万葉雑記 色眼鏡 七十 あかしの浦
今回は『万葉集』の歌ではありませんが、柿本人麻呂に関係する歌を鑑賞します。
さて、平安時代中期以降において、今日でも柿本人麻呂の代表作品とされる歌があります。それが、『古今和歌集』羇旅歌の部立に載る次の歌です。この歌は、ある種、有名な歌ですし、明石柿本神社のテーマソング的な歌でもあります。
題しらず 読人知らず
409 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふなをしそおもふ
このうた、ある人のいはく、柿本の人麿がうたなり
この歌に対する評価についてインターネットで調べて見ますと、次のような歴史的な評論を見ることが出来ます。
これは昔のよき歌なり(藤原公任・新撰髄脳)。
上品上。これは言葉妙にして余りの心さへあるなり(藤原公任・和歌九品)。
柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり(藤原俊成・古来風躰抄)。
紹介しました平安時代を代表する歌学者である藤原公任や藤原俊成の評価により、『古今和歌集』に載るこの歌の価値が決定されたと考えます。ここに人麻呂を代表する秀歌であるとなったと考えられます。
最初に宣言しましたが、歌は『万葉集』に載る歌ではありません。歴史で最初に登場したのが『古今和歌集』ですし、その『古今和歌集』でも歌は「読人知らず」となっています。この時点では、まだ、柿本人麻呂の歌と断定はされていません。一方、『古今和歌集』より少し時代を下った藤原公任が残した『新撰髄脳』や『和歌九品』の歌論書は1041年の彼の死去以前に編まれたものです。そして、そこでは人麻呂の作品と断定されていますから、少なくとも、十一世紀初頭には「ほのぼのとあかしのうらの」の歌は人麻呂の代表作と目されていたと思われます。さらに、時代の下った藤原俊成が残した『古来風躰抄』は鎌倉時代初期となる1197年頃の歌学書ですので、平安時代中期以降、脈々と人麻呂秀歌と云う評価は受け継がれていったと推定されます。
このように、平安時代を通じ、『古今和歌集』では人麻呂作歌とは断定をしていませんでしたが、少なくとも歌は柿本人麻呂以外の人物の作品との認識は有りませんでした。人麻呂関連歌(人麻呂歌集の歌)、又は人麻呂による作歌が、平安歌人たちの認識です。
ところで、長い和歌の歴史では面白いことが生じるようです。平安時代を通じた歌論書などから「歌は人麻呂歌」との認識になるはずなのですが、近年の一部の早とちりの人は『今昔物語集』巻第二十四に載る「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話から、紹介した「ほのぼのとあかしのうらの」の歌を小野篁の作品と紹介します。実に不思議です。
小野篁の作品の根拠とされる「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話の抜粋を『今昔物語集四』(新日本古典文学大系 岩波書店)から紹介します。
今丑臼、小野篁と云人有けり。事有て隠岐国に被流ける時、船に乗て出立つとて、京に知たる人に許に、此く読て造ける、
わたのはらやそしまかけてこき出ぬとひとにはつけよあまのつりふね
と。
明石と云所に行て、其の夜(佰て、九月許りの事也けれは、明講に不被)樫て、詠め居たるに、船の行くか、島隠れ為るを見て、哀れと思て、此なむ読ける、
ほのほのとあかしの浦のあさきりに島かくれ行舟をしそおもふ
と云てそ泣ける。此れは篁か返て語るを聞て語り伝へたるとや。
先に紹介しましたように、この「ほのぼのとあかしのうらの」の歌の初出は平安初期(905年)成立の『古今和歌集』であり、平安末期から鎌倉時代初期の作品(推定で1120年代ごろ)とされる『今昔物語集』との間には二百年もの時間の流れがあります。その間、小野篁作品説を説くものはありません。反って、多くの歌論書は『古今和歌集』や『拾遺和歌集』などから柿本人麻呂の作品とします。およそ、「ほのぼのとあかしのうらの」の歌が小野篁の作品とするには、慎重にその根拠と考察を行うことが求められますし、和歌の歴史を知る必要があるようです。従いまして、小野篁の作品とするには、まず、『古今和歌集』に載る左注の記事を否定することから始めなくてはいけません。およそ、小野篁作品説とは、そのような話題が『今昔物語集』に載っているとするのが良いようです。それに『今昔物語集』では小野篁の作品される『古今和歌集』の歌番407の「わたの原」の歌は「読テ造ケル」とありますが、歌番409の「ほのぼのと」の歌は「此ナム読ケル」とあります。このように説話では微妙に表記を変えています。このあたりの事情については徳原茂実氏の「小野篁の船出―『わたの原八十島かけて』考―」にも示されていますので、インターネット検索で確認してください。なかなか、その背景の解説には興味深いものがありますし、小野篁の作品説を唱える人は『古今和歌集』も『今昔物語集』も共に丁寧にテキストを参照していないような人であることが示唆されています。
