昨夜逮捕された、被害者宅の近所に住んでいた男。ロリ変態だと決めつけていたらそうでもないような? 否、そうなのか? 女児に車が接触し、動揺して車に引き入れたと供述しているそうで。どこまで本当かは謎。車にぶつかって云々というなら、事故として直ぐに通報するだろう。救急車を呼ぶなり、人に助けを求めるなりをする筈。犯行当日及びその後も無断欠勤をしていたのもおかしい。どちらにしてもまともな人なら犯罪は犯さない。どこかイカレテいるからこうなった。テレビで見ている限り、新興住宅地なのか小綺麗な家が多い。加害者の親もローンを組んで家を建てたのではないか。いらん心配だけど彼らもまた被害者。罪を犯すと犯人だけの問題にとどまらない。天涯孤独ならともかく、必ず家族のその後をも巻き込む。両親と兄弟の5人家族の加害者。その人たちの今、そしてこれからの生活も彼は奪ったのだ。罪は重く、深い。
繰り返される、女児帰宅時の連れ去り。昨年の保護者会会長が犯人だった事件は朝の出来事だったか。朝っぱらから変人がいるなんて想像出来ないが、それよりも想像出来なかったのは保護者会会長だった点。今回の新潟市で起きた下校時の連れ去り及び殺人遺体遺棄事件の犯人はどんな人物なのか。事件から1週間。今朝から重要参考人を警察が任意聴取中。近所に住む20代の男。その人が犯人であって欲しいと多くが望むところだろう。冤罪になってはいけないが慎重にかつ迅速に解決を、と願う。私自身も小学校の下校時に変人にいかがわしい写真数枚を見せられた事があった。昔の話だが、非日常的な事だったので今でも当時を事を覚えている。女友達とふたりで下校途中、いきなり現れたお兄さん。幼い子を誘うには変人である事を悟られてはいけないので身なりには気を遣う、とその道の専門家の指摘があったが、正にその通り。こざっぱりとした服装、スーツを着用していたと思う。帽子やサングラス、マスクはなし。細身で印象に残らない顔。見せられたエロ写真にインパクトがあり過ぎて顔を忘れたのかも知れないが。どこにでもいつの時代にも変人は出没する。被害の度合いの大小はあるが、何事もなく大きくなった人なんているのか? 女児の冥福を祈るとともに、似通った犯罪が起こらない事を願いたい。
母の日に夫から妻へ贈り物をする必要があるか否か。どーでもいい話題だが、ワイドナショーで言い合いをしている場面を見た。話し合いではなく言い合いになってしまうのはどうしてなのだろう。互いの意見を尊重しないからか? それはともかく、他の記念日(結婚記念日など)には🎁が欲しいが母の日にはいらないとの答えが多かったような。私自身もそう思う。そもそもあんたの母親じゃないし。ゲストのタレントは妻を「ママ、ママ」と公言する人。その言い方そのものがおかしいと別の外国人(?)ゲストに非難されていた。そこも同意したい。アホな人ほど配偶者を「パパ」「ママ」「お父さん」「お母さん」と言い合い、互いに返事をするように思う。変でしょ、あれは。日本人特有の言い方だ。連続ドラマ”あなたには帰る家がある”でも玉木パパと中谷ママが呼び合っている。今やそれが主流だから? ドラマ内はさておき、現実の生活ではかっこ悪いから直ぐにでも止めた方がいいと思う。
連続ドラマは殆ど見ない。今シーズンも面白いものはなさそう、と決め込んでいた。ところが、チラ見した金曜夜のドラマに少しハマった。ふた組の異常な夫婦が絡み合うドロドロ系。もっともひと組目の玉木宏さんと中谷美紀さんの夫婦はノーマル。普通の夫婦関係だったダンナが、結婚記念日に(仕事上の)客の奥さんとデキてしまうと言う話だけは荒唐無稽。何故客の奥さんに魅かれたのかがイマイチ分からないし。ふた組目夫婦のユースケ・サンタマリアさんと木村多江さんが演じる夫婦、これはかなり変。ふたりには表情に変化がない。いつも仏頂面のダンナとニコリともしない妻。何が楽しくて生きているのやら。そこに現れた玉木ダンナに仕掛ける木村。良妻賢母を装っていても実態はこんなもの、とでも言いたいのか。ドラマの内容とは無関係だが、中谷さんの目元の小じわがとても気になる。文句の付け所のない美人だが、小じわは隠しきれないのか😢。比較するのも失礼だが、地味顔の木村さんにはさほど小じわを感じない。同年代とお見受けするがこの違いは何?
大型連休と呼ばれる春の連休が終わった。国会が停滞していた問題は何事もなかったかのように(?)解決。野党にはここで頑張って欲しいがどうなるのか。財務省職員のひとりが起こしたセクハラ問題は、スッキリしないまま終わった。それに関しては(意識が低い)麻生大臣が問題発言をし、反感をかっているがこれもまたうやむやのままに終わるのだろうか。セクハラを犯罪ではない、と捉えるのは間違いではない。そう考える大臣の気持ちは全く理解できない。もっとも男たちの多く、特に高齢者ほど彼の考えに近いのかも知れない。男と女の考え方の違いはそこにある。これはどこまで行っても互いに分からない部分だ。しかし、互いに分かろうとする努力は必要。それをする、しないで世の中は少し変わる。