たけちゃん活動・生活日誌

県議としての活動に追われてきましたが、引退後の生活の様子や、感じていることを発信しています・・・。

長野五輪から10年(4)

2008年02月09日 | Weblog

世界の舞台へ

 

 1988年6月1日、JOC総会において長野が日本の1998年冬季五輪競技大会立候補に選出されてからは、1989年10月12日に全国組織の「招致委員会」が設立され、1990都市2月12日にはIOCへの立候補届が提出され、こんどはオリンピック長野招致への本格的な招致活動がスタートしました。

 

 この場面での長野市議としての活動は、まず、IOC委員にも長野の五輪開催に対する熱意を盛り上げること、国内一本化へのJOC委員への働きかけの様には行きませんが、IOC委員が現地調査で長野を訪れる際の市民熱意のアピール、各種大会等が開催される場合のアピール等々でした。

 

 北京で開催されたアジア大会開会式にて

 


 しかし、私としては招致活動が世界の場に移った時、自分個人としては人脈がある訳でもなく、出来うることは議会の議連で決めた行事に参加するしかないと思っていました。

 

 そんな活動の中で、特に印象に残っているのは、1990年9月13日にIOC総会が東京で開催された時のホテルでのロビー外交や、同年9月20日~24日まで北京で開催されたアジア大会へ招致活動に行ったことです。
 特に、北京のアジア大会では韓国や中国のIOC委員との懇談が出来たことや、北京飯店前でのチラシ配布など行いました。
 こうした活動がどれだけ効果があったのかは疑問ですが、とにかく何かあれば、役割分担をしてブレザーに防止、ネクタイをして出かけて行くことが多くありました。

 

 北京・ホテル飯門店前での活動の様子

 

 そして、1991年6月15日(現地時間)、イギリスのバーミンガムで開催されたIOC総会において、5回目の投票でNAGANOが46票を獲得し、1998年のオリンピック冬季競技大会の開催地に決定した瞬間(日本時間午前3時28分)、私は善光寺の広場の前に設けられたテレビの大型画面の前で、サマランチ会長の「シィティー、オブ、ナガノ」の声を聞き、約3,500人の皆さんとバンザイをしていまた。

 

 この五輪大会招致決定後、同年11月11日に「財団法人長野オリンピック冬季競技大会組織委員会設立発起人会」(NAOC)が開催され、大会開催都市としての準備がスタートしました。

 

 実は、この年の9月22日には長野市議会議員選挙があり、私も3期目の当選をさせていただきました。


 そして、その後、私の地元朝陽地区や周辺に「開催概要計画書」により計画されていたエムウェーブやメディア村、アクアウイング、そして周辺道路整備等についての地権者対応や条件整備、大会開催後の地域の活性化対策、五輪関係施設が3つも存在する地域の議員として、受入体制等々について責任を負う立場になりました。
 また、市政全般についても大会開催や五輪施設整備、新幹線や関連道路整備、施設の後利用に対する財政負担問題等々について議会の様々な分野で係わるようになりました。


長野五輪から10年(3)

2008年02月08日 | Weblog

「夢の夢」が現実に。

 


 五輪招致が具体的に表舞台に出たのは、1985年3月25日に県議会で全会一致で招致決議し、同日長野市議会でも全会一致で招致決議を可決してからです。


 
 1998年1月26日、長野五輪直前に出版された「長野オリンピック騒動記」相川俊英著(草思社)という本がありますが、その25ページで批判的に、こう書かれています。

 

 「『五輪招致なんて夢の夢だった。どういういきさつで私が提案者になったのかすっかり忘れていたが、たくさん出る意見書のなかのひとついった受け止め方だったのではないか』竹内議員は当時をこう振り返った。ほかの議員もおそらく同様であろう。」

 

 

