竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 伊勢御幸

2014年06月22日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
伊勢御幸

 朱鳥七年(692)、草壁皇子の御霊を祀る豊受太神宮が完成した。三月、草壁皇子の母親、菟野皇女の立っての願いで、高市大王と天皇菟野皇女は朝廷を挙げて、伊勢国度会へと御幸された。
 この時、新益京の建設中のため、その中心的役割を果たす土木系の技術者広瀬王、金属鋳造・加工系の技術者柿本朝臣人麻呂や紀伊国の神主たる紀朝臣弓張たちが、留守官として都に残った。なお、この紀朝臣弓張の留守役は高市大王の配慮である。伊勢の神の御社と並び立つとする紀国一宮日前・國懸神社の神主が伊勢の神主の差配に従う訳には行かない。伊勢御幸は飛鳥浄御原宮から伊勢街道を使い、伊賀国、伊勢国、志摩度会へと行く。その度会で大海人大王の御霊を祀る皇太神宮と草壁皇子の御霊を祀る豊受太神宮で、その三国の他、近江、美濃、尾張、三河、遠江等の諸国の国司守、祝部どもを集めて、天皇が祭主となる大和の神祀りが行われた。
 こうして、大海人大王が創められた大和の神祀りの政策の流れの中、大海人大王の御霊と草壁皇子の御霊は、神の御社と云う霊廟を持つ新しい形で常に祀られる大和の神と成られた。
 従来、大王は御稜に盛大に葬られるが、誄と物忌が終われば過去となって行く。倭の古風は生きている者が大切で、死者は穢れであり、野に捨てる物である。御稜は受け継ぐ者の力の証であっても、弔う死者を神として崇めるような機能を持たない。しかし、神主が斎く御社と云う霊廟を持つ新しい形は、仏教の寺と同じ役割を果たす。そして、今、初春の祈年祭には三千を越える全国の祝部どもが倭で行われる大王の神祀りに集う。
 その新しい大和の神祀りに仏教信者で倭最大の大三輪寺の檀越である大三輪高市麻呂は仏教徒として、大和の神が仏教を凌駕すると云う危険な匂いを嗅いだ。敬虔な仏教徒である高市麻呂は中納言の身分を掛け、新造なった伊勢国皇太神宮と豊受太神宮とへの御幸を強硬に反対した。だが、当然のこと、その主張は高市大王に退けられ、大三輪高市麻呂は官職から退けられた。

 朱鳥七年二月十一日、朝廷から伊勢国御幸の日程が示された。とたん、大三輪高市麻呂が高市大王に御幸の中止を訴えた。
「大君、農作(なりわい)の節(とき)に御幸は御止め下され」
 大王は答えた。
「高市麻呂、今度の御幸は三月三日から廿日までじゃ。主はこの旅程を知っておるか」
「大君、その旅程は知っております。されど、農作の節に御幸は御止め下さい」
 高市大王はあきれ顔で聞き直した。
「再度、聞く。高市麻呂。主が云う『農作の節』とはどこの国の事か。大和ではあるまい。この大和の農作の節は、四月の龍田・広瀬の風日の神祀りからじゃ。その、風日の神祀りは農作の節に先立ち、大王が行う豊饒を願う神への祈りじゃ」
「その儀礼は先の大海人大王が定められたもの。仏教徒である主でも、よう知っておろう」
 高市麻呂自身も己の主張が、ただの言いがかりの屁理屈であることは十二分に知っている。それでも、新たな神道による神祀りが進むことに抵抗した。
「大君、確かに吾が云う『農作の節』は大唐のものであります。さらに、大和の『農作の節』は風日の神祀りの後と云うことも知っております」
「されど、大唐では『農作の節』は穀雨からと書にありまする。今年の暦の穀雨は三月末でありまする。つまり、大唐の定めでは倭の三月廿日はすでに『農作の節』の準備を始める時期となりまする」

 穀雨とは二十四節気の一つで田畑の準備が整い、春の雨が降り出す季節を意味し、農作業の開始の目安となる。穀雨の日は新暦換算では毎年四月廿日で、この朱鳥七年では三月廿六日がその日に当たる。また、高市大王は仏教信者が大海人大王の時から推し進めて来た大和の神祀り政策の成果に不安を感じていることを知っている。それに、大三輪高市麻呂自身が仏教信者の中では大立者である。実際、大和の里人を神祀りで治め、官人や渡来人は仏教で統率すると云う政策の、その仏教の方面を大三輪高市麻呂は担当していた。
 明治の廃仏毀釈運動まで倭の三輪山は大三輪寺と大御輪寺とを中心に一時は戒壇まで置かれたほどの仏教の一大聖地であった。その由来はこの大三輪高市麻呂が整備した大三輪寺に端を発する。