なお雑談参考として、徳原茂実氏の稿によると、小野篁は隠岐国配流に際し延喜式に載る規定の官道ルートに従い平安京から陸路、山陰道を使い、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国を経て出雲国千酌駅(松江市美保関町)の船着場から隠岐島へと渡海した紹介しています。つまり、小野篁は伝統の『今昔物語集』の解説で示される攝津国川尻の湊からの船出や明石沖合の航行とは関係が無いことは明らかです。インターネットの時代、このような調査がわずかな時間で行えますし、その裏付け調査も容易であります。このことは、一面、便利ですが、文筆や公表に際して恐ろしいものがあります。
ここでさらに雑談を続けますと、平安中期頃に梨壷五人が行った万葉集訓読成果(万葉集古点)を下にその読み解かれた万葉短歌から短歌作歌するときの手本書として万葉集秀歌集が編まれたようです。この最初期に編まれた手引書となる万葉集秀歌集には柿本人麻呂作歌や柿本人麻呂歌集のものが取り入れられていますので早い時期から人麻呂秀歌集のような呼び名を持たせたようです。その後、時代が下るにつれて、本来は短歌作歌の手本書を目的とした万葉集秀歌集であるものが柿本人麻呂秀歌集とみなされるようになり、いつしか、すべての歌が人麻呂作歌と信じられるようになったと思われます。それが『柿本集』とか『人丸集』とか呼ばれるものです。ちょうどそれは、『今昔物語集』に載る小野篁の隠岐国配流の説話は『古今和歌集』に載る羇旅歌をヒントに作られた創作説話ですが、いつしか、それを史実と思い込んだのと同じ現象が起きたようです。
舞台裏を見せるようですが、ここまでの与太話をするために『人麿集』(または『柿本集』)を調査し、検索に向く形に編集し、このブログに収容しました。さらにそれの検索性を利用して『古今和歌集』や『拾遺和歌集』に載る柿本人麻呂歌の出典関係を整理し、これもまた、このブログに収容しました。興味が御有りでしたら参考にして下さい。実にオタク的な行いです。
さて、この「ほのぼのとあかしのうらの」の歌は、小野篁に関係する伝統の解説から現在の兵庫県明石市の海岸の風景を詠った歌と解釈されています。ところが、平安時代初期、『古今和歌集』の時代の人々がこの歌が明石地方の風景を詠ったものと解釈していたかと云うとその確証はありません。古く、風景が現実と一致しないと云う指摘もあります。
ここで重要なことは、『古今和歌集』などの古典短歌は一字一音の万葉仮名や変体仮名で表記されますから「明石」と云う漢風の匂いを漂わす漢字表記ではなかったはずです。本来は変体仮名表記での漢字文字三字だったはずです。この点について、筑波大学にて行われた高野切本古今和歌集復元事業の報告によりますと、少なくとも、平安中期に遡る『高野切本古今和歌集』では「歌中に漢字を交えないのが原則」とされています。つまり、「あかしのうら」は「明しの浦」、「飽かしの浦」、「明石の浦」などと複数に解釈されるものであって、もし、「あかしの浦」が「ほのぼのと」と現代語での「かすかに、わずかに、ほのかに」と解釈される語によって形容されるのであれば、朝焼けや夜明けを示す「明しの浦」や景色に堪能したと云う意味合いでの「飽かしの浦」の解釈の方が相応しいものとなります。その時、歌は写実ではなく、回想の歌である可能すら浮かんで来るのです。そこに藤原公任が云う「言葉妙にして余りの心さへある」が示されるのではないでしょうか。『古今和歌集』の歌は言葉遊びを最大限に楽しむ歌ですから、掛詞を前提として複線的に楽しむ必要があります。さて、「あかしのうら」の言葉はどのように楽しむべき言葉だったのでしょうか。専門歌人の鑑賞を待ちたいところです。