 この本が出版される何ヶ月か前に著者から取材があり、私は確かにそうお応えしたと思います。さらに補強しますと、招致決議の提案者は確かに私でしたが、当時私は一期目で所管の委員会の副委員長であり、委員会から他の決議か意見書等がある場合、委員会での可決の順番でまず委員長が本会議の提案者、次が副委員長との慣例があり、私がこの決議の提案者となったと思います。


 ただ、この時の印象は、自分も決議の採決に加わりながら、「本当にオリンピックが来れば良いな」という私の気持ちの中では「夢の夢」であったことも事実です。

 

 県議会・市議会の招致決議後、1985年12月には招致準備委員会が発足し、会場地の選定作業等について過去県内が統一できなかった反省を踏まえ、県主導で行うこと等を確認し、1986年6月に長野市を開催都市とし競技会場を山ノ内町や白馬村とすることを決定。
同年7月には長野市に招致委員会が発足しました。

 

 そして、県内の候補都市がまとまり、1986年11月24日、JOCへ立候補届を提出したことにより、「こんどこそオリンピックを長野へ」という「夢」の実現に向けての気運が高まって来ました。


 1988年(昭和63年)1月21日、私は当時の埼玉県と千葉県に在住するJOC委員お二人の自宅を他の長野市議と二人で訪問していました。
 その目的は同年6月1日のJOC総会で、長野への一本化をお願いするためです。

 

 過去の五輪招致で、信州人はまとまったことがなく、それ故に敗れて来たことを反省し、長野市議が月額一万円を出して招致活動を行うことを決め、その費用で議員が分担して、この日までは県内の市町村に署名の協力をお願いして来ました。


 これらの活動を通じて県内の自治体の皆様には心暖かくご理解いただき、市議会へは多くの県民の皆様の署名が集まり、1986年7月に発足していた長野市招致委員会を通じて県民の熱意としてJOCへ提出しました。

 

 県内市町村への招致署名要請活動の様子

 

 そして、1987年11月24日、JOCへ正式に「開催概要計画書」が提出されたのを受け、今後、国内候補都市して長野市が勝利するために、長野市議会が行動すべきことは何か検討した結果、JOC委員お一人お一人のお宅を訪問し熱意を表すことになったのです。

 

 この行動を行うに付けては、お土産をどうするか検討しましたが、「善光寺の御利益」を信じて「善光寺の唐辛子」(八幡屋磯五郎)を「気持ち」として持参しました。

 

 国内一本化へは、招致活動への県民や地元市民の関心の高さが不可欠と言われていました。
 そんな中で、長野市議会においては、他の立候補している国内都市は招致活動に対し市民がどの程度盛り上がっているのか分散して調査し、今後の対応を行うことになりました。
 その調査結果は、他都市と比較し長野県内の関心は高く、長野にとって有利なものでした。


 
 そして、1988年6月1日、JOC本部で行われたJOC総会で委員45人の投票で34票を獲得し日本の1998年冬季五輪競技大会立候補に選出されました。

 

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追 伸

 

 今日べて来たことは、私が所属していた長野市議会での主な活動を紹介したのであり、国内の一本化が市議会の活動があって実現したと言っている訳ではありません。
 もちろん、招致委員会の活動や多くの関係者、そして何よりも県民・市民の皆様の熱意の結果です。
 でも、私はこの時期、市議として1~2期目でしたが五輪招致決議をした議会として、党利や自己保身を乗り越え、議員が決めたことに責任を持って超党派で、その実現に向けて行動することの大切を学んだと思っています。


長野五輪から10年(2)

2008年02月06日 | Weblog

3度目の夢の実現。

 

 長野での冬季オリンピック大会の開催は、3度目の夢の実現でした。

 

 1回目は、1940年(昭和15年)の第12回五輪の開催都市として東京が決まり、当時のオリンピック憲章では「夏季大会開催国に冬季大会の選択権を与える」との規程にもとずき、最終的には札幌に決まった時でした。
 この時は、県外では日光、県内では志賀高原、菅平、霧ヶ峰、乗鞍が立候補し、中でも志賀高原が有力視されましたが、「開催都市の条件に満たない。」という理由で敗れました。
 しかし、東京・札幌開催は日中戦争が激しくなり、日本は開催地を返上しました。

