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竹取翁と万葉集のお勉強

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大伴旅人と藤原房前 「長屋王の変」の後 前編

2009年11月30日 | 万葉集 雑記
大伴旅人と藤原房前 「長屋王の変」の後

スコップ持ちのおっちゃんの歴史観は、普段の歴史観ではありません。万葉集や懐風藻の歌と古事記を中心に据えています。個々の事件は日本書紀や続日本紀を参照しますが、歴史は参考にするだけです。
藤原房前は長屋王の変の時の藤原四兄弟の一人ですので、普段の歴史では反皇族・反長屋王派の人物と見做されています。ところが、万葉集や懐風藻の歌から歴史を眺めますと本当にそうなのかと、疑問が湧いてきます。「花鳥の使ひ」の和歌を使って秘密の通信をしたと想像して、次の歌を鑑賞してみてください。この先入観を入れられると、和歌を使って秘密の通信があったかもしれないとの雰囲気になるはずです。そして、先入観の補足として、この藤原房前の誕生の前後を紹介すると、房前の母親の名は、斉明・天智天皇時代の大臣であった蘇我連子(そがのむらじこ)の娘で蘇我媼子(そがのおほなこ)と云い、房前は草壁皇子が愛人の石川(蘇我)大名児(おほなこ)と別れた頃合いに誕生しています。草壁皇子が愛人である石川(蘇我)大名児と別れた頃に、持統天皇の母方の姪にあたる阿閉皇女と持統天皇の御子の草壁皇子との婚姻が成立し、後に元正天皇になられる氷高皇女がすぐに誕生しています。そして、藤原房前は、後に元明太上天皇(阿閉皇女)から太上天皇の亡くなられた後の葬儀全般の扱いと草壁皇子との御子である元正天皇(氷高皇女)の補佐を固く命じられた人です。こうしたとき、同じ「おほなこ」と呼ばれた同時代の蘇我媼子と蘇我大名児が、同一人物かどうかの検証はまだありません。同一人物のとき、房前は家督を継げない長男になります。
さて、最初に紹介する歌は、神亀六年二月の長屋王の変の直後に藤原房前が三形沙弥(山田史三方)に詠わせた歌と、私は思い込んでいます。長屋王の変の時に藤原房前は京を警護する中衛府の大将ですが、兵を動かし長屋王の屋敷を囲んだのは知造難波宮事の藤原宇合です。長兄の藤原武智麻呂が仕組んだ「長屋王の変」に藤原房前が参加しなかったため、急遽、難波で難波宮の造営の長官をしていた藤原宇合を呼び寄せ、クーデターを起こしたような雰囲気です。
この歌は、元正天皇と左大臣の長屋王へのクーデターに対して、元正天皇の内臣である藤原房前がその怒りの感情を三形沙弥に代弁させた歌だと思っています。そして、元正天皇の寵臣たちを踏みにじるなと詠っていると感じています。

集歌4227 大殿之 此廻之 雪莫踏祢 數毛 不零雪曽 山耳尓 零之雪曽 由米縁勿 人哉莫履祢 雪者
訓読 大殿の この廻(もとは)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人やな踏みそね 雪は
私訳 大殿のこのまわりの雪を踏むな。しばしばは降らない貴重な雪だ。仰ぎ見る山にしか降らない雪だ。けっして近寄るな。人よ、踏むな。雪を。

反謌一首
集歌4228 有都々毛 御見多麻波牟曽 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曽祢
訓読 ありつつも見(め)したまはむぞ大殿のこの廻(もとは)りの雪な踏みそね
私訳 (元正天皇は)いつまでも御覧になるであろう。この大殿のまわりの雪を踏むな。
右二首謌者、三形沙弥、承贈左大臣藤原北卿之語、作誦之也。聞之傳者、笠朝臣子君。復後傳讀者、越中國掾久米朝臣廣縄是也
注訓 右の二首の歌は、三形沙弥の、贈左大臣藤原北卿の語(ことば)を承(う)け、依りて誦(よ)めり。聞きて伝ふるは笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中國の掾久米朝臣廣縄、これなり。