おまけとして、「ほのぼのとあかしのうらの」の歌と同じように『古今和歌集』に「題しらず よみ人しらず」の歌ですが、「この歌ある人のいはく、柿本人麿がなり」との左注を持つ歌があります。それを次に紹介します。読みの対比として平安時代中期以降に編まれたと思われる『柿本集』のものを紹介します。ほぼ、同じ読みをしていますが、若干、異同があるものもあります。
0135 わかやとの いけのふちなみ さきにけり やまほとときす いつかきなかむ
書下 我が宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ
柿本集 わかやとの いけのふちなみ さきにけり やまほとときす いつかきなかむ
0211 よをさむみ ころもかりかね なくなへに はきのしたはも うつろひにけり
書下 夜を寒み衣雁が音鳴くなへに萩の下葉も移ろひにけり
柿本集 よをさむみ ころもかりかね なくなへに はきのしたはは いろつきにけり
0334 うめのはな それともみえす ひさかたの あまきるゆきの なへてふれれは
書下 梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば
柿本集 うめのはな それともみえす ひさかたの あまきるゆきの なへてふれれは
0409 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
書下 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
柿本集 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
0621 あはぬよの ふるしらゆきと つもりなは われさへともに けぬへきものを
書下 逢はぬ夜の降る白雪と積もりなば我さへともに消ぬべきものを
柿本集 あはぬよの ふるしらゆきと つもりなは われさへともに きえぬへきかな
0671 かせふけは なみうつきしの まつなれや ねにあらはれて なきぬへらなり
書下 風吹けば浪打つ岸の松なれや根にあらはれて泣きぬべらなり
柿本集 かせふけは なみたつきしの まつなれや ねにあらはれて なきぬへらなり
0907 あつさゆみ いそへのこまつ たかよにか よろつよかねて たねをまきけむ
書下 梓弓磯辺の小松誰が世にかよろづ世かねて種をまきけむ
柿本集には見えない歌です。
おまけのおまけとして、さらに追加として、『古今和歌集』ではありませんが『拾遺和歌集』に載る歌を紹介します。こちらの方は『万葉集』に柿本人麻呂が詠う本歌があります。
歌番145 あまのかは こそのわたりの うつろへは あさせふむまに よそふけにける
<万葉集> 集歌2018 天漢 去歳渡代 遷閇者 河瀬於踏 夜深去来
訓読 天つ川去年(こぞ)し渡りゆ遷(うつ)ろへば川瀬を踏みし夜ぞ更(ふ)けにける
<柿本集>
歌番038 あまのかは こそのわたりの うつろへは あさせふむるに よそふけにける
このように『万葉集』に載る漢語・万葉仮名だけで表記された歌の言葉をどのように解釈するかで、歌の表情は変わります。先の「ほのほのと」の歌も、次に紹介する集歌189の歌のように漢語・万葉仮名では時に「欝悒」と表記していたかもしれません。この「欝悒」の表記は一般に「おほほしく」と訓みますが、「ほのぼのと」とも訓んでも良いのかもしれません。なお、古語辞典からしますと標準では「仄々」が推定される漢字表記です。「欝」の字は康熙字典のよりますと、「木叢生也」とありますが、一方、「又氣也、長也、幽也」と説明される字でもあります。
解釈に対する、為にした遊びです。
集歌189 且日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛
私訓 且(い)く日照る嶋の御門に欝悒(おほほ)しく人(ひと)音(ね)もせねばまうら悲しも
私訳 空を行く太陽の照る嶋の御門に、鬱々として人の物音もしないと、本当に寂しいことです。
注意 原文の「且日照」は、一般に「旦日照」の誤記として「朝日照る」と訓みます。そのため歌意が違います。
試訓 且(い)く日照る嶋の御門にほのぼのと人(ひと)音(ね)もせねばまうら悲しも
試訳 空を行く太陽の照る嶋の御門に、わずかにも人の物音もしないと、本当に寂しいことです。
注意 古語「ほのぼの」の語は「わずかに、かすかに」と云う意味をとります。
