竹取翁と万葉集のお勉強

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初夜の儀を考える

2009年09月06日 | 万葉集 雑記
初夜の儀を考える

 万葉集の相聞歌を楽しむとき、女性が初めての男女の関係をドキドキして期待して詠うような歌は、人麻呂歌集の歌を除くと無いのではないか、と云う位にありません。そこで、万葉集の相聞歌を鑑賞する上での基礎データとなる女性の「初夜の儀」に注目して万葉集を見てみたいと思います。
 この女性の「初夜の儀」に関して、インターネット検索を行ってみますと古代日本での「結婚を基準」とした視線での解説がありますが、ここでは、妻問う婚時代を前提として、子供が出来た後の事実婚となる古代の婚姻形態から離れて、別な角度から女性の「初夜の儀」についてみてみたいと思います。
 さて、現代の感覚的な言葉に、女性の「処女を失う」に対して、男性の「童貞を失う(卒業)」があります。最初に、調べが簡単な、この「童貞を失う」に注目します。調べてみますと、古代において「童貞を失う」とは一つの重要な儀式です。その重要な儀式の名称は、貴族では「袴の儀」であり、庶民では「褌祝」です。そして、現代の成人式に等しい「袴の儀」や「褌祝」の儀式の夜の部として、「童貞を失う」のが儀礼でした。この夜の儀式において、天皇・貴族の場合は、将来の女御候補や側となる経験ある年上の女性が選ばれて、昼に「袴の儀」を行った男子に対して夜にはその女性が性の実技指導をすることになっています。これが有名な「添臥」という習慣です。ちなみに、「添臥」の女性は母方の親族で年上の女性が勤めるという習慣がありました。これを基準とすると、歴史上、確実に「添臥」と思われる有名な女性は軽皇子(後の文武天皇)の夫人とされる藤原宮子ですし、その夜の実技指導のときに妊娠した御子が首皇子と思われます。
 また、庶民においては、次のような解説があります。

褌祝の祭事は、子に性技の作法を伝える、性教育の儀式でもあったと言われる。母系家族の代表である母親が、男児が成長し、生殖能力を備えたことを祝い、その幸福と成功を祝う儀式として、母方の家系の姉妹が男児の最初の性行為、初交、童貞喪失の相手として選ばれた。それ以前では、母親が直接の相方となっていたようだが、近親相姦のタブーが広まったことから、母方の姉妹、血族以外の女性と変遷したようだ。

とあります。この「袴の儀」や「褌祝の祭事」の習慣とは、古代において男性の成人式において女性との生殖行為を前提とした性の実技を教授し、大人へ男となる儀式だったようです。

 では、女性はどうだったのでしょうか。私は、古代においては男女同権だったと思っています。つまり、男性に対するものとして女性の成人式の儀式として、貴族の娘では「裳着の儀」であり、庶民では「腰巻祝」、「湯文字祝」や「結髪祝」と称する儀式が、それに相当するのではないでしょうか。インターネット検索では、一部の地域では戦前までこの古風が保たれ、褌祝と同じ事をしていたとの記事を見ることが出来ます。また、明治時代でも確認できる「夜這い」を行う風習の中で、初潮を迎えた娘の家で赤飯を炊き、それを周囲に振舞う行為は、「褌祝の祭事」の習慣の意味を考えたとき、古代において男女同権であったと推定が可能と思います。
 ただし、時代背景を考えると、飛鳥時代から平安期では「裳着の儀」が、十三四歳位で行われたようですが、江戸期では「裳着の儀」が七歳位で行なうようになっています。従いまして、ここでは古代においての男女同権は平安中期ぐらいまでを想定したいと思います。
 こうしたとき、日本書紀に飯豊皇女の「初夜の儀」の記事がありますので、それを紹介します。
日本書紀 清寧三年七月 の記事より

原文 秋七月、飯豊皇女、於角刺宮、与夫初交。謂人曰、一知女道。又安可異。終不願交於男。此曰有夫、未詳也。
訓読 秋七月に、飯豊皇女、角刺宮にして、初めて夫と交したまふ。人に謂ひて曰く「一女の道を知りぬ。又、なんぞ異なるべけむ。終に男と交はむことを願はじ。」とのたまふ。此に夫有りと曰へること、未だ詳ならず。

