新選万葉集 その和歌表記の特殊性
知っている人は知っているの、和歌のあるあるの話で、古典和歌の表記スタイルの問題があります。古典和歌の表記スタイルは、奈良時代中期 大伴家持が中年期となる万葉集晩期以降から平安時代中期の紫式部たちが活躍した拾遺和歌集の時代、漢字に借音した一字一音の万葉仮名で表記します。
1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ
このように紹介しましたが、実際に目にする和歌は次のような区切りを持たずに二行書きで、それも、かな連綿表記で表しますから、一定の学習をしないと読めませんし、意味も分からないものです。それで鎌倉時代初頭には古典和歌を翻訳して漢字交じり平仮名で表記するようになります。この翻訳の第一人者が藤原定家で、それ以降では古典和歌本来のものを棄てて、藤原定家の翻訳した漢字交じり平仮名で表記されたものを聖典とするようになります。古今和歌集ですと古今伝授と言う相伝和歌道へと発展します。
古今和歌集 歌番1
<一字一音万葉仮名>
止之乃宇知尓者留者幾尓个利比止々世遠
己曽止也以者武己止之止也以者武
<漢字交じり平仮名>
年の内に春は来にけり一年を
去年とや言はむ今年とや言はむ
ここで、和歌表記スタイルを万葉集の時代に戻しますと、万葉集では次のようなおおむね四つのスタイルがあります。詩体歌には日本語の「てにをは」となる借音漢字を持たず、常体歌は語を示す漢字に日本語の「てにをは」となる借音漢字を持ちます。非詩体歌は一部に「てにをは」となる借音漢字を持ちます。
1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに
この平安初期の段階での和歌表記の状況を想像しながら、新選万葉集の和歌表記を眺めてします。なお、序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。(先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。)」の一文がありますから、新選万葉集の和歌は新選万葉集のために新たに創られた和歌ではなく、既に詠われ知られていた和歌を基に、漢詩だけを創作したことになっています。その既に詠われ知られていた和歌の多くは寛平御時皇后宮歌合から取られています。
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
和歌 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
推定 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選万葉集 歌番6 紀友則
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 頻るに花の香を遣はして遠近賒(はる)かにして、家家處處匣中(こうちゅう)に加ふ、黄鶯谷より出るに媒介無く、唯だ梅風を指斗(しるべ)と為すべし。
和歌 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
解釈 咲き匂う梅の香りを風の便りに添えて、鶯を誘い出す案内役として遣わせる。
寛平御時皇后宮歌合 歌番2
和歌 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
推定 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選万葉集 歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。
和歌 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
解釈 谷間を吹く風により融ける氷の間ごとに、流れ出る水の波しぶきが春の最初の花であろうか。
寛平御時皇后宮歌合 歌番3
和歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
推定 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選万葉集 歌番2 素性法師
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 春風は處の物に觸れ皆楽しく、上苑の梅花は開(さ)きて落(ち)り、淑女は偷(ひそやか)に攀りて簪を作すに堪(もち)ひ、残香は袖に勾ひて拂へども卻(のぞ)き難たし。
和歌 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 花が散ってしまうと眺めて、散り終わってしまうべきなのに、梅の花は、余計なことに思いを残すその匂いが袖に残り香となって残っている。
寛平御時皇后宮歌合 歌番4