 

 2回目は、昭和36年に第10回冬季大会に日本が立候補するにあたり再度、立候補地の選定が行われた時、他県では、札幌、日光、湯沢、山形、高山が、県内では候補地の一本化が出来ず、八方尾根、志賀高原、軽井沢、乗鞍高原が立候補したため、結局は国内候補都市として札幌が立候補することとなり、2回の招致活動を経て1972年(昭和47年)の第11回大会を開催しました。

 

 3回目の立候補は、ご存じの通り1998年の冬季大会の開催地決定に至りますが、その招致活動は過去2回の県内候補地が一本化出来なかったことが敗因であっただけに、県として「招致準備委員会」が設置(1985年)されるなど、周到な準備が行われ、開催都市に多額な負担を強いることへのIOCへの批判もあり、開催都市を長野市とし競技は長野市、白馬村、山ノ内町、軽井沢、野沢温泉村等で分散開催として、過去の「長野県がまとまらない歴史」を統合しました。

 


 一方、国内で他に立候補した都市は、盛岡市、山形、旭川の3市で、1988年6月1日のJOC(日本オリンピック委員会)臨時総会での国内招致都市一本化まで、大変な招致活動が行われました。

 

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追 伸

 

1998年の第18回冬季大会開催が長野に決まり開会式で、県内の各市町村の「祭り」(文化)が広く参加し世界に向けて紹介されたことは、これらの過去の歴史から、まず県内が一本化されたことへの感謝の演出であったと私は思います。


 この開会式は、世界大会としてでなく、長野県民が様々な課題を乗り越え「信濃の国」を合唱した大会であったと今でも思っています。

 


長野五輪から10年(1)

2008年02月05日 | Weblog

長野オリンピック開催から10年を迎えます。

 

 1998年2月7日から22日まで開催された長野冬季オリンピックから、10年を迎えようとしています。

 

 開催から10周年をむかえるに当たって、マスコミでは既に各種特集を組んで報道していますが、私にとっても長野冬季五輪の開催と施設の後利用問題、開催都市としてのその後の街づくり等については、市議時代に真剣に取り組んだ課題であり、大会の開催招致に積極的に係わった者として、大会後10年間の検証、そして、今後の課題について意見を述べる責任があると思っています。

 

 というのも、10年という月日は短いようで長く、招致活動や開催が決まって以降の施設の後利用等について当時係わった人も少なくなり、現在の長野市議で当時一緒に活動した方は、ほんの僅かな議員となっていますし、まして、当時の大会開催決定後に市が設置した「施設後利用検討委員会」の委員として参加していた議員で、現在も市議や県議の立場で活動している人は、さらに限られているからです。

 

 また、そもそも長野五輪招致決議を長野市議会として可決した時の提案者も、議事録上私となっており、なおかつ五輪開催中の市のオリンピック局を所管する総務委員会委員長であったこと等から、その履歴をたどって、最近、私へのマスコミの取材が多くなっていることも、その理由です。

 

 昨年末、あるマスコミの記者から、「長野オリンピックから10年周年をむかえるに当たって特集を組みたいので、当時の状況を取材したい。」との申し入れがあり取材に応じました。

 この取材に対応するため、当時の招致活動や施設の後利用問題等について客観的な資料による説明が必要と思い、我が家に残っている当時の資料を探しました。

 すると、途中で我が家では引っ越しがあったにも係わらず、この課題についての私の強い思いがあってか、多くの資料が残っていました。【写真

 

 

 私は五輪帳簿消却問題に係わっていませんし、今回、出てきた資料にも、関係する資料はありませんでした。

 

 しかし、長野五輪開催から10周年をむかえる節目の今、「五輪帳簿消却問題」等により、暗い影だけを宣伝するだけでなく、今後の長野県・長野市がオリンピックやパラリンピックを開催したことを今なお有効に生かしながら発展を模索することが必要と考え、今後、何回に分けて思いを述べたいと思います。  