実験ですが、これを面白いと思っていただけると幸せです。時に『万葉集』の解釈では平安中期の解釈が本来は正しいのかもしれません。
今回は『万葉集』の歌ではありませんが、柿本人麻呂に関係する歌を鑑賞します。
さて、平安時代中期以降において、今日でも柿本人麻呂の代表作品とされる歌があります。それが、『古今和歌集』羇旅歌の部立に載る次の歌です。この歌は、ある種、有名な歌ですし、明石柿本神社のテーマソング的な歌でもあります。
題しらず 読人知らず
409 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふなをしそおもふ
このうた、ある人のいはく、柿本の人麿がうたなり
この歌に対する評価についてインターネットで調べて見ますと、次のような歴史的な評論を見ることが出来ます。
これは昔のよき歌なり(藤原公任・新撰髄脳)。
上品上。これは言葉妙にして余りの心さへあるなり(藤原公任・和歌九品)。
柿本朝臣人麿の歌なり。この歌、上古、中古、末代まで相かなへる歌なり(藤原俊成・古来風躰抄)。
紹介しました平安時代を代表する歌学者である藤原公任や藤原俊成の評価により、『古今和歌集』に載るこの歌の価値が決定されたと考えます。ここに人麻呂を代表する秀歌であるとなったと考えられます。
最初に宣言しましたが、歌は『万葉集』に載る歌ではありません。歴史で最初に登場したのが『古今和歌集』ですし、その『古今和歌集』でも歌は「読人知らず」となっています。この時点では、まだ、柿本人麻呂の歌と断定はされていません。一方、『古今和歌集』より少し時代を下った藤原公任が残した『新撰髄脳』や『和歌九品』の歌論書は1041年の彼の死去以前に編まれたものです。そして、そこでは人麻呂の作品と断定されていますから、少なくとも、十一世紀初頭には「ほのぼのとあかしのうらの」の歌は人麻呂の代表作と目されていたと思われます。さらに、時代の下った藤原俊成が残した『古来風躰抄』は鎌倉時代初期となる1197年頃の歌学書ですので、平安時代中期以降、脈々と人麻呂秀歌と云う評価は受け継がれていったと推定されます。
このように、平安時代を通じ、『古今和歌集』では人麻呂作歌とは断定をしていませんでしたが、少なくとも歌は柿本人麻呂以外の人物の作品との認識は有りませんでした。人麻呂関連歌(人麻呂歌集の歌)、又は人麻呂による作歌が、平安歌人たちの認識です。
ところで、長い和歌の歴史では面白いことが生じるようです。平安時代を通じた歌論書などから「歌は人麻呂歌」との認識になるはずなのですが、近年の一部の早とちりの人は『今昔物語集』巻第二十四に載る「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話から、紹介した「ほのぼのとあかしのうらの」の歌を小野篁の作品と紹介します。実に不思議です。
小野篁の作品の根拠とされる「小野篁被流隠岐国時読和歌語第四十五」の説話の抜粋を『今昔物語集四』(新日本古典文学大系 岩波書店)から紹介します。
今丑臼、小野篁と云人有けり。事有て隠岐国に被流ける時、船に乗て出立つとて、京に知たる人に許に、此く読て造ける、
わたのはらやそしまかけてこき出ぬとひとにはつけよあまのつりふね
と。
明石と云所に行て、其の夜(佰て、九月許りの事也けれは、明講に不被)樫て、詠め居たるに、船の行くか、島隠れ為るを見て、哀れと思て、此なむ読ける、
ほのほのとあかしの浦のあさきりに島かくれ行舟をしそおもふ
と云てそ泣ける。此れは篁か返て語るを聞て語り伝へたるとや。
先に紹介しましたように、この「ほのぼのとあかしのうらの」の歌の初出は平安初期(905年)成立の『古今和歌集』であり、平安末期から鎌倉時代初期の作品(推定で1120年代ごろ)とされる『今昔物語集』との間には二百年もの時間の流れがあります。その間、小野篁作品説を説くものはありません。反って、多くの歌論書は『古今和歌集』や『拾遺和歌集』などから柿本人麻呂の作品とします。およそ、「ほのぼのとあかしのうらの」の歌が小野篁の作品とするには、慎重にその根拠と考察を行うことが求められますし、和歌の歴史を知る必要があるようです。従いまして、小野篁の作品とするには、まず、『古今和歌集』に載る左注の記事を否定することから始めなくてはいけません。およそ、小野篁作品説とは、そのような話題が『今昔物語集』に載っているとするのが良いようです。それに『今昔物語集』では小野篁の作品される『古今和歌集』の歌番407の「わたの原」の歌は「読テ造ケル」とありますが、歌番409の「ほのぼのと」の歌は「此ナム読ケル」とあります。このように説話では微妙に表記を変えています。このあたりの事情については徳原茂実氏の「小野篁の船出―『わたの原八十島かけて』考―」にも示されていますので、インターネット検索で確認してください。なかなか、その背景の解説には興味深いものがありますし、小野篁の作品説を唱える人は『古今和歌集』も『今昔物語集』も共に丁寧にテキストを参照していないような人であることが示唆されています。