次の歌は、藤原房前が宮中の七夕の宴ではなく自宅で詠った歌と思われ、私の想いは神亀六年五月下旬から六月上旬に詠った歌です。そして、これらの集歌4227の歌と集歌1764の歌を奈良の都の藤原房前は大宰府の大伴旅人へ贈ったのではないかと思い込んでいます。
なお、大和歌の七夕の織姫は自分からは出かけていきません。それで、集歌1764の歌は彦星に万端の準備をするから嫌がらずにいらっしゃいと詠っています。そして、反歌では待ちわびる彦星は船出をするのですねと誘っています。この時点では、相手の態度が不明だから霧なのでしょう。

七夕謌一首并短哥
集歌1764 久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 玉橋渡須
訓読 久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
私訳 遥か彼方の天の川原の上流の瀬に美しい橋を渡し、下流の瀬に船橋を浮かべ据えて、雨が降って風が吹かずとも、風が吹いて雨が降らなくても裳の裾を濡らすでしょうが、その裳を濡らさないように嫌がらずにいらっしゃいと美しい橋を私が渡します。

反謌
集歌1765 天漢 霧立渡 且今日々々々 吾待君之 船出為等霜
訓読 天の川霧立ちわたる今日今日と吾が待つ君し船出すらしも
私訳 天の川に霧が立ち渡っている。霧ではっきりは見えないが、今日か今日かと私が待つ貴方が船出をするらしい。
右件謌、或云、中衛大将藤原北卿宅作也
注訓 右の件(くだり)の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿の宅(いへ)の作なり」といへり。

ここで、私がどうしても誤読したい年号の神亀五年が出てきます。集歌0793の歌の年号を神亀五年から神亀六年に誤読すると、私の中で物語が完成します。
春二月、都で「長屋王の変」と云うクーデターが勃発します。元明太上天皇から内臣として元正天皇の補佐を行なうようにとの遺言を受けた藤原房前が、そのクーデターの後始末を画策したのではないでしょうか。それが、集歌1764の七夕の歌です。どんな障害があっても、その障害を取り除くから大宰府から船に乗って上京して来いとの誘いの歌と思っています。
その藤原房前の誘いに対する回答が、次の集歌0793の「報凶問歌」と集歌0806の「謌詞兩首」の歌です。集歌0793の「報凶問歌」の歌は、集歌4227の「大殿之雪」の歌に対する答歌です。そして、集歌0806の歌は、集歌1764の七夕の歌で暗示された上京への確認の歌です。この集歌0806の歌は、神亀六年秋七月から八月の歌でしょう。
集歌0806の歌の内容とその標から、集歌0806と集歌0807の歌は都の誰かに贈られています。その都の誰かからの、その確認の歌に対する答えが集歌0808の「答謌二首」の歌です。私は、ここで藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。
この思いがあるために、私は神亀五年を神亀六年に誤読するのです。

大宰帥大伴卿報凶問歌一首
標訓 大宰帥大伴卿の凶問に報(こた)へたる歌一首
禍故重疊 凶問累集 永懐崩心之悲 獨流断腸之泣 但依兩君大助傾命纔継耳 (筆不盡言 古今所歎)
訓読 禍故重疊し、凶問累集す。永に崩心の悲しびを懐き、獨り断腸の泣を流す。ただ兩君の大きなる助に依りて、傾命を纔(わづか)に継ぐのみ。 (筆の言を盡さぬは、 古今の歎く所なり)

集歌0793 余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須万須 加奈之可利家理
訓読 世間(よのなか)は空(むな)しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
私訳 人の世が空しいものと思い知らされた時、いよいよ、ますます、悲しいことです。
神亀五年六月二十三日

謌詞兩首 大宰帥大伴卿
標訓 歌詞(かし)両首(にしゅ) 大宰帥大伴卿
集歌0806 多都能馬母 伊麻勿愛弖之可 阿遠尓与志 奈良乃美夜古尓 由吉帝己牟丹米
訓読 龍(たつ)の馬(ま)も今も得てしか青丹(あをに)よし奈良の都に行きて来むため
私訳 天空を駆ける龍の馬も今はほしいものです。青葉美しい奈良の都に戻って行って帰るために。

集歌0807 宇豆都仁波 安布余志勿奈子 奴婆多麻能 用流能伊昧仁越 都伎提美延許曽
訓読 現(うつつ)には逢ふよしも無しぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
私訳 現実には逢う手段がありません。闇夜の夜の夢にでも絶えず希望を見せてほしいものです。