 日本書紀での、この飯豊皇女の夫ではない男性との初交の記事は唐突に現れ、この記事と前後の記事には文脈においてなんの関係もありません。ただし、この飯豊皇女は兄弟天皇である顕宗天皇と仁賢天皇とでは姉弟関係があり、その顕宗天皇に対して姉の位置にあります。御子のいない清寧天皇が清寧五年正月十六日に亡くなられたとき、飯豊皇女が「初交」を行い男を知る大人の女性であったことは、清寧三年七月の記事から確認できます。このために、顕宗天皇が即位されるまでの間、飯豊皇女が「大人の女である中皇命」として皇位を継いだことになります。
 日本書紀が書かれたとき、飯豊皇女の例から推定して成人女性の判断基準が「初交」にあるとすると、成人男子の「袴の儀」での「添臥」と見合いになってきます。飛躍ですが、「袴の儀」での「添臥」との性交があるなら、「裳着の儀」での「初交」があったと推定が出来ると思います。

 この妄想を前提に万葉集の次の歌を眺めてみたいと思います。これらは、本来の扱いでは新婚祝いの旋頭歌です。

集歌2351 新室 壁草苅邇 御座給根 草如 依逢未通女者 公随
訓読 新室(にひむろ)の 壁草(かべくさ)刈りに 坐(いま)し給(たま)はね 草のごと 寄り合ふ未通女(をとめ)は 君がまにまに
私訳 新室の壁を葺く草刈り御出で下さい 刈った草を束ね寄り合うように寄り添う未通女は貴方の御気にますままに

集歌2352 新室 踏静子之 手玉鳴裳 玉如 所照公乎 内等白世
訓読 新室(にひむろ)を 踏み静(しづ)む子が 手玉(ただま)鳴らすも 玉のごと 照らせる君を 内(うち)にと申(まを)せ
私訳 新室を足踏み鎮める子が手玉を鳴らす 玉のように美しく周囲を照らすような立派な貴方を新室の中に御入り下さいと申し上げろ

 この歌は、通常の解説では結婚初夜の祝いの歌のように解説されていますが、歌の風景は「未通女」と「公」との初交です。それも、「公」に対しては「御座給根(いましたまはね)」や「白世(まをせ)」と敬語が使われていますから、若者同士の新婚初夜の風景とは違います。また、「公」は儀式の当日に外から招かれたような表現ですから、まず、旋頭歌であるこの歌は男の「褌祝」に対する女の「腰巻祝」での集団舞踏の祝歌です。
 つまり、集歌2351や2352の歌は、村の娘の「腰巻祝」の儀式を村中が総出で祝う舞踏の祝歌です。歌では初潮を迎えた娘の初交のために総出で新しい萱拭きの小屋を建てた上で、荒神鎮めの儀式までしています。そして、生娘が待つ新室に「公」が導かれるのです。この儀式を通過することで女童から娘になり、集団の男たちの「夜這い」の対象になる一人の成人の女性として扱われたと思います。
 ここで、山上憶良の貧窮問答の歌で示すように、庶民は家族で仕切りの無い掘っ立て小屋に集団で住むような情景ですから、古代では庶民は家への「夜這い」ではなく昼間の野合だったと思われます。したがって、「新室」は「産屋」と同じように、「踏静子之 手玉鳴裳」のような荒神鎮めの儀式を必要とする、女性のための特別の儀式だけの小屋です。
 参考に、この集歌2351や2352の歌での「公」が果たす役割が「腰巻祝」での「初交」であるならば、「腰結役」が「裳着の儀」で果たす役割と同じと思われます。すると、天智天皇の皇女の「裳着の儀」で大海人皇子が「腰結役」を行ったとしますと、場合によっては、初夜懐妊の事例はあったのではないでしょうか。