なお雑談参考として、徳原茂実氏の稿によると、小野篁は隠岐国配流に際し延喜式に載る規定の官道ルートに従い平安京から陸路、山陰道を使い、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国を経て出雲国千酌駅(松江市美保関町)の船着場から隠岐島へと渡海した紹介しています。つまり、小野篁は伝統の『今昔物語集』の解説で示される攝津国川尻の湊からの船出や明石沖合の航行とは関係が無いことは明らかです。インターネットの時代、このような調査がわずかな時間で行えますし、その裏付け調査も容易であります。このことは、一面、便利ですが、文筆や公表に際して恐ろしいものがあります。
ここでさらに雑談を続けますと、平安中期頃に梨壷五人が行った万葉集訓読成果(万葉集古点)を下にその読み解かれた万葉短歌から短歌作歌するときの手本書として万葉集秀歌集が編まれたようです。この最初期に編まれた手引書となる万葉集秀歌集には柿本人麻呂作歌や柿本人麻呂歌集のものが取り入れられていますので早い時期から人麻呂秀歌集のような呼び名を持たせたようです。その後、時代が下るにつれて、本来は短歌作歌の手本書を目的とした万葉集秀歌集であるものが柿本人麻呂秀歌集とみなされるようになり、いつしか、すべての歌が人麻呂作歌と信じられるようになったと思われます。それが『柿本集』とか『人丸集』とか呼ばれるものです。ちょうどそれは、『今昔物語集』に載る小野篁の隠岐国配流の説話は『古今和歌集』に載る羇旅歌をヒントに作られた創作説話ですが、いつしか、それを史実と思い込んだのと同じ現象が起きたようです。
舞台裏を見せるようですが、ここまでの与太話をするために『人麿集』(または『柿本集』)を調査し、検索に向く形に編集し、このブログに収容しました。さらにそれの検索性を利用して『古今和歌集』や『拾遺和歌集』に載る柿本人麻呂歌の出典関係を整理し、これもまた、このブログに収容しました。興味が御有りでしたら参考にして下さい。実にオタク的な行いです。
さて、この「ほのぼのとあかしのうらの」の歌は、小野篁に関係する伝統の解説から現在の兵庫県明石市の海岸の風景を詠った歌と解釈されています。ところが、平安時代初期、『古今和歌集』の時代の人々がこの歌が明石地方の風景を詠ったものと解釈していたかと云うとその確証はありません。古く、風景が現実と一致しないと云う指摘もあります。
ここで重要なことは、『古今和歌集』などの古典短歌は一字一音の万葉仮名や変体仮名で表記されますから「明石」と云う漢風の匂いを漂わす漢字表記ではなかったはずです。本来は変体仮名表記での漢字文字三字だったはずです。この点について、筑波大学にて行われた高野切本古今和歌集復元事業の報告によりますと、少なくとも、平安中期に遡る『高野切本古今和歌集』では「歌中に漢字を交えないのが原則」とされています。つまり、「あかしのうら」は「明しの浦」、「飽かしの浦」、「明石の浦」などと複数に解釈されるものであって、もし、「あかしの浦」が「ほのぼのと」と現代語での「かすかに、わずかに、ほのかに」と解釈される語によって形容されるのであれば、朝焼けや夜明けを示す「明しの浦」や景色に堪能したと云う意味合いでの「飽かしの浦」の解釈の方が相応しいものとなります。その時、歌は写実ではなく、回想の歌である可能すら浮かんで来るのです。そこに藤原公任が云う「言葉妙にして余りの心さへある」が示されるのではないでしょうか。『古今和歌集』の歌は言葉遊びを最大限に楽しむ歌ですから、掛詞を前提として複線的に楽しむ必要があります。さて、「あかしのうら」の言葉はどのように楽しむべき言葉だったのでしょうか。専門歌人の鑑賞を待ちたいところです。