答謌二首
標訓 答えたる歌二首
集歌0808 多都乃麻乎 阿礼波毛等米牟 阿遠尓与志 奈良乃美夜古邇 許牟比等乃多仁
訓読 龍(たつ)の馬(ま)を吾(あ)れは求めむ青丹(あをに)よし奈良の都に来む人の為(たに)
私訳 天空を駆ける龍の馬を私は貴方のために探しましょう。青葉の美しい奈良の都に戻って来る人のために。

集歌0809 多陀尓阿波須 阿良久毛於保久 志岐多閇乃 麻久良佐良受提 伊米尓之美延牟
訓読 直(ただ)に逢はず在(あ)らくも多く敷栲の枕(まくら)離(さ)らずて夢にし見えむ
私訳 直接に逢うことが出来ずにいる日数は多いのですが、貴方が床に就く敷栲の枕元には絶えることなく逢う日が夢に見えるでしょう。

集歌0808の歌で、藤原房前と大伴旅人の盟約は成立したと確信しています。その盟約の確約の書類が、次の大伴旅人が詠う「梧桐日本琴一面」の歌です。歌は、藤原房前を通じて元正上皇と舎人親王へ提出する忠誠の誓約書です。そして、都の藤原房前から大伴旅人へ、上京と都での立場について確約が届きます。

大伴淡等謹状
梧桐日本琴一面 對馬結石山孫枝
標訓 梧桐(ごとう)の日本(やまと)琴(こと)一面 対馬の結石山の孫枝
此琴夢化娘子曰 余託根遥嶋之崇巒 晞韓九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰
訓読 此の琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余根を遥嶋の崇き巒に託け、韓を九陽の休き光に晞す。長く烟霞を帶びて山川の阿に逍遥し、遠く風波を望みて鴈木の間に出入す。唯百年の後に、空しく溝壑に朽ちむことを恐るるのみ。偶良匠に遭ひて、散られて小琴と為る。質の麁く音の少しきを顧みず、恒に君子の左琴を希ふ」といへり。即ち歌ひて曰はく、
私訳 この琴が娘子になって言うには、「自分は遥かな島の高き嶺に根をおろし、幹を美しい日の光にさらしていました。長く霞に包まれ、山川の間に遊び、遠く風波を望み、お役に立てる用材になるかならないかと案じていました。唯、心配な事は、百年の後に寿命を向かえいたづらに谷底に朽ち果てることですが、図らずも良き工匠の手にかかり、削られて小さい琴となりました。音色も粗く、音量も小さいのですが、どうか君子の側近くに愛琴となりたいといつも願っています。」と言って、次のように歌いました。

集歌0810 伊可尓安良武 日能等伎尓可母 許恵之良武 比等能比射乃倍 和我麻久良可武
訓読 如何(いか)にあらむ日の時にかも声知らむ人の膝(ひざ)の上(へ)吾(わ)が枕(まくら)かむ
私訳 どんな日のどんな時になれば、私の音を聞き分けて下さる人の膝で琴である私は音を立てることが出来るのでしょうか。

僕報詩詠曰
集歌0811 許等々波奴 樹尓波安里等母 宇流波之吉 伎美我手奈礼能 許等尓之安流倍志
訓読 言(こと)問(と)はぬ樹にはありとも愛(うるは)しき君が手馴(たな)れの琴にしあるべし
意訳 (琴の娘よ)物言わぬ木であったとしても、立派な御方の愛用の琴にならなければいけません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にはありとも愛(うるは)しき王(きみ)が手馴れの子(こ)等(と)にしあるべし
呆訳 家来である家の子たちを区別しない高貴なお方といっても、家来は麗しいあのお方の良く知る家の子らでなくてはいけません。

琴娘子答曰
敬奉徳音 幸甚々々
訓読 「敬みて徳音を奉はりぬ 幸甚々々」といへり。
片時覺 即感於夢言慨然不得止黙 故附公使聊以進御耳 (謹状不具)
訓読 片時にして覺(おどろ)き、即ち夢の言に感じ、慨然として止黙(もだ)をるを得ず。故(かれ)公使に附けて、聊(いささ)か進御(たてまつ)る。(謹みて状す。不具)

