅・高麗・百済の三国が小康状態を保ったために、天智元年の早い時期に日本に引き上げたと思われます。想像で、百済・高麗救援軍のそのままの残留では、その後の朝鮮半島での大和朝廷軍の人数が約五万人に膨れ上がりますから、天智元年の後半では大和朝廷の朝鮮派遣軍は、百済軍事顧問団の五千人だけと思っています。
最初に、日本書紀の中から天智二年(663)の百済援軍について確認していきます。
さて、普段の歴史解釈は軍隊の組織論を無視して「白村江の戦い」の戦闘を詳述しますが、まず、理解していただきたいのは、日本書紀から大和朝廷が派遣した「百済の白村江の戦い」の部隊と「新羅の沙鼻岐(さびき)・奴江(ぬえ)(又は沙鼻(さび)・岐奴江(きぬえ))」の二つ城を攻略した新羅懲罰軍の部隊とは別組織で別指揮系統なのです。白村江で戦った部隊に、大和朝廷の百済国への軍事顧問団とその部隊が参戦していますが、これは百済王豊璋(ほうしやう)の指揮下にある百済国の軍隊です。ところが、任那・新羅へ進軍した新羅懲罰軍の部隊は大和朝廷の直接の指揮下の部隊です。この姿は、有名な第二次世界大戦のヨーロッパ戦線での米・英・仏三国連合軍によるノルマンジー上陸軍と米軍主体のシシリア上陸軍を一つの軍団として、戦闘はノルマンジーだけで行われたと解説するようなものなのです。命令指揮系統を無視して、社会や組織を理解することは出来ません。軍隊や会社は組織で動きますので、所謂、文化人が個々人で存在するのとは違います。軍隊は組織で構成され、定められた指揮命令系統を下に行動すると理解する必要があります。
この軍の命令指揮系統の視線を下に日本書紀からその軍編制を確認しますと、百済王豊璋への護衛を兼ねた軍事顧問団は、次の編制になっています。
百済軍事顧問団 団長:大山下狭井連(さゐのむらじ)檳榔(あぢまさ)
補佐:小山下秦造(はだのみやつこ)田来津(たくつ)
軍団規模:兵約五千人
増派百済救援軍 將軍:蘆原臣(いほはらのおみ)君(きみ)
軍団規模:兵約一万人(?)
(なお、秦造田来津は朴市(えち)田来津(たくつ)と同じ人物と見做しています。)
一方、大和朝廷直属の新羅懲罰軍は古来の大和の軍編制に則り、三軍編制で、次のような組織になっています。そして、軍隊においては誰の指揮系統下であるかが重要なはずですが、この三個軍団は正史にあるように百済王豊璋の指揮下にはありません。この新羅懲罰軍は百済軍とは独立的に行動しています。そして、その行軍方向から推測して、その目的は百済と高麗を攻略した新羅を懲罰し、百済と高麗の独立を保障するものだったと思われます。
前軍(まへのいくさ)(先鋒軍団) 大將:上毛野君(かみつけのきみ)稚子(わかこ)
補佐:間人連(はしひとのむらじ)大蓋(おほふた)
軍団規模:兵約九千人
中軍(そひのいくさ)(中段軍団) 大將:巨勢神前臣(こせのかんさきのおみ)譯語(をさ)
補佐:三輪君(みわのきみ)根麻呂(ねまろ)
軍団規模:兵約九千人
後軍(しりへのいくさ)(後詰軍団) 大將:阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)比邏夫(ひらふ)
補佐:大宅臣(おほやけのおみ)鎌柄(かまつか)
軍団規模:兵約九千人
百済王豊璋への軍事顧問団についてみてみると、日本書紀の記事からは百済王豊璋と軍事顧問団とは作戦を進める上で意思の疎通が悪かったようで、朴市田来津は州柔(つぬ)の要塞に籠り持久戦を進言していますが、百済王豊璋は短期決戦による国土復興を目指して、増派百済救援軍である蘆原臣君が率いる一万の新たな大和軍団の到着前の前線基地の避城(へさし)への前進を主張し実行しています。このため、白村江の戦いに軍事顧問団が積極的に参戦したかどうかは不明ですし、増派された蘆原臣君の軍勢が戦局に間に合ったか、どうかについても不明です。各国の歴史書は此処のところを詳しくは語っていません。ただ、軍船の数だけです。