 さて、この妄想の下で、次の歌を見てみます。なお、紹介する順は逆になっています。

集歌3307 然有社 羊乃八歳叫 鑚髪乃 吾同子叫過 橘 末枝乎過而 此河能 下文長 汝情待
訓読 然(しか)れこそ 遥(よう)の八歳(やとせ)と 切り髪の 吾同子(よちこ)と過ぎ 橘し 末枝(ほつえ)を過ぎて この川の 下(しも)甫(そ)め長く 汝(な)し情(こころ)待つ
私訳 このようにして、ようやくの八歳の幼さない切り髪のおかっぱ頭の髪を伸ばし始めて肩まで伸びてうない放髪の幼さを過ぎて、橘の薫り高い末枝の花芽の時を過ぎて、この川の下流が広く大きく長いようにと、始めて女として貴方の情けを待っています。

 この集歌3307の歌で、女性は「三四歳の切り髪の時代から八年が経ち、橘の枝先に花芽が付く時期を過ぎました」と、自分の状況を詠っています。これは、次のような男からの歌に対する返歌です。

集歌3305 物不念 道行去毛 青山乎 振放見者 茵花 香未通女 櫻花 盛未通女 汝乎曽母 吾丹依云 吾叫毛曽 汝丹依云 荒山毛 人師依者 余所留跡序云 汝心勤
訓読 物思はず 道行き行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 香(にほひ)し未通女(をとめ) 桜花 栄(さかえ)し未通女(をとめ) 汝(な)れをそも 吾に依す云ふ 吾ともそ 汝に依す云ふ 荒山(あらやま)も 人し寄すれば 寄そるとぞ云ふ 汝し心ゆめ
私訳 花を是非に見ようと思わずに道を行き来ても、青葉の山を見上げるとツツジの花が芳しく香る未通女のようで、桜の花は盛りを迎えた未通女のようだ。そんな貴女は私を信頼して気持ちを寄り添え、つまらない私も同じように貴女を信じ気持ちを寄せる。手の入っていない未開の山も人が感心を寄せると、すぐに寄り来て手を入れると云います。ひたすら、貴女は私のことだけを想ってください。

 集歌3305の歌で、男は女を「香未通女」や「盛未通女」と表現しています。それも時間軸での「香」から「盛」へと成熟する「未通女」です。この男の成熟した「未通女」の表現に対しての、女自身を示す「橘末枝乎過而」の表現なのです。女は「裳着の儀」を済ましたことを、男に伝えたのではないでしょうか。つまり、男に対して「妻問ひ」の対象となる女になったことを宣言しての「汝が情待つ」です。
 ここで、もう一つ、この視線で次の歌を見てみたいと思います。

集歌2550 立念 居毛曽念 紅之 赤裳下引 去之儀乎
訓読 立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅(くれなゐ)し赤(あか)裳(も)裾引き去(い)にし姿を
意訳 立っても思い、すわっても思う。紅の赤裳の裾を引いて去って行った姿を。

 この集歌2550の「去之儀」は、集歌2883の歌から類推して「去って行った女性の姿」ですが、その女性を示す「赤裳裾引き」の対象を定めるのが難しい歌です。普段の解説では、去って行った女性を官女か巫女と想像するようです。

集歌2883 外目毛 君之光儀乎 見而者社 吾戀山目 命不死者
訓読 外目(よそめ)にも君し光儀(すがた)を見にはこそ吾が恋(こひ)止(や)まめ命死なずは
意訳 遠目にでも貴方の姿を見た時こそ、私の恋も静まるでしょう。それまでに私の命が絶えなかったら。

 ここで、集歌2550の歌を「裳着の儀」の宴での歌とすると、歌を詠った人物は婚約者の男のような立場になります。「裳着の儀」が終わるまでは、相手の女性は未成年ですから婚約者の男は風習に従い妻問うことはできません。したがって、明日からは男は正式に妻問うことが可能になりますから、その待ちに待った時間帯であれば、集歌2550の歌の「立ちて思ひ居てもぞ思ふ」と表現が生きてくると思います。ちょうど、次のような状況です。これも集歌2550の歌と同じように、婚約者である大伴駿河麿を迎えての坂上郎女の二嬢の「裳着の儀」の宴での歌と思われます。