天平元年十月七日附使進上
謹通 中衛高明閤下 謹空
跪承芳音 嘉懽交深 乃知 龍門之恩復厚蓬身之上 戀望殊念常心百倍 謹和白雲之什以奏野鄙之歌 房前謹状
訓読 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状す。

集歌0812 許等騰波奴 紀尓茂安理等毛 和何世古我 多那礼之美巨騰 都地尓意加米移母
訓読 言問(ことと)はぬ木にもありとも吾(わ)が背子が手馴(たな)れの御琴(みこと)土(つち)に置かめやも
意訳 言葉を語らない木であっても、私の尊敬する貴方の弾きなれた御琴を土の上に置くことはありません。
呆読 子(こ)等(と)問はぬ貴にありとも吾が背子が手馴れの命(みこと)土に置かめやも
呆訳 家来の家の子たちを区別しない高貴なお方であっても、私が尊敬するあのお方が良く知るりっぱな貴方を地方に置いておく事はありません。
謹通 尊門 (記室)
十一月八日附還使大監

大伴旅人は、この翌年の天平二年十月頃に大納言就任し、奈良の都に戻っています。十月の大納言就任の内示とすると、それ以前に都で誰かが根回しを行い、クーデターを行った藤原武智麻呂・宇合兄弟の承認を取り付ける必要があります。さて、誰が根回しを行なったのでしょうか。舎人親王でしょうか、それとも藤原房前でしょうか。
大伴旅人の帰京後、都では微妙な平静が保たれます。まず、舎人親王が人臣の筆頭の位置に帰り咲きます。また、朝廷の参議の格に藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏の代表が入り、さらに、軍事・警察権は惣官・鎮撫使の役職を新たに設け、藤原氏、皇族、丹比氏、大伴氏が分け合って任命されています。ここには、藤原氏による権力中枢の独占の姿はありません。神亀六年(天平元年)夏から天平二年春に掛けて、「長屋王の変」以降の都で何かが変わったのです。
人は、大伴旅人から藤原房前に贈り物と歌を贈って猟官したと評価します。私は、藤原房前から皇族派としてのクーデターの巻き返しの相談が大伴旅人へあったと思っています。その都と大宰府との秘密の通信が、紀貫之が云う「花鳥の使ひ」です。
どうでしょうか、その気になって万葉集を眺めると、天平の政治の裏側を覗いたような気がしませんか。私が思う大伴旅人と藤原房前との和歌の相互の贈答は紀貫之が云う「花鳥の使ひ」に相当しますが、本来の「花鳥の使ひ」は中臣宅守が詠ったものです。この天平元年の「花鳥の使ひ」から、もう一つの中臣宅守が詠う「花鳥の使ひ」を見てみたいと思います。


スコップ持ちのおっちゃんの歴史観は、普段の歴史観ではありません。万葉集や懐風藻の歌と古事記を中心に据えています。個々の事件は日本書紀や続日本紀を参照しますが、歴史は参考にするだけです。
藤原房前は長屋王の変の時の藤原四兄弟の一人ですので、普段の歴史では反皇族・反長屋王派の人物と見做されています。ところが、万葉集や懐風藻の歌から歴史を眺めますと本当にそうなのかと、疑問が湧いてきます。「花鳥の使ひ」の和歌を使って秘密の通信をしたと想像して、次の歌を鑑賞してみてください。この先入観を入れられると、和歌を使って秘密の通信があったかもしれないとの雰囲気になるはずです。そして、先入観の補足として、この藤原房前の誕生の前後を紹介すると、房前の母親の名は、斉明・天智天皇時代の大臣であった蘇我連子(そがのむらじこ)の娘で蘇我媼子(そがのおほなこ)と云い、房前は草壁皇子が愛人の石川(蘇我)大名児(おほなこ)と別れた頃合いに誕生しています。草壁皇子が愛人である石川(蘇我)大名児と別れた頃に、持統天皇の母方の姪にあたる阿閉皇女と持統天皇の御子の草壁皇子との婚姻が成立し、後に元正天皇になられる氷高皇女がすぐに誕生しています。そして、藤原房前は、後に元明太上天皇(阿閉皇女)から太上天皇の亡くなられた後の葬儀全般の扱いと草壁皇子との御子である元正天皇(氷高皇女)の補佐を固く命じられた人です。こうしたとき、同じ「おほなこ」と呼ばれた同時代の蘇我媼子と蘇我大名児が、同一人物かどうかの検証はまだありません。同一人物のとき、房前は家督を継げない長男になります。
さて、最初に紹介する歌は、神亀六年二月の長屋王の変の直後に藤原房前が三形沙弥(山田史三方)に詠わせた歌と、私は思い込んでいます。長屋王の変の時に藤原房前は京を警護する中衛府の大将ですが、兵を動かし長屋王の屋敷を囲んだのは知造難波宮事の藤原宇合です。長兄の藤原武智麻呂が仕組んだ「長屋王の変」に藤原房前が参加しなかったため、急遽、難波で難波宮の造営の長官をしていた藤原宇合を呼び寄せ、クーデターを起こしたような雰囲気です。
この歌は、元正天皇と左大臣の長屋王へのクーデターに対して、元正天皇の内臣である藤原房前がその怒りの感情を三形沙弥に代弁させた歌だと思っています。そして、元正天皇の寵臣たちを踏みにじるなと詠っていると感じています。

