竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 庚寅年籍(こういんねんじゃく)

2014年05月18日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
庚寅年籍(こういんねんじゃく)

 政治に目を戻す。
 朱雀八年(679)正月、高市皇子は大海人大王の名で公での礼を定める詔を下した。朝廷はその詔で、大王の神祀りと云う政策の下、その政治的立場が形作られて来た里や氏族の神主や祝部となる氏上を継ぐべき者の資格とあるべき姿を示した。今後、氏上となるべき人物は生母の血の優劣と長幼の順により択ばれることになる。
 大王家もまたこの詔に拘束される。左大臣を執る高市皇子は生母の血筋の貴卑と長幼の順に従い天下の礼を行うと云う施策を示すことで、大王の皇太子は草壁皇子であると予告した。そして、太政官の責任者である高市皇子は、自ら大王の位に一番近い立場を放棄した。
 その五月、倭の古例では大王を継ぐ可能性のある皇子全員が吉野に集い、生母の血筋の貴卑と長幼の順により皇統を決める新しい大王継承方法について盟約を立てた。ここに、草壁皇子の立太が定まった。

 大海人大王と高市皇子は、さらに神祀りによる大和の統治を進めた。
 大王が祭主となる神祀りに招聘されるべき氏族の神主はその氏上と規定し、大海人大王や高市皇子は招聘される者を選別して行った。そして、その氏上を継ぐべき者の血の資格を天下の礼で明らかにした。生母の血筋の貴卑と長幼の順によって氏上を継ぐべき者の資格とあるべき姿を示したことは、既存の氏族の氏上どもにとって地位を保つのに好ましい施策であり、その朝廷の方針に賛同した。さらに国々の国造や郡司にとって大王が推し進める神祀りによる統治は既存の体制・秩序を維持し、また、国造や里長の立場を兼ねる彼らの財を富ます形で表れている。これもまた好ましいことであった。
 高市皇子、伊勢王や中臣大嶋は、この神祀りによって大和統治の体制の固定化を図った。大王家が行う神祀りの神々の由来、係属、序列を明らかにし、それに繋がる大王家と氏族の関係を明文化した。この目的で朱雀十一年(682)十二月、大海人大王は詔を下し、各氏族に氏上を頂点にその氏族の係累と出身を明らかにすることを求めた。そして、その氏族の係累と出身は官に書類を提出し、理官による登録とその写しを証する押印を受けることを求めた。
 氏族の氏上に、この詔は己の立場を明らかにするものとして反対する者はいない。里の郡司や里長どもは国造や倭の大族に己の一族の故を求め、その国造や倭の大族は大王家にその故を求めた。遠い昔、帰化した者どもは、秦・漢や百済の王家に出身を求め、帰化したその根拠を倭の大王の招聘に置いた。それを理官の大三輪臣高市麻呂が整理し、矛盾を問い質した。
 氏族の係累と出身の届けにより大和の氏族は、改めて、その出身から身分が区分され、王族系の十三氏に真人、遠く大王に源を持つ五十二氏に朝臣、古くから大王に仕える五十氏に宿禰、国造や遠く帰化した者ども五十二氏に連の姓を新たに与えた。さらに、その連の姓を与えられた者の中で大族の十一氏には改めて忌寸の姓に直した。結果、大和の氏族は真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八つの姓の下に集約されていった。この八色の姓の制と呼ばれる氏姓改革は、朱雀十四年(685)六月、十一氏に忌寸の姓を新たに与えて、一旦の目途となった。

 氏姓改革の作業を通じ、大和は大王家と忌寸までの重要な百二十六氏族に集約された。つまり、大王と百二十六人の氏上が神祀りを通じて人々を支配する。そして、生母の血筋の貴卑と長幼の順による氏上を継ぐべき者を定める詔は、国家の体制を固定する。帝紀や国書はこの新たに定められた大王家と百二十六氏族の歴史を反映する。
 大和の氏族の整備は、同時に氏上を頂点とした氏族の戸籍の整備と等しい。氏上が提出する氏族の名簿は、それぞれの系図を明確にし、部外者を排除する。それと同時に一族の者どもを名簿に記載することで、時に諱の風習で肉親しかその存在を知られない女子や子供を含めた氏族構成員全体が網羅された。そして、それが朝廷に報告され、記録された。ここに初めて、大和の朝廷は豪族や渡来人たちの全容を知ることになった。また、氏上の代替わりに朝廷が関与することの根拠が生まれ、次第、支配と序列化が進んでいった。