 高市大王は仏教信者の高市麻呂が神祀りとして伊勢に神の御社を建てたことに反対して、反対の為に考えた屁理屈を唱えていることが判った。
 元々、今、倭は大和初の大王の都となる新益京の建設中で、飛鳥の地はその工事のため、湧きかえっている。大王と天皇が大勢の官人を引き連れ伊勢に行っている間は、飛鳥の地の人が減る分、倭の人々の生活の負荷が減る。御幸で民が迷惑するなら、王都の建設は比較にならないほどの大迷惑であった。
 高市大王は信仰と政治を混同する高市麻呂を朝廷から追放することを決めた。
「高市麻呂、主は、私寺の中では、今、倭で一番大きな大三輪寺の大檀越じゃ。つまり、この大和では第一の私寺の大檀越じゃ。その主は大和の神祀りに集うことは嫌いか」
「大檀越の主が大海人大王の御霊を祀る皇太神宮を拝むことは、仏の道に逆らうか。もし、そうなら、この朝廷から去れ。大海人大王の御霊を拝まん者は、この朝廷に居てはならん」
 高市麻呂は仏教徒として、ただ、己の主張を繰り返した。
「大君、されど、農作の節の御幸は御止め下され」
「そうか、高市麻呂。主の壬申の乱の働きに免じ、主を罪人とはせん。だが、この朝廷から、直ちに去れ」

 先のことではあるが高市大王が崩御された後、宮廷は太皇太后天皇菟野皇女の影響下、仏教色を強めていった。その流れの中、一度、罷免された大三輪高市麻呂は信仰篤い仏教徒として朝廷に返り咲いた。

 御幸の出発に際し仏教信者の大三輪高市麻呂の横槍はあったが、伊勢御幸は順調に行われた。高市大王はこの伊勢御幸を大海人大王の御霊を祀る皇太神宮と草壁皇子の御霊を祀る豊受太神宮とを拝む御幸と規定し、御幸に従う者どもに散斎(あらいみ)を命じた。
 この散斎中は、常の諸司事は行うが、喪を弔う、病を問う、宍を食う、刑殺を判じる、罪人の決罰を為す、音楽を創る、この七つの事柄は禁止される。このため、旅の徒然の和歌を詠うでもなく、歌舞音曲を伴った宴を張るでもない。静々と御幸は行くことになる。


 三十九歳になった巨勢媛は、その天皇鵜野皇女に随行して伊勢国に来ている。
 ただ、人麻呂は、新益京の建設の最盛期を迎え、その新益京で使われる金銅製の建物の装飾品や工芸品を供給する飛鳥池の官営工房を指揮するために、この伊勢御幸には同行していない。その人麻呂は留守官の一員として飛鳥浄御原宮に残っている。

 この旅の前、人麻呂は飛鳥池の官営工房で製作している宮中の妃や女官が身に付ける飾りや宝飾品のデザインの打ち合わせをするために、天皇菟野皇女の宮を尋ねた。その折、昔、壬申の乱の時、伊勢国泊津に駐屯し、皇大神宮(伊勢内宮) や豊受大神宮(伊勢外宮)が建立された度会や伊良湖・伊勢水道の亀島、答志島の土地の様子を良く知る人麻呂に、伊勢御幸に同行する女官たちが伊勢の物語をねだった。巨勢媛もまた、その御幸に同行する。人麻呂は天皇菟野皇女との打ち合わせの帰り、宮中の媛の局に寄った。そこで、人麻呂は、求められるまま、巨勢媛と女官たちに彼が知る伊勢国の物語をした。
 その翌日、巨勢媛に伊勢国御幸への餞別の物語歌を贈った。人麻呂としては、媛が旅の途中で楽しめるようにと、精一杯、軽やかに遊び心を入れた歌を詠う。

鳴呼見乃浦尓船乗為良武感嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香
(感は女+感の代字)
訓読 嗚呼見(あみ)の浦に船乗りすらむ感嬬(をとめ)らし玉裳の裾に潮満つらむか
私訳 あみの浦で遊覧の船乗りをしているでしょう、その官女の人たちの美しい裳の裾に潮の飛沫がかかり、すっかり濡れているでしょうか。

釵著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武
訓読 くしろ着く手節(たふせ)の崎に今日もかも大宮人し玉藻刈るらむ
私訳 美しいくしろを手首に着ける、その言葉のような手節の岬で今日もあの大宮人の麻続王は玉藻を刈っているのでしょうか。

潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎
訓読 潮騒(しほさゐ)に伊良虞(いらご)の島辺(しまへ)漕ぐ船に妹乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
私訳 潮騒の中で伊良湖水道の島の海岸を漕ぐ船に私の恋人は乗っているのでしょうか。あの波の荒い島のまわりを。

 なお、万葉集にはこの人麻呂の歌など飛鳥に残った人たちの歌はあるが、この伊勢御幸に随行した人たちの歌は散斎の礼により無い。ただ、この伊勢皇太神宮への散斎の礼は高市大王の崩御と共に失せた。その後、大宝二年の伊勢御幸を嚆矢として伊勢御幸は物見遊山となって行く。後の人は天皇菟野皇女を尊び、大宝二年の伊勢御幸は国書には三河御幸と称し、歌舞音曲の言い訳とした。

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