和歌 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
推定 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
歌番121 藤原興風
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 黄鶯は一年に一(ひとたび)般(めぐら)して啼き、歳月を積み數(あまた)の般(めぐ)る春に逢ふ、憐れむべし萬秋の鶯の音(ね)の希れなるを、應(まさ)に認(ゆる)すべし、年客の更に来往するを。
和歌 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
解釈 声が絶えないように鳴き続けよ、鶯よ、一年に二度とは来ない春なのだから。
ここで推定の借音一字一音和歌と新選万葉集の和歌を並べてみますと次の通りです。
寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との比較
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
寛平御時皇后宮歌合 歌番2
歌合 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
寛平御時皇后宮歌合 歌番3
歌合 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
寛平御時皇后宮歌合 歌番4
歌合 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
新選 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
私は正統な教育を受けていませんので精密な論が出来ません。それを踏まえて、紹介しました寛平御時皇后宮歌合の歌番号1から4までの和歌に対する新選万葉集の和歌と漢詩の対を比較しますと、どうも、次のような疑いが生じます。確かに寛平御時皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を創作したのでしょう。ただ、同時に古万葉調の和歌表現も創作したのではないでしょうか。
例えば、歌番1の「交倍」を「たくへ」、「倡」を「さそふ」、「指南」を「しるべ」と読ませるものは平安時代初頭の和歌表記として存在したかです。この「たくへ」は皇后宮歌合の和歌での言葉の解説では「類へ」であり「添わせる、伴わせる」の意味を持つとされ、これは「交」の漢字の本義「俱也。共也、合也。」と同じです。和語からすれば安易な漢字選択は「類」ですが、それを「交」の選字です。ここに非常に漢詩を詠う時の選字の匂いがするのです。
また、藤原定家本からの字母研究からすると和歌集ではありませんが、散文の土佐日記に載る和歌でも次のような表記スタイルを取りますから、平安時代の寛平御時皇后宮歌合の和歌の表記に漢字交じり借音の一字一音の万葉仮名とし、積極的に漢詩要素を取り入れて表記を行ったか、この疑問が生じます。
土佐日記 和歌 (藤原定家本の字母)
原文 美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
読下 みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
解釈 都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな
つまり、皇后宮歌合の時代に標準的な和歌の表記スタイルが万葉集の常体歌などと同等な表記スタイルをしているのですと、新選万葉集の序の「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。(漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。)」の文章と矛盾が生じます。皇后宮歌合の時代と同時代の新選万葉集の序を創った人物は万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルは和歌として平凡な人には読解が出来ないと指摘しているのに、一方では皇后宮歌合の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルで表記されていて、それをそのままに新選万葉集の和歌として取り込んだのかです。
もう一つ、例を挙げると平安時代初頭の歌人である伊勢の和歌は古今和歌集や後撰和歌集などにも取られていて、その和歌の表記は表語漢字を使わない借音漢字による一字一音表記で和歌を表記するスタイルで万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルではありません。もし、伊勢の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルと同等な漢字交じり借音一字一音仮名文字の表記スタイルなら、そのような表記スタイルの伊勢集を、表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記に翻訳した人がいることになりますし二種類の表記スタイルの伝本が存在しても良いことになります。