集歌4227 大殿之 此廻之 雪莫踏祢 數毛 不零雪曽 山耳尓 零之雪曽 由米縁勿 人哉莫履祢 雪者
訓読 大殿の この廻(もとは)りの 雪な踏みそね しばしばも 降らぬ雪ぞ 山のみに 降りし雪ぞ ゆめ寄るな 人やな踏みそね 雪は
私訳 大殿のこのまわりの雪を踏むな。しばしばは降らない貴重な雪だ。仰ぎ見る山にしか降らない雪だ。けっして近寄るな。人よ、踏むな。雪を。

反謌一首
集歌4228 有都々毛 御見多麻波牟曽 大殿乃 此母等保里能 雪奈布美曽祢
訓読 ありつつも見(め)したまはむぞ大殿のこの廻(もとは)りの雪な踏みそね
私訳 (元正天皇は)いつまでも御覧になるであろう。この大殿のまわりの雪を踏むな。
右二首謌者、三形沙弥、承贈左大臣藤原北卿之語、作誦之也。聞之傳者、笠朝臣子君。復後傳讀者、越中國掾久米朝臣廣縄是也
注訓 右の二首の歌は、三形沙弥の、贈左大臣藤原北卿の語(ことば)を承(う)け、依りて誦(よ)めり。聞きて伝ふるは笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中國の掾久米朝臣廣縄、これなり。

次の歌は、藤原房前が宮中の七夕の宴ではなく自宅で詠った歌と思われ、私の想いは神亀六年五月下旬から六月上旬に詠った歌です。そして、これらの集歌4227の歌と集歌1764の歌を奈良の都の藤原房前は大宰府の大伴旅人へ贈ったのではないかと思い込んでいます。
なお、大和歌の七夕の織姫は自分からは出かけていきません。それで、集歌1764の歌は彦星に万端の準備をするから嫌がらずにいらっしゃいと詠っています。そして、反歌では待ちわびる彦星は船出をするのですねと誘っています。この時点では、相手の態度が不明だから霧なのでしょう。

七夕謌一首并短哥
集歌1764 久堅乃 天漢尓 上瀬尓 珠橋渡之 下湍尓 船浮居 雨零而 風不吹登毛 風吹而 雨不落等物 裳不令濕 不息来益常 玉橋渡須
訓読 久方の 天の川原に 上つ瀬に 玉橋渡し 下つ瀬に 船浮け据ゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 裳濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す
私訳 遥か彼方の天の川原の上流の瀬に美しい橋を渡し、下流の瀬に船橋を浮かべ据えて、雨が降って風が吹かずとも、風が吹いて雨が降らなくても裳の裾を濡らすでしょうが、その裳を濡らさないように嫌がらずにいらっしゃいと美しい橋を私が渡します。

反謌
集歌1765 天漢 霧立渡 且今日々々々 吾待君之 船出為等霜
訓読 天の川霧立ちわたる今日今日と吾が待つ君し船出すらしも
私訳 天の川に霧が立ち渡っている。霧ではっきりは見えないが、今日か今日かと私が待つ貴方が船出をするらしい。
右件謌、或云、中衛大将藤原北卿宅作也
注訓 右の件(くだり)の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿の宅(いへ)の作なり」といへり。


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