一方、白村江の戦い前後で、大和の三個軍団で組織する新羅懲罰軍は任那を回復し、新羅本土に向けての進撃中でした。この戦局下では、朴市田来津が進言した州柔(つぬ)の要塞での篭城戦の方が有利なはずです。また、新羅懲罰軍は陸軍であり、海軍ではありません。ここから、蘆原臣君が率いる増派百済救援軍の兵も陸軍の可能性が高いのではないでしょうか。私は、増派百済救援軍は、ちょうどその時、軍事空白地帯であった朝鮮半島南西部の牟婁や多利の占領が目的の増派軍ではないかと推測しています。
従って、白村江の戦いで敗戦したのは、百済遺臣の百済軍と百済軍事顧問団の軍だけではないでしょうか。このため、復興百済国の滅亡後、百済難民は朝鮮半島南部に展開する大和朝廷の新羅懲罰軍を頼って任那・伽耶に移動し、最終的に大和朝廷軍の引き上げに合せて大和に移住しています。このような情景があるため、唐・新羅・日本の各歴史書からも「白村江の戦い」以降に朝鮮海峡で海戦が無かった理由と思っています。「白村江の戦い」で大和軍が全軍壊滅するような事態なら、唐・新羅海軍は朝鮮海峡を封鎖するはずですが、それをしていませんし、また、しようとした形跡もありません。軍事的には対大和軍の戦いは朝鮮海峡争奪戦でもあるはずです。従来の解釈ですと、「白村江の戦い」で大和朝廷・百済連合軍の軍船は壊滅しているはずですので、唐・新羅海軍は朝鮮海峡を容易に封鎖できたはずです。また、唐や新羅は重要な戦局である朝鮮海峡封鎖を史書で誇って良いはずです。
ここで歴史を確認するために、この「白村江の戦い」の前段階に遡って見ますと、大和朝廷は斉明六年(660)九月五日に百済の達率(だちそち)からの百済滅亡の通報を受けて、翌七年(661)正月六日に九州への下向を開始、三月二十五日に九州(娜大津)に到着しています。なお、日本書紀では斉明紀と天智紀とでは、多少、記事の混乱があり、百済王豊璋の百済での王位着任が、斉明紀の斉明七年九月説と天智紀の天智元年(662)五月説とがありますが、私は百済義勇軍の派遣を考えて斉明紀の斉明七年九月説を採用します。
日本書紀の天智紀からすると、熟田津の歌が詠われた斉明七年八月に大和朝廷は百済・高句麗救援軍を派遣しています。その編制は、次の通りです。
百済・高句麗救援軍 二軍編制
前軍(先遣隊) 將軍:大花下阿曇連(あづみのむらじ)比邏夫(ひらふ)
補佐:小花下河邊臣(かはへのおみ)百枝(ももえ)
軍団規模:兵九千人(?)
後軍(本隊) 將軍:大花下阿倍引田臣(あべのひけたのおみ)比羅夫(ひらふ)
補佐:大山上物部連(もののべのむらじ)熊(くま)
補佐:大山上守君(もりのきみ)大石(おほいは)
軍団規模:兵九千人(?)
ここでは、天智二年の新羅懲罰軍の軍団構成を元に百済・高句麗救援軍を率いる將軍の格から各軍団の構成兵員を公称九千人と考えました。つまり、都合、公称一万八千人規模の派遣です。この百済・高句麗救援軍とは別に、大和朝廷は百済王豊璋の護衛を兼ねた軍事顧問団五千人を派遣していますので、斉明七年九月の段階では、大和朝廷が送り込んだ軍団は三個軍団で公称総勢二万三千人規模としていいのではないでしょうか。
なお、この百済・高句麗救援軍は、百済残党の兵と百済・高句麗救援軍との協同作戦により百済は国を回復し、新羅・高麗・百済の三国が小康状態を保ったために、天智元年の早い時期に日本に引き上げたと思われます。想像で、百済・高麗救援軍のそのままの残留では、その後の朝鮮半島での大和朝廷軍の人数が約五万人に膨れ上がりますから、天智元年の後半では大和朝廷の朝鮮派遣軍は、百済軍事顧問団の五千人だけと思っています。
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