皇后宮歌合 歌番19 伊勢
和歌 美川乃宇部尓 安也緒利三多留 者留乃安女也 々満乃美止利遠 奈部天曾武良武
新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ
しかしながら、古典文学史ではそのような指摘はありません。古今和歌集の成立の延喜五年(905)までには、和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルは確立していたと、筑波大学の古今和歌集高野切の復元研究などの成果により現代では指摘します。時代を確認すると、伊勢は貞観14年(872)頃から天慶元年(938)頃の人で、皇后宮歌合は寛平5年(893)9月以前、新選万葉集は寛平5年(893)9月の成立です。つまり、歌人伊勢は和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠う時代の人なのです。
すると、皇后宮歌合の和歌は表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠われていたとしますと、新選万葉集に載せる和歌は一字一音表記のものから、万葉調に新たに表記を創作したと推定されることになります。
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
行きつ戻りつ、新選万葉集の和歌表記は菅家一門や当時の人々が理解・解釈していた万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したものとなります。それも漢詩に応じる和歌としての創作ですから、「媒介」に対し「倡」の選字と「さそふ」の読みでしょうし、「指斗」に対して「指南」の選字と「しるへ」の読みなのでしょう。
寛平御時皇后宮歌合 歌番174
歌合 和利奈久曾 祢天毛佐女天毛 己比良留々 宇良三緒以川知 也利天和須礼武
新選 無破曾 寢手裳覺手裳 恋良留留 怨緒五十人槌 遣手忘牟
漢詩 霜月軽往驚単人 曉樓鐘響覺眠人 恋破心留五十人 相思相語歳數處
読下 わりなくそ ねてもさめても こひらるる うらみをいつち やりてわすれむ
この組み合わせで、まず、漢詩の「五十人」は白居易の漢詩「燕子楼」に関わる五十歳で死んだ徐州長官「張仲素」を示唆するものです。それで相思相語歳の「歳」の人物像がはっきりと見えて来ます。この漢詩の「五十人」の言葉に対して和歌では無理に「五十人槌」と表し「いつち」と読ませます。
また、「無破曾」の表記について、万葉集では「見人無尓(見る人も無しに)」、「絶事無(絶える事無し)」などと和臭漢文のような表記をしますから、「破無曾」でも十分なのですが、漢詩が白居易の漢詩「燕子楼」を題材にしているために二夫に交えずの操を守った張氏の愛妓眄眄を示唆するために「無破曾」でなくてはいけないのです。実にアハハ!なのです。本来は皇后宮歌合の和歌を示すはずなのですが、白居易の漢詩「燕子楼」で遊んだために和歌が実に漢詩的な要素を持つのです。このような遊びがあるからか、序で「文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。」と示唆するのでしょう。
面白いと思うか、実にとぼけた酔論と思うかは任せします。ただ、和歌の表記の変遷の歴史からすると、新選万葉集の和歌表記には特別な意図があるのです。それも単純に万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したのではないのです。和歌なのですが漢詩的な遊び心の要素があるのです。
もし、大学生で面白いと思ったら、このような視線で新選万葉集を眺めてみたらどうでしょうか。よろしくお願いいたします。
知っている人は知っているの、和歌のあるあるの話で、古典和歌の表記スタイルの問題があります。古典和歌の表記スタイルは、奈良時代中期 大伴家持が中年期となる万葉集晩期以降から平安時代中期の紫式部たちが活躍した拾遺和歌集の時代、漢字に借音した一字一音の万葉仮名で表記します。
1)万葉集後期
原文 之奇志麻乃 夜末等能久尓々 安伎良氣伎 名尓於布等毛能乎 己許呂都刀米与
和歌 しきしまの やまとのくにに あきらけき なにおふとものを こころつとめよ
2)古今和歌集
原文 止之乃宇知尓 者留者幾尓个利 比止々世遠 己曽止也以者武 己止之止也以者武
和歌 としのうちに はるはきにけり ひとゝせを こそとやいはむ ことしとやいはむ
3)後撰和歌集
原文 布累由幾乃 美能之呂己呂毛 宇知幾川々 者留幾尓个利止 於止呂可礼奴留