長野五輪から10年の検証と今後。

2008年02月03日 | Weblog

長野オリンピック10周年記念事業が行われます。

 

 数週間前に「長野オリンピック10周年記念事業実行委員会」から、2月9日に行う「長野オリンピック10周年記念式典」の案内状が届きました。

 

 その案内状には「スポーツを通じ環境の保護、まちづくり、スポーツと文化・芸術の融合など、未来に向けさまざまなメッセージを伝えながら、これからの時代を担う子どもたちに夢と希望を与えることを目的に、長野オリンピック10周年記念事業を計画しております。」と記載されていました。

 

 

 私はこの案内状を見て、早くもあの思い出深い長野オリンピックから10年が経過しようとしているのかと実感しながら、自分の人生にとって時の過ぎる早さを痛感するとともに、この10年で長野オリンピック開催を積極的に誘致した当時市議として、その活動の検証を行う必要性を感じました。

 次回以降のブログの更新については、自分の過去の活動の整理のためにも、この課題について若干整理して見たいと思っています。

 

 さて、今日はご案内頂いた長野オリンピック10周年記念事業の主な内容を紹介します。

 興味のある方は、ご参加下さい。

 

 

 長野オリンピック10周年記念式典

 2月9日(土)13:00-長野市ビッグハット

 内容 13:00~13:55 式典(五輪選手によるトーク等)

     15:00~長野五輪メモリアルカップ(カナダ×日本選抜)

 定員 3,000人(入場無料・事前申し込み必要)

 

 スポーツと環境トークショー

 2月11日(月)13:00-若里市民文化ホール

 内容 松岡修造さん 大林素子さんほか

 定員 600人(当日先着順 入場無料)

 

 森山良子10周年記念コンサート

 2月16日(土)18:00-県民文化会館大ホール

 定員 2,000人(入場料5,500円・全席指定)

 

 スポーツとまちづくりシンポジウム

 2月17日(日)13:30-若里市民文化ホール

 内容 宮澤ミッシェルさん 地元スポーツクラブ代表ほか

 定員 600人(当日先着順・無料)

 

 記念写真展・メモリアルグッズ大集合

 2月9日~11日 トイーゴ4階

 内容 当時の写真パネル、記念グッズ、お宝品等の展示等。

 

 このほか、トップアスリートによる冬季スポーツ教室等も行われます。


議会基本条例

2008年02月01日 | Weblog

「議会基本条例」研究会が開催される。

 

 2月1日、長野県議会の「議会基本条例研究会」が開催され、出席しました。

 この会は、昨年12月議会で議長の諮問機関として設置され、本格的に研究活動を行うのは今回がはじめてでした。

 

 この日の研究会には、前回私から要望してあった既に条例を制定している三重県議会や北海道栗山町議会の条例の策定経過と本県議会の会議規則等との比較、他県の条例制定への取り組み状況、都道府県議長会が地方自治法改正に向けて取り組んでいる内容等について事務局から資料が提出され、その勉強会を行った後、活発な論議が行われました。

 

 特に、委員会等での議員相互の討論や理事者の「反問権」について、様々な意見が出されました。

 

 次回は、2月議会中に行い、他の福島県須賀川市議会や湯河原町議会、伊賀市議会などの条例や本県の松本市議会で取り組んでいる状況、一方執行部側として「自治基本条例」を制定している特徴的な比較や神奈川県が準備している条文の内容などについて研究を行うこととしました。

 

 また、今後研究会を続けて行く過程では学識経験者を交えた勉強会の開催や全議員を対象にした勉強会の開催、県内市町村議会議員も対象にした研修会の開催も企画して行くことになりました

 

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追伸

 

 それにしても、日々の経つのは早いですね。

 もう2月です。

 2月20日から開催が予定されている2月定例県議会に向けて、一般質問をぼちぼち考えなければなりません。

 皆様からもご意見を募集します。