おまけとして、「ほのぼのとあかしのうらの」の歌と同じように『古今和歌集』に「題しらず よみ人しらず」の歌ですが、「この歌ある人のいはく、柿本人麿がなり」との左注を持つ歌があります。それを次に紹介します。読みの対比として平安時代中期以降に編まれたと思われる『柿本集』のものを紹介します。ほぼ、同じ読みをしていますが、若干、異同があるものもあります。
0135 わかやとの いけのふちなみ さきにけり やまほとときす いつかきなかむ
書下 我が宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ
柿本集 わかやとの いけのふちなみ さきにけり やまほとときす いつかきなかむ
0211 よをさむみ ころもかりかね なくなへに はきのしたはも うつろひにけり
書下 夜を寒み衣雁が音鳴くなへに萩の下葉も移ろひにけり
柿本集 よをさむみ ころもかりかね なくなへに はきのしたはは いろつきにけり
0334 うめのはな それともみえす ひさかたの あまきるゆきの なへてふれれは
書下 梅の花それとも見えず久方の天霧る雪のなべて降れれば
柿本集 うめのはな それともみえす ひさかたの あまきるゆきの なへてふれれは
0409 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
書下 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
柿本集 ほのほのと あかしのうらの あさきりに しまかくれゆく ふねをしそおもふ
0621 あはぬよの ふるしらゆきと つもりなは われさへともに けぬへきものを
書下 逢はぬ夜の降る白雪と積もりなば我さへともに消ぬべきものを
柿本集 あはぬよの ふるしらゆきと つもりなは われさへともに きえぬへきかな
0671 かせふけは なみうつきしの まつなれや ねにあらはれて なきぬへらなり
書下 風吹けば浪打つ岸の松なれや根にあらはれて泣きぬべらなり
柿本集 かせふけは なみたつきしの まつなれや ねにあらはれて なきぬへらなり
0907 あつさゆみ いそへのこまつ たかよにか よろつよかねて たねをまきけむ
書下 梓弓磯辺の小松誰が世にかよろづ世かねて種をまきけむ
柿本集には見えない歌です。
おまけのおまけとして、さらに追加として、『古今和歌集』ではありませんが『拾遺和歌集』に載る歌を紹介します。こちらの方は『万葉集』に柿本人麻呂が詠う本歌があります。
歌番145 あまのかは こそのわたりの うつろへは あさせふむまに よそふけにける
<万葉集> 集歌2018 天漢 去歳渡代 遷閇者 河瀬於踏 夜深去来
訓読 天つ川去年(こぞ)し渡りゆ遷(うつ)ろへば川瀬を踏みし夜ぞ更(ふ)けにける
<柿本集>
歌番038 あまのかは こそのわたりの うつろへは あさせふむるに よそふけにける
このように『万葉集』に載る漢語・万葉仮名だけで表記された歌の言葉をどのように解釈するかで、歌の表情は変わります。先の「ほのほのと」の歌も、次に紹介する集歌189の歌のように漢語・万葉仮名では時に「欝悒」と表記していたかもしれません。この「欝悒」の表記は一般に「おほほしく」と訓みますが、「ほのぼのと」とも訓んでも良いのかもしれません。なお、古語辞典からしますと標準では「仄々」が推定される漢字表記です。「欝」の字は康熙字典のよりますと、「木叢生也」とありますが、一方、「又氣也、長也、幽也」と説明される字でもあります。
解釈に対する、為にした遊びです。
集歌189 且日照 嶋乃御門尓 欝悒 人音毛不為者 真浦悲毛
私訓 且(い)く日照る嶋の御門に欝悒(おほほ)しく人(ひと)音(ね)もせねばまうら悲しも
私訳 空を行く太陽の照る嶋の御門に、鬱々として人の物音もしないと、本当に寂しいことです。
注意 原文の「且日照」は、一般に「旦日照」の誤記として「朝日照る」と訓みます。そのため歌意が違います。
試訓 且(い)く日照る嶋の御門にほのぼのと人(ひと)音(ね)もせねばまうら悲しも
試訳 空を行く太陽の照る嶋の御門に、わずかにも人の物音もしないと、本当に寂しいことです。
注意 古語「ほのぼの」の語は「わずかに、かすかに」と云う意味をとります。
実験ですが、これを面白いと思っていただけると幸せです。時に『万葉集』の解釈では平安中期の解釈が本来は正しいのかもしれません。
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