和歌 ふるゆきの みのしろころも うちきつつ はるきにけりと おとろかれぬる
4)拾遺和歌集
原文 者累堂川止 以不者可利尓也 三与之乃々 也万毛加寸美天 計左者美由良无
和歌 はるたつと いふはかりにや みよしのの やまもかすみて けさはみゆらむ
このように紹介しましたが、実際に目にする和歌は次のような区切りを持たずに二行書きで、それも、かな連綿表記で表しますから、一定の学習をしないと読めませんし、意味も分からないものです。それで鎌倉時代初頭には古典和歌を翻訳して漢字交じり平仮名で表記するようになります。この翻訳の第一人者が藤原定家で、それ以降では古典和歌本来のものを棄てて、藤原定家の翻訳した漢字交じり平仮名で表記されたものを聖典とするようになります。古今和歌集ですと古今伝授と言う相伝和歌道へと発展します。
古今和歌集 歌番1
<一字一音万葉仮名>
止之乃宇知尓者留者幾尓个利比止々世遠
己曽止也以者武己止之止也以者武
<漢字交じり平仮名>
年の内に春は来にけり一年を
去年とや言はむ今年とや言はむ
ここで、和歌表記スタイルを万葉集の時代に戻しますと、万葉集では次のようなおおむね四つのスタイルがあります。詩体歌には日本語の「てにをは」となる借音漢字を持たず、常体歌は語を示す漢字に日本語の「てにをは」となる借音漢字を持ちます。非詩体歌は一部に「てにをは」となる借音漢字を持ちます。
1)詩体歌
出見 向岡 本繁 開在花 不成不在
出でて見る向かひの丘に本(もと)繁く咲きたる花の成らすは止まし
2)非詩体歌
今造 斑衣服 面就 吾尓所念 未服友
今造る斑(まらた)の衣(ころも)面影(おもかけ)に吾にそ念(おも)ふいまた服(き)ねとも
3)常体歌
黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念
黄葉(もみちは)の、散りゆくなへに玉梓(たまつさ)の、使(つかひ)を見れは逢ひし日思ほゆ
4)一字一音万葉仮名歌
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹か見し楝の花は散りぬへし我か泣く涙いまた干なくに
この平安初期の段階での和歌表記の状況を想像しながら、新選万葉集の和歌表記を眺めてします。なお、序に「先生、非啻賞倭歌之佳麗、兼亦綴一絶之詩、插數首之左。(先生、啻(ただ)、倭歌の佳麗を賞(めで)るのみにあらず、兼ねて亦(また)一絶の詩を綴り、數首を左に插(はさ)む。)」の一文がありますから、新選万葉集の和歌は新選万葉集のために新たに創られた和歌ではなく、既に詠われ知られていた和歌を基に、漢詩だけを創作したことになっています。その既に詠われ知られていた和歌の多くは寛平御時皇后宮歌合から取られています。
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
和歌 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
推定 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選万葉集 歌番6 紀友則
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 頻るに花の香を遣はして遠近賒(はる)かにして、家家處處匣中(こうちゅう)に加ふ、黄鶯谷より出るに媒介無く、唯だ梅風を指斗(しるべ)と為すべし。
和歌 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
解釈 咲き匂う梅の香りを風の便りに添えて、鶯を誘い出す案内役として遣わせる。
寛平御時皇后宮歌合 歌番2
和歌 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
推定 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選万葉集 歌番120 源當純
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 溪の風は春を催し凍(こほり)を解すこと半、白波は岸を洗ひて明鏡と為す、初日、丹を含みて色(はな)は開(さ)くを欲し、咲くは殺(はなはだ)し、蘇少が家の梅柳。
和歌 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
解釈 谷間を吹く風により融ける氷の間ごとに、流れ出る水の波しぶきが春の最初の花であろうか。
寛平御時皇后宮歌合 歌番3
和歌 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
推定 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選万葉集 歌番2 素性法師