 朱雀十年(681)三月、大海人大王は帝紀の編纂に着手した。大和の帝紀を編むことで皇統を明らかにし、従う臣下の氏族としての由来と序列関係を明確化する。帝紀の編纂の終盤、朱鳥六年(691)になって大和の大族十八氏族に帝紀の原案を示した上で、先祖の事績の記録を提出させた。大族十八氏族は帝紀と整合を取り、家系図と戸籍簿の機能を併せ持つ本系図を提出した。
 さらに朱雀十四年(685)正月、行政制度の整備の進行に合わせ、朝廷は官位の制度を従来の制度より細分化し改めた。その九月には飛鳥浄御原宮から官人を全国に送り、国々の国造や里長たちの実情や氏族の歴史や根拠とその係属関係を確認させた。また、帝紀の編纂において必要となる地方の説話をも採取した。
 途中、朱雀十五年九月の大海人大王の崩御で帝紀の編纂等の中断はあったが、大王が大和を統一し、臣民を支配する体制が整って来た。朝廷は氏族の内実を八色の姓の制度と氏上制度によりその詳細を知り、氏上の任命や本系図の載せる新たな係累の変更・追加の承認は大王の権限にある。巧妙に大王と氏族ども、また、氏族同士での上下関係が明文化され、固定化されて行った。

 朱鳥四年(689)六月、浄御原令が公布された。
 そして、その閏八月、朝廷は全国の臣民の戸籍の整備に着手し、諸国の国司守に戸主の確定と翌年九月に実施される戸籍の編纂の準備を命じた。戸籍編纂の準備として、同年九月、明年に行う戸籍整備のために許可を得ない人の移動を禁じ、さらに諸国の国司守に対し、氏族の係累か、戸主の下に入らない者を浮浪とし、その捕獲を命じた。この過程で里毎に行政に携わる公の郡司と里長とが定められ、ひいては大和全国の国造や祝部どもが大王の神祀りに招聘され里の神祀りの幣帛(みてぐら)を降される者とそうでない者とに峻別された。
 結果、大王が祭主となる神祀りに招聘され、班弊される者は三千百三十二名となった。全国からこれほどの人々を招聘する関係から、年に一度、初春の祈年祭に明日香新益京へ集うことになった。特別に選ばれた国造や祝部どもは、その名誉のため、また、地位を守るために万難を排してこの大王の神祀りに集った。交通の便が困難な古代、越国や但馬国の国造や祝部たちは決死の思いで豪雪の北陸の冬山を越えた。また、東国の祝部は氷点下、寒風吹くすさぶ峠を幾つも越え倭へと参集した。それほどの大王の権威が大和に広がった。この全国の国造や祝部どもは古風の礼としてその里毎の特産品を神の貢ぎとして飛鳥へと運んだ。それを自主的にすれば神への貢ぎであり、朝廷が品と数量を割り当てれば律令体制での調の租税となる。知らず知らず、租庸調の骨格が大和の里に染み込み、築かれた。そして、神祀りに集う国造や祝部どもは里の行政では郡司や里長の顔を持つ。
 朱鳥五年(690)九月、朝廷は前年の予告に従い、戸令に依った戸籍の編纂とその報告を行わせた。ここに全国におよぶ庚寅年籍と呼ばれる戸籍の整備はなった。八色の姓の制度による氏上制度による本系図と庚寅年籍、それに僧籍によって、すべての大和の人々の戸籍が記録・登録される制度が整った。これに載らない民は令外の民であり、蕃族となる。
 朱鳥七年(692)九月、畿内から順次、正確な戸籍簿に基づく班田収受が開始された。また、神祀りの神税から租庸調の租税体系へと整えられていった。ここに、壬申の乱から大海人皇子・高市皇子親子が目指した大王による大和統一の骨格は成った。大和は大海人皇子が企画したように、武力による国家の統一ではなく、神祀りと云う方法で平和裏に統一を成し遂げた。それは、壬申の乱からわずか二十年の後のことであった。

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