大伴宿祢駿河麿娉同坂上家之二嬢謌一首
標訓 大伴宿祢駿河麿の同じ坂上家の二嬢(おとをとめ)を娉(よば)へる歌一首
集歌407 春霞 春日里之 殖子水葱 苗有跡云師 柄者指尓家牟
訓読 春霞(はるがすみ)春日(かすが)し里し植(うゑ)子(こ)水葱(なぎ)苗(なへ)なりと言ひし枝(え)はさしにけむ
私訳 今年、春霞が立つ季節に春日に住む私と貴女の幼い次女と婚約しましたが、水葱の苗のようで、供して夫婦事をするにはまだ早いと心配されていましたが、その早苗が枝を伸ばすように貴女の娘は、もう十分に女になりました。

 このように、「裳着の儀」やその宴の視線から万葉集の歌を見てみますと、少し、違った世界を想像出来ますし、集歌3305や3307の歌の事例のように、そのように理解した方が判り易い場合もあります。
 万葉の時代に「裳着の儀」や「腰巻祝」を経て、女性が成人になり「妻問ひ」や「夜這い」の対象になると考えると、判り易い歌のもう一つの事例があります。それが、集歌3822の歌で、この歌の歌詞の「髪上」は「腰巻祝」と同じ意味合いです。

古謌曰
集歌3822 橘 寺之長屋尓 吾率宿之 童女波奈理波 髪上都良武可
訓読 橘し寺し長屋に我が率(ゐ)寝(ね)し童女(うなゐ)放髪(はなり)は髪上げつらむか
意訳 橘の寺の長屋に私が連れてきて寝た童女放髪の髪型の少女は、もう、髪上げしただろうか。
右謌、椎野連長年脉曰、夫寺家之屋者不有俗人寝處。亦稱若冠女曰放髪丱矣。然則腹句已云放髪丱者、尾句不可重云著冠之辞哉
注訓 右の歌は、椎野連長年の脉(み)て曰はく「夫れ、寺家(じけ)の屋は俗人の寝る処にあらず。また若冠の女を称ひて『放髪丱(うなゐはなり)』といふ。然らば則ち腹句已に『放髪丱』といへれば、尾句に重ねて著冠(ちゃくくわん)の辞を云ふべからざるか」といへり。

 この集歌3822の歌の内容は、ある種の犯罪行為を示す歌です。「結髪祝」に関係する歌です。万葉集の歌が詠われた時代は、当たり前ですが、江戸期以降ではありません。そのために普段の解説で見られ歌詞の「髪上」の言葉には「婚姻」の意味はありません。この「髪上」は、「裳着の儀」や「腰巻祝」の意味合いです。
 ただし、左注にある渡来人の四比忠勇の子孫である椎野連長年の解説で、「童女放髪」がどんな年齢の女性を示しているか、まったく理解していませんので、ご注意ください。万葉集の編集者はそれを知っているからわざわざその解説を載せて、暗に歌の背景を説明させています。
 歌で「童女放髪」と「髪上」との差は、少女と女性との大きな違いがあります。渡来人の子孫である椎野連長年は気にしていませんが、渡来人や僧侶は別として「童女放髪」と寝る行為は大和人の風習ではありません。

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3 コメント

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Unknown (ゆたか)
2009-11-26 16:56:55
こんにちは、古典について相当お詳しいのですね。
ところで2550の歌は源氏で「下品な歌」と書かれていたから気になって調べたのですが、やはりそういう意味合いがあったのですね。
冷泉帝が玉鬘と寝たくてしょうがないのに、重々しい正式の夫がいるからできないという葛藤が、犯したいけどまだ未成年の少女だからできないという「居てもぞ思ふ」の歌と通ずるというので納得しました。
Unknown (穏子)
2021-05-05 10:59:00
平安時代中期の初夜を調べていて
ここに辿りつきました。
勉強になりました。
また、おじゃまいたします。
お礼 (作業員)
2021-05-06 14:27:41
穏子様

ここでのものは、与太話であり、酔論ですので注意をお願いします。
勧めは、源氏の若紫や、とはず語りの二条です。そちらの方は正統な学問ですので、よろしくお願いします。

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