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 春風は處の物に觸れ皆楽しく、上苑の梅花は開(さ)きて落(ち)り、淑女は偷(ひそやか)に攀りて簪を作すに堪(もち)ひ、残香は袖に勾ひて拂へども卻(のぞ)き難たし。
和歌 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
解釈 花が散ってしまうと眺めて、散り終わってしまうべきなのに、梅の花は、余計なことに思いを残すその匂いが袖に残り香となって残っている。
寛平御時皇后宮歌合 歌番4
和歌 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
推定 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
歌番121 藤原興風
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 黄鶯は一年に一(ひとたび)般(めぐら)して啼き、歳月を積み數(あまた)の般(めぐ)る春に逢ふ、憐れむべし萬秋の鶯の音(ね)の希れなるを、應(まさ)に認(ゆる)すべし、年客の更に来往するを。
和歌 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
解釈 声が絶えないように鳴き続けよ、鶯よ、一年に二度とは来ない春なのだから。
ここで推定の借音一字一音和歌と新選万葉集の和歌を並べてみますと次の通りです。
寛平御時皇后宮歌合と新選万葉集との比較
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
寛平御時皇后宮歌合 歌番2
歌合 多尓可世尓 止久留己保利乃 飛満己止尓 宇知以川留奈美也 者留乃者川者奈
新選 谷風丹 解凍之 毎隙丹 打出留浪哉 春之初花
漢詩 溪風催春解凍半 白波洗岸為明鏡 初日含丹色欲開 咲殺蘇少家梅柳
読下 たにかせに とくるこほりの ひまことに うちいつるなみや はるのはつはな
寛平御時皇后宮歌合 歌番3
歌合 知留止美天 安留部幾毛乃遠 宇女乃者奈 宇多天尓保比乃 曾天尓止満礼留
新選 散砥見手 可有物緒 梅之花 別樣匂之 袖丹駐禮留
漢詩 春風觸處物皆楽 上苑梅花開也落 淑女偷攀堪作簪 残香勾袖拂難卻
読下 ちるとみて あるへきものを うめのはな うたてにほひの そてにとまれる
寛平御時皇后宮歌合 歌番4
歌合 己恵多衣寸 奈計也宇久比寸 飛止々世尓 不多々比止多尓 久部幾者留可者
新選 音不斷 鳴哉鶯 一年丹 再砥谷 可来春革
漢詩 黄鶯一年一般啼 歳月積逢數般春 可憐萬秋鶯音希 應認年客更来往
読下 こゑたえす なけやうくひす ひととせに ふたたひとたに くへきはるかは
私は正統な教育を受けていませんので精密な論が出来ません。それを踏まえて、紹介しました寛平御時皇后宮歌合の歌番号1から4までの和歌に対する新選万葉集の和歌と漢詩の対を比較しますと、どうも、次のような疑いが生じます。確かに寛平御時皇后宮歌合の和歌を基に漢詩を創作したのでしょう。ただ、同時に古万葉調の和歌表現も創作したのではないでしょうか。
例えば、歌番1の「交倍」を「たくへ」、「倡」を「さそふ」、「指南」を「しるべ」と読ませるものは平安時代初頭の和歌表記として存在したかです。この「たくへ」は皇后宮歌合の和歌での言葉の解説では「類へ」であり「添わせる、伴わせる」の意味を持つとされ、これは「交」の漢字の本義「俱也。共也、合也。」と同じです。和語からすれば安易な漢字選択は「類」ですが、それを「交」の選字です。ここに非常に漢詩を詠う時の選字の匂いがするのです。
また、藤原定家本からの字母研究からすると和歌集ではありませんが、散文の土佐日記に載る和歌でも次のような表記スタイルを取りますから、平安時代の寛平御時皇后宮歌合の和歌の表記に漢字交じり借音の一字一音の万葉仮名とし、積極的に漢詩要素を取り入れて表記を行ったか、この疑問が生じます。
土佐日記 和歌 (藤原定家本の字母)
原文 美也己以天ゝ幾美爾安者武止己之物遠己之可比毛奈久和可礼奴留可那
読下 みやこいてゝきみにあはむとこし物をこしかひもなくわかれぬるかな
解釈 都出でて君に逢はむと来し物を来しかひもなく別れぬるかな
つまり、皇后宮歌合の時代に標準的な和歌の表記スタイルが万葉集の常体歌などと同等な表記スタイルをしているのですと、新選万葉集の序の「漸尋筆墨之跡、文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。(漸(やくや)く筆墨の跡を尋ねるに、文句錯乱、詩に非ず賦に非ず、字對は雜揉し、雖(ただ)、入るに悟り難き。)」の文章と矛盾が生じます。皇后宮歌合の時代と同時代の新選万葉集の序を創った人物は万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルは和歌として平凡な人には読解が出来ないと指摘しているのに、一方では皇后宮歌合の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルで表記されていて、それをそのままに新選万葉集の和歌として取り込んだのかです。
もう一つ、例を挙げると平安時代初頭の歌人である伊勢の和歌は古今和歌集や後撰和歌集などにも取られていて、その和歌の表記は表語漢字を使わない借音漢字による一字一音表記で和歌を表記するスタイルで万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルではありません。もし、伊勢の和歌が万葉集の常体歌や詩体歌のスタイルと同等な漢字交じり借音一字一音仮名文字の表記スタイルなら、そのような表記スタイルの伊勢集を、表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記に翻訳した人がいることになりますし二種類の表記スタイルの伝本が存在しても良いことになります。
皇后宮歌合 歌番19 伊勢
和歌 美川乃宇部尓 安也緒利三多留 者留乃安女也 々満乃美止利遠 奈部天曾武良武
新選万葉集 歌番1 伊勢
和歌 水之上 丹文織紊 春之雨哉 山之緑緒 那倍手染濫
読下 みつのうへに あやおりみたる はるのあめや やまのみとりを なへてそむらむ
しかしながら、古典文学史ではそのような指摘はありません。古今和歌集の成立の延喜五年(905)までには、和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルは確立していたと、筑波大学の古今和歌集高野切の復元研究などの成果により現代では指摘します。時代を確認すると、伊勢は貞観14年(872)頃から天慶元年(938)頃の人で、皇后宮歌合は寛平5年(893)9月以前、新選万葉集は寛平5年(893)9月の成立です。つまり、歌人伊勢は和歌を表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠う時代の人なのです。
すると、皇后宮歌合の和歌は表語漢字を使わない借音漢字だけによる一字一音表記のスタイルで詠われていたとしますと、新選万葉集に載せる和歌は一字一音表記のものから、万葉調に新たに表記を創作したと推定されることになります。
寛平御時皇后宮歌合 歌番1
歌合 者奈乃可遠 可世乃多与利尓 多久部天曾 宇久比寸左曾布 之留部尓者也留
新選 花之香緒 風之便丹 交倍手曾 鶯倡 指南庭遣
漢詩 頻遣花香遠近賒 家家處處匣中加 黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指斗
読下 はなのかを かせのたよりに たくへてそ うくひすさそふ しるへにはやる
行きつ戻りつ、新選万葉集の和歌表記は菅家一門や当時の人々が理解・解釈していた万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したものとなります。それも漢詩に応じる和歌としての創作ですから、「媒介」に対し「倡」の選字と「さそふ」の読みでしょうし、「指斗」に対して「指南」の選字と「しるへ」の読みなのでしょう。
寛平御時皇后宮歌合 歌番174
歌合 和利奈久曾 祢天毛佐女天毛 己比良留々 宇良三緒以川知 也利天和須礼武
新選 無破曾 寢手裳覺手裳 恋良留留 怨緒五十人槌 遣手忘牟
漢詩 霜月軽往驚単人 曉樓鐘響覺眠人 恋破心留五十人 相思相語歳數處
読下 わりなくそ ねてもさめても こひらるる うらみをいつち やりてわすれむ
この組み合わせで、まず、漢詩の「五十人」は白居易の漢詩「燕子楼」に関わる五十歳で死んだ徐州長官「張仲素」を示唆するものです。それで相思相語歳の「歳」の人物像がはっきりと見えて来ます。この漢詩の「五十人」の言葉に対して和歌では無理に「五十人槌」と表し「いつち」と読ませます。
また、「無破曾」の表記について、万葉集では「見人無尓(見る人も無しに)」、「絶事無(絶える事無し)」などと和臭漢文のような表記をしますから、「破無曾」でも十分なのですが、漢詩が白居易の漢詩「燕子楼」を題材にしているために二夫に交えずの操を守った張氏の愛妓眄眄を示唆するために「無破曾」でなくてはいけないのです。実にアハハ!なのです。本来は皇后宮歌合の和歌を示すはずなのですが、白居易の漢詩「燕子楼」で遊んだために和歌が実に漢詩的な要素を持つのです。このような遊びがあるからか、序で「文句錯乱、非詩非賦、字對雜揉、雖入難悟。」と示唆するのでしょう。
面白いと思うか、実にとぼけた酔論と思うかは任せします。ただ、和歌の表記の変遷の歴史からすると、新選万葉集の和歌表記には特別な意図があるのです。それも単純に万葉集の詩体歌や常体歌の表記スタイルに擬えて創作したのではないのです。和歌なのですが漢詩的な遊び心の要素があるのです。
もし、大学生で面白いと思ったら、このような視線で新選万葉集を眺めてみたらどうでしょうか。よろしくお